依頼と不在と、帰る場所
依頼は二件とも、港の近くだった。
一件目は船乗りの懐中時計。竜頭が折れていて、ゼンマイが巻けなくなっている。部品を持ち合わせていたので、その場で三十分ほどで直せた。二件目は商家の置き時計で、こちらは文字盤の歯車が一枚欠けていた。預かって工房で直すことにした。
全部で二時間もかからなかった。
なのにルシアンは、帰り道を少し遠回りした。
理由は考えないことにした。市場で食材を買った——パンと、スープの材料と、果物を少し。熱がある時は消化のいいものがいいらしい、という知識がどこから来たのか自分でもわからなかったが、とにかくそういうものを選んだ。
工房の扉を開けると、中が静かだった。
静かすぎて、一瞬だけ嫌な予感がした。いなくなったか、あるいは——
「……おかえり」
暖炉の前から、声がした。
シーアは毛布を体に巻きつけたまま、壁に背を預けて座っていた。膝の上に、ルシアンの時計がひとつ乗っている。修理待ちの棚から取ったらしい。
「触った?」
「……見ただけ」
「本当に?」
「本当に」
シーアは時計をそっと床に置いた。壊していないことを証明するように、丁寧に。ルシアンは受け取って確認した。確かに、何も変わっていなかった。
「熱は」
「さっきより、ましな気がする」
昨夜よりも声がはっきりしていた。ルシアンは荷物を作業台に置いて、体温計を探した。
「測る」
「……また?」
「朝より上がってたら困るから」
シーアは少し間を置いてから、腕を差し出した。大人しく測らせた。三十七度八分。朝より少し下がっている。
「下がってる」
「そう」
「よかった」
言ってから、なんとなく照れくさくなって、ルシアンは買ってきたものを棚に仕舞う作業を始めた。背中越しに、シーアの視線を感じた。
「……ねえ」
「何」
「それ、全部食べ物?」
「そう」
「誰の分」
ルシアンは手を止めた。
「……二人分。それ以上でも以下でもない」
シーアはしばらく黙っていた。
「ありがとう」
静かな声だった。感謝の言い方を知っているのか知らないのか、たどたどしくも芝居がかってもいない、ただ真っ直ぐな声だった。
ルシアンはパンを棚に押し込みながら、
「別に」
と言った。我ながら愛想のない返しだと思ったが、他の言葉が出てこなかった。
スープを作った。昨夜よりも具を多くして、火を弱めてゆっくり煮た。シーアは暖炉の前から動かず、ルシアンが鍋をかき混ぜる様子をずっと見ていた。
「時計師なのに、料理もするんだ」
「しないと死ぬから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
椀に盛って渡すと、シーアは両手で受け取った。昨夜は顔を近づけて飲んでいたが、今日は椀を持ち上げて、人間らしい飲み方をしていた。少し、様子が違う。
「食べ方、知ってるんだね」
ルシアンが言うと、シーアは椀から顔を上げた。
「……なんとなく、体が覚えてる。頭はよく、わからないけど」
「記憶がないの」
「断片はある。でも繋がらない」
それ以上は聞かなかった。聞いても今のシーア自身が答えを持っていないなら、聞くだけ酷だ。
二人で黙ってスープを飲んだ。時計の音が部屋を満たしていた。シーアはその音を気にしている様子だった——時々、耳が動く。
「時計が気になる?」
「……全部、音が違う」
「当たり前でしょ。作った人も、年代も、仕組みも違うんだから」
「全部わかるの」
「大体は」
シーアはまた耳をそばだてた。目を閉じて、どこかの時計の音を聞き分けようとしているのかもしれない。その横顔が、なんとなく子どもみたいだとルシアンは思った。
思って、少し居心地が悪くなった。
「あのさ」
「何」
「いつまでここにいるつもり」
シーアの目が開いた。ルシアンを見た。
「……わからない」
「わからないって、出て行く場所がないってこと?」
「たぶん」
「追われてるよね、あなた」
シーアの体が、少し固まった。
「翼の傷、あれ自分でやった傷じゃないでしょ。逃げてきたんだと思うけど」
「……うん」
「誰に」
シーアは答えなかった。答えられないのか、答えたくないのか。ルシアンは無理に聞こうとは思わなかった。ただ、状況を整理しておきたかった。
「今すぐ出て行けとは言わない。熱が下がるまでは、ここにいていい」
「……いいの」
「熱がある人間を外に出したら、後味が悪いから」
「人間じゃないかもしれない」
「どっちでも同じ」
シーアはルシアンをじっと見た。その目が、また何か言いたげだった。昨夜も今朝も感じた、うまく言語化できない何かだ。
ルシアンは視線を逸らして、空になった椀を受け取った。
「熱が下がったら、少し話して。何から逃げてるのか、教えてくれないと対処のしようがない」
「……対処、するつもりなの」
「状況を知りたいだけ。巻き込まれるにしても、何も知らないまま巻き込まれるのは嫌いだから」
それだけ言って、椀を洗いに行った。
背中でシーアが毛布を引き直す音がした。それから、小さく、本当に小さく、何か呟く声がした。聞き取れなかったが、聞き返さなかった。
窓の外は夕暮れで、港の方から汽笛が一つ、遠く鳴った。
ルシアンは椀を拭きながら、腕時計に目をやった。父親の形見の、革ベルトが傷んだやつ。親指でふちをなぞる、いつもの癖。
帰る場所がない、か。
それは知っている感覚だった。知っているから、それ以上考えるのをやめた。




