夜の移動
日が落ちるのを待った。
港町の夜は早い。商家が店を閉め、酒場に人が流れ込み、路地から昼間の喧騒が引いていく。その代わりに別の人間が動き始める——表を歩けない人間、見られたくない荷物を運ぶ人間、ルシアンみたいな人間。
夜の八時を回ったところで、ルシアンは立ち上がった。
「行くよ」
シーアは頷いた。
ルシアンの古いコートを着せた。丈が長すぎて手が隠れるくらいだったが、白い髪を隠すためにフードを被せれば、遠目には普通の人間に見えた。普通の、少し小柄な。
「フードは被ったまま。僕の少し後ろを歩いて。離れすぎず、近づきすぎず」
「わかった」
「走るって言っても、今夜は走らない。走ったら目立つ」
「わかった」
「軍の人間を見かけたら、僕の袖を引いて。声は出さないで」
「わかった」
返事が早い。飲み込みが早いのか、それとも指示に従うことに慣れているのか。たぶん後者だとルシアンは思って、少し、胸の引っかかりを感じた。
裏口から出た。
夜の路地は濡れていた。昼間に雨が降っていたから、石畳がまだ光っている。ルシアンは足音を抑えながら歩いた。後ろでシーアの足音がついてくる。思ったより静かだ——猫みたいな歩き方をしていた。
最初の角を曲がったところで、酔っ払いが二人、壁に寄りかかっていた。ルシアンはペースを変えずに通り過ぎた。酔っ払いはこちらを見たが、特に何も言わなかった。
二本目の通りに入ったところで、シーアが袖を引いた。
ルシアンは立ち止まらずに、さりげなく路地の陰に入った。シーアが示した方向を見る。
通りの向こうに、二人組の男がいた。軍服ではないが、立ち方が軍人のそれだった。背筋が妙に真っ直ぐで、周囲への目配りが習慣になっている。
「よく気づいた」
小声で言った。シーアは答えなかった。フードの陰で、息を殺していた。
男たちが通り過ぎるのを待った。一分ほどかかった。足音が遠ざかったのを確認してから、ルシアンは再び歩き始めた。
迂回路を使った。遠回りになるが、目的地まで大きな通りを避けて行けるルートがある。港で育ったから、この街の裏道は大体頭に入っていた。
歩きながら、後ろのシーアの気配を確認する癖がついていた。足音、呼吸、ついてきているかどうか。三日間で、なんとなくシーアの気配の感じ方を覚えてしまっていた。
倉庫街に入ると、人の気配が薄くなった。古い石造りの倉庫が並んでいて、現役で使われているのは半分くらいだ。残りは廃倉庫か、表には出せない荷物の置き場になっている。
目的地は一番奥の倉庫だった。
扉の鍵は南京錠で、ルシアンはそれを手早く開けた。時計師の指先は細かい作業に慣れている——鍵の構造を読むのも、それほど時間はかからない。
「入って」
中は暗かった。ルシアンがランプに火を入れると、古い木箱と棚が浮かび上がった。奥に小さなテーブルと椅子が二つ、簡易的な寝台が一つ。埃っぽいが、風は通らない。
「ここ、誰の?」
「昔お世話になった人の。今は使ってないから、たまに借りてる」
「勝手に?」
「……鍵は預かってる」
シーアはそれ以上聞かなかった。フードを外して、周囲を見回した。ランプの光の中で、白い髪が揺れた。
ルシアンは鞄から荷物を出して、棚に並べた。食料、水、薬。二、三日分はある。
「しばらくここにいて。僕は昼間は工房に戻る。夕方にまた来る」
「一人で?」
「昼間は動かない方がいい。ここなら簡単には見つからないから」
シーアはテーブルの椅子に座った。膝の上で手を組んで、ランプの炎を見ていた。
「怖い?」
ルシアンが聞くと、シーアは少し考えた。
「……一人は、慣れてる」
慣れている、という言葉の重さが、ルシアンには少しわかった。慣れているというのは、好きということじゃない。慣れざるを得なかっただけで、それを好きだと思ったことは一度もない。
「何かあったら、この笛を」
小さな金属の笛をテーブルに置いた。
「吹いたら、聞こえる距離にいる?」
「工房からは聞こえない。でも、夜はここの近くにいる」
シーアが笛を手に取った。小さな手の中で、それは少し大きく見えた。
「……ルシアン」
「何」
「なんで、そこまでするの」
真っ直ぐな質問だった。ルシアンは答えを探した。
得はない。リスクはある。軍の残党に目をつけられたら、時計師として生きていくことが難しくなるかもしれない。ガレットの言う通り、首を突っ込まないのがこの街の正解だ。
わかっている。全部わかっている。
「……さあ」
結局それしか出てこなかった。
「さあ、って」
「わからない。理由を考えたことがない」
嘘ではなかった。本当に考えていなかった。考えたら、たぶん、やめた方がいいという結論になる気がしていたから、考えないことにしていた。
シーアはルシアンを見ていた。その目が、また何か言いたそうだった。
でも今夜は、何も言わなかった。
ただ、笛を、そっと胸元に仕舞った。
「戸締まりは、内側から掛けて。扉の鍵は僕が持ってるから、外からは開けられない」
「わかった」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
扉を閉めた。外から南京錠をかけた。
倉庫街の夜は静かだった。遠くで波の音がする。港の方から、時々、汽笛が低く鳴った。
ルシアンは来た道を引き返しながら、腕時計を見た。夜の九時半。工房に戻れば、まだ少し作業できる。
笛の音が聞こえる距離、と言った。
それが意味することを、あまり深く考えないことにした。考えたら、また、答えが出てしまう気がしたから。
足音を殺して、路地を歩いた。
夜の港町は、相変わらず、潮と油と錆の匂いがした。




