港町の不文律
四日目の朝、工房の扉を誰かが叩いた。
ルシアンが開けると、顔見知りの男が立っていた。ガレットといった。四十がらみで、首に錨の刺青があって、港湾の荷下ろし仕事と情報の売り買いを半々でやっている。ルシアンが港町で生き延びてこられたのは、こういう人間との繋がりがあったからだ。
「よう、時計屋」
「何」
「愛想ないねえ相変わらず」
ガレットは扉の前で肩をすくめた。中には入ろうとしなかった。それがこの街の礼儀だ——招かれない限り、敷居は跨がない。
「軍の残党が動いてる。昨夜から」
ルシアンは表情を変えなかった。
「何を探してる」
「さあね。ただ、港区一帯を虱潰しに当たってるらしい。お前んとこにも来るかもしれないと思って、一応な」
「わざわざ教えに来たの」
「先月の懐中時計、腕がよかったから。お礼のつもりだよ」
ガレットはそれだけ言って、踵を返した。路地の角を曲がる前に一度振り返って、
「首突っ込んでないよな」
と言った。
「突っ込んでない」
ガレットは何も言わずに消えた。
ルシアンは扉を閉めて、振り返った。
シーアが作業台の陰に隠れていた。正確には隠れようとしていた——作業台はそこまで大きくないので、完全には隠れきれていなかったが、気配を消そうとしているのはわかった。
「出てきていい」
シーアがそろそろと出てきた。
「聞こえてた?」
「……うん」
「軍の残党、心当たりある?」
シーアは少し考えてから、頷いた。
「白い部屋に、軍の人間が出入りしてた。たぶん、そっちだと思う」
「研究施設と軍が繋がってるわけだ」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって言ってる」
ルシアンは作業台に腰を下ろして、腕を組んだ。状況を整理する。軍の残党がシーアを探して港区を当たっている。このまま工房に置いておけば、遅かれ早かれ踏み込まれる。
「今夜、場所を移す」
「どこに」
「知り合いのところ。倉庫街の奥で、あまり人が来ない」
シーアはルシアンを見た。
「……迷惑じゃないの」
「迷惑だよ」
「なのに」
「なのに、としか言いようがない」
シーアはまた黙った。このパターンには三日間で慣れた——シーアは感謝や疑問が言葉より先に顔に出る。それを処理するのに少し時間がかかる。
ルシアンは立ち上がって、棚から小さな鞄を出した。必要なものを詰める。工具、金、予備の薬。シーアの分の着替えは——自分の古いシャツしかないが、仕方ない。
「あなた、歩ける?」
「歩ける」
「走れる?」
シーアは少し間を置いた。
「……たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「走れる。たぶん」
答えは変わらなかった。ルシアンは小さく息を吐いた。
「夜になったら出る。それまでは窓から離れて、音を立てないで」
「わかった」
「竜に戻れそうなら戻らないで。目立つから」
「……戻れるかどうか、まだわからない」
「なら好都合」
準備を済ませて、ルシアンは預かっている時計の修理を再開した。今日中に仕上げておかないと、依頼人への言い訳が面倒だ。
シーアは邪魔をしなかった。椅子に座って、膝を抱えて、時計の音を聞いていた。時々ルシアンの手元を見ていたが、話しかけてこなかった。
昼過ぎに、もう一人来た。
今度は扉ではなく、窓だった。裏窓をノックする音がして、ルシアンが開けると、十代半ばくらいの少年が外に立っていた。マルコという、港で雑用をしている孤児だ。ルシアンと同じ育ちといえば同じ育ちで、時々使い走りを頼んでいた。
「兄ちゃん、軍の人らが来てる」
「どのへん」
「二本隣の通り。三人組。聞き込みしてる」
「わかった。ありがとう」
銀貨を一枚渡すと、マルコは消えた。
ルシアンは窓を閉めて振り返った。シーアが立っていた。顔色が少し変わっていた。
「聞こえた」
「うん」
「怖い?」
シーアは少し考えた。
「……怖い、というより」
「というより?」
「捕まったら、またあの部屋に戻される。それが、嫌」
怖いという感情よりも、具体的な拒絶だった。ルシアンはそれを聞いて、なんとなく、胸のあたりに何かが引っかかった。
うまく名前のつけられない感覚だった。
「戻さない」
気がついたら言っていた。
シーアが目を丸くした。ルシアンは視線を逸らした。
「……戻したら、色々面倒だから。それだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
シーアはしばらくルシアンを見ていた。
それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。笑ったのかどうか、一瞬すぎてわからなかった。
「……うん。わかった」
ルシアンは作業台に向き直った。
時計の歯車が、静かに嚙み合っている。欠けた一枚を補えば、また動き出す。それだけのことだ。
それだけのことだ。
自分に言い聞かせながら、ルシアンは工具を握り直した。窓の外から、遠く、軍靴の音がした。




