それぞれの傷跡
五日目の夜、ルシアンが倉庫に来ると、シーアが床に座って壁に背を預けていた。膝を抱えて、目を開けたまま、何かを考えている顔だった。
ランプはついていた。笛は胸元にある。異常はない。
「何か食べた?」
「昼に、パンを」
「それだけ?」
「お腹が、あまり空かなかった」
ルシアンは鞄から夕飯の包みを出した。近くの屋台で買ってきたもので、温かいうちに持ってきたかったが、少し冷めてしまっていた。
「食べて。空腹じゃなくても」
シーアは受け取って、黙って食べ始めた。ルシアンは椅子に座って、自分の分を広げた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
食べ終わったところで、シーアが口を開いた。
「昼間、夢を見た」
「どんな」
「白い部屋の夢。ただ、いつもと違った」
「違った?」
シーアは膝の上で手を組んだ。
「いつもは痛い夢を見る。あの部屋でされたことの夢。でも今日は、それより前の夢だった」
ルシアンは何も言わずに続きを待った。
「野原にいた。誰かと一緒に。顔は見えないけど、手だけ見えた。大人の手で、少し荒れていた。その手に引っ張ってもらって、走っていた」
「楽しかった?」
「……うん。目が覚めた時、少し泣いていた」
シーアは事実として言った。泣いていたことを恥じる様子も、感傷に浸る様子もなかった。ただ、そうだったという報告のように。
「楽しい夢で泣くことも、ある」
ルシアンが言うと、シーアは少し考えた。
「戻れないから?」
「たぶん」
「ルシアンも、そういう夢を見る?」
ルシアンは少し間を置いた。
「たまに」
「どんな」
「……家族と、食事してる夢。たいした内容じゃない。ただ飯を食ってるだけ」
「それで、目が覚めたら泣いてる?」
「泣かない。ただ、しばらく動けない」
シーアはルシアンを見た。
「家族は、戦争で?」
「うん」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。シーアのせいじゃないから」
静かになった。ランプの炎が少し揺れた。
ルシアンは腕時計のベルトを親指でなぞった。いつもの癖だ。シーアがその手元を見ていた。
「それ、大事なもの?」
「父親の形見。他には何も残らなかったから」
「時計師だったの、お父さんも」
「うん。小さい頃から横で見てたから、自然に覚えた」
「……好き? 時計を直すのが」
ルシアンは少し考えた。
「嫌いじゃない。壊れたものが動き出す瞬間が、悪くないと思う」
「どんな感じ?」
「歯車が全部噛み合って、針が動き始める。それだけのことなんだけど——なんか、ちゃんとしてる、って感じがする」
うまく言えなかった。シーアは黙って聞いていた。
「時間って、戻らないじゃないですか」
シーアが言った。
「うん」
「でも時計は、ちゃんと時間を刻んでいく。止まっても、直せば、また刻み始める」
「そう」
「……それが、好きなんじゃないかな。ルシアンが時計を直すのが嫌いじゃない理由」
ルシアンは少し面食らった。自分でそう考えたことはなかった。でも言われてみると、否定できなかった。
「……買いかぶりすぎ」
「そうかな」
「そうだよ」
でも、そうじゃないかもしれないと、心のどこかで思っていた。
シーアが伸びをした。それからルシアンを見て、
「見せてもらえる?」
「何を」
「時計を直すところ。今度、工房で」
工房には当分戻れないかもしれない。でも、いつかは戻る。そのいつかを前提にした言葉だということが、なんとなくわかった。
「……気が向いたら」
「うん」
シーアは満足したように目を細めた。
その顔を見て、ルシアンは気がついた。
今初めて、シーアが笑った。
かすかなものだったが、確かに笑っていた。翼も鱗もなく、古いコートを羽織って、膝を抱えた小柄な姿で——それでも笑うと、場所に少し温度が生まれる気がした。
ルシアンは視線を逸らした。
「そろそろ寝て。傷、まだ全快じゃないから」
「ルシアンは?」
「もう少ししたら工房に戻る」
「……今夜も、近くにいる?」
「いる」
シーアは頷いた。毛布を引き寄せて、横になった。
ルシアンはランプの火を小さくして、椅子に座ったまま、少しだけ目を閉じた。
シーアの言葉が、頭の端に残っていた。
止まっても、直せば、また刻み始める。
自分で言ったことなのに、他人の言葉みたいに聞こえた。
波の音が遠く聞こえた。港町の夜が、静かに更けていった。




