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白亜の竜と時計師の僕  作者: 紅生姜愛好家
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名前の欠片

 三日経った。

 熱は二日目の夜に下がった。シーアは三日目の朝には自分で起き上がれるようになって、暖炉の前から作業台の椅子に移動できるくらいには回復した。翼の傷はまだ塞がりきっていないが、化膿はしていない。

 問題は、竜に戻っていないことだった。

 正確には、戻れないのか戻らないのか、ルシアンにはわからなかった。シーアに聞いても「わからない」としか返ってこなかった。ただ、人間の形でいる方が体に負担が少ないのかもしれない——竜の時より呼吸が楽そうだった。

 三日間で、少しずつわかってきたことがある。

 シーアは口数が少ない。でも無口なのとは違う。何かを見ていると必ず何かを思っていて、それが時々言葉になって出てくる。出てくる時は唐突で、脈絡がなくて、でも的外れではない。

 食欲はある。好き嫌いは今のところ見当たらない。ただ、熱いものを口に入れた時だけ、少し目を丸くする。驚いているのか喜んでいるのか、たぶん両方だとルシアンは思っていた。

 時計の音が好きらしい。眠る前に目を閉じて、部屋中の時計の音を聞き分けようとしている。

 そして、記憶がない。

 断片はある、とシーアは言っていた。三日目の夜、ルシアンが約束通り話を聞こうとすると、シーアは少し考えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。

「白い部屋」

 最初にそう言った。

「ずっと白い部屋にいた。窓がなかった。外の音は聞こえたけど、外には出られなかった」

「施設?」

「わからない。でも、たくさん人がいた。白い服を着た人たち」

 研究施設か、軍の管理下か。ルシアンはそう当たりをつけたが、口には出さなかった。

「痛いことが、よくあった」

 シーアは淡々と言った。感情を乗せていないのか、感情がないのか。たぶん前者だとルシアンは思った。感情を乗せると話せなくなるから、乗せないようにしているのだと。

「逃げたのは、いつ」

「……一週間くらい前、だと思う。よく覚えてない」

「どうやって」

「隙があった。詳しくは——」

 シーアは少し止まった。

「詳しくは、覚えてない。気がついたら外にいて、走ってた」

 嘘ではないと思った。ただ、記憶が飛んでいる部分があるのかもしれない。ルシアンは続きを待った。

「名前は」

「……ヴァンデル、という音だけ、頭に残ってる」

「名字?」

「たぶん」

「下の名前は」

 シーアは首を振った。

「ない。思い出せない。白い部屋では名前で呼ばれなかったから」

 何と呼ばれていたのか、とは聞かなかった。聞かなくても、なんとなく想像がついた。番号か、コードネームか、そういうものだろう。

「じゃあしばらくシーアでいい」

「……うん」

「ヴァンデル、って名字だけ覚えてるのは、なんで」

 シーアはしばらく黙っていた。暖炉の火を見ていた。

「誰かが、呼んでくれてた気がする」

「白い部屋で?」

「もっと前。白い部屋に来る前の、もっと前の話だと思う。でも顔が見えない。声も、はっきりしない」

 家族か、それに近い誰かだろうとルシアンは思った。

 思って、それ以上考えるのをやめた。自分にも似たような記憶はある——顔が見えなくなった人間の、声だけが残っている記憶。それを掘り起こしても、いいことはなかった。

「追ってくるよね、その白い部屋の人たち」

「……来ると思う」

「軍関係?」

 シーアの指が、膝の上でわずかに動いた。

「わからない。でも、軍の人間がいた。白い服の人たちとは別に」

「ややこしいね」

「ごめん」

「謝らなくていい。ただ、状況を把握したかっただけだから」

 ルシアンは腕時計を見た。夜の十時を過ぎていた。

「今日はもう寝て。傷、まだ完全には塞がってないから」

「……ルシアンは」

「もう少し作業する。預かり物があるから」

 シーアは立ち上がりかけて、少し足元がよろついた。ルシアンは思わず手を伸ばして、肩を支えた。シーアが顔を上げる。近い距離で目が合った。

 ルシアンは一拍遅れて手を引いた。

「……ありがとう」

「別に」

 シーアは毛布を持って、暖炉の前に戻った。横になって、目を閉じた。しばらくすると、寝息が聞こえてきた。

 ルシアンは作業台に向かって、預かっている置き時計を広げた。歯車を一枚一枚確認しながら、欠けているものを探す。細かい作業だ。目を凝らさないといけない。

 でも今夜は、なかなか集中できなかった。

 ヴァンデル。

 誰かに呼ばれていた名前。顔も声も思い出せない誰か。

 ルシアンは工具を置いて、腕時計のベルトを親指でなぞった。

 戦争が終わってから五年が経つ。港町には今も、いろんなものが流れ着く。人も、荷物も、秘密も。流れ着いたものに関わるなというのが、この街の不文律だ。

 わかってる。

 わかっていた。

 それでも、ルシアンは再び時計の部品に目を落として、作業を続けた。暖炉の火が揺れて、シーアの白い髪をほんの少し、橙色に染めた。

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