表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白亜の竜と時計師の僕  作者: 紅生姜愛好家
4/15

依頼と不在と、帰る場所

 依頼は二件とも、港の近くだった。

 一件目は船乗りの懐中時計。竜頭が折れていて、ゼンマイが巻けなくなっている。部品を持ち合わせていたので、その場で三十分ほどで直せた。二件目は商家の置き時計で、こちらは文字盤の歯車が一枚欠けていた。預かって工房で直すことにした。

 全部で二時間もかからなかった。

 なのにルシアンは、帰り道を少し遠回りした。

 理由は考えないことにした。市場で食材を買った——パンと、スープの材料と、果物を少し。熱がある時は消化のいいものがいいらしい、という知識がどこから来たのか自分でもわからなかったが、とにかくそういうものを選んだ。

 工房の扉を開けると、中が静かだった。

 静かすぎて、一瞬だけ嫌な予感がした。いなくなったか、あるいは——

「……おかえり」

 暖炉の前から、声がした。

 シーアは毛布を体に巻きつけたまま、壁に背を預けて座っていた。膝の上に、ルシアンの時計がひとつ乗っている。修理待ちの棚から取ったらしい。

「触った?」

「……見ただけ」

「本当に?」

「本当に」

 シーアは時計をそっと床に置いた。壊していないことを証明するように、丁寧に。ルシアンは受け取って確認した。確かに、何も変わっていなかった。

「熱は」

「さっきより、ましな気がする」

 昨夜よりも声がはっきりしていた。ルシアンは荷物を作業台に置いて、体温計を探した。

「測る」

「……また?」

「朝より上がってたら困るから」

 シーアは少し間を置いてから、腕を差し出した。大人しく測らせた。三十七度八分。朝より少し下がっている。

「下がってる」

「そう」

「よかった」

 言ってから、なんとなく照れくさくなって、ルシアンは買ってきたものを棚に仕舞う作業を始めた。背中越しに、シーアの視線を感じた。

「……ねえ」

「何」

「それ、全部食べ物?」

「そう」

「誰の分」

 ルシアンは手を止めた。

「……二人分。それ以上でも以下でもない」

 シーアはしばらく黙っていた。

「ありがとう」

 静かな声だった。感謝の言い方を知っているのか知らないのか、たどたどしくも芝居がかってもいない、ただ真っ直ぐな声だった。

 ルシアンはパンを棚に押し込みながら、

「別に」

 と言った。我ながら愛想のない返しだと思ったが、他の言葉が出てこなかった。

 スープを作った。昨夜よりも具を多くして、火を弱めてゆっくり煮た。シーアは暖炉の前から動かず、ルシアンが鍋をかき混ぜる様子をずっと見ていた。

「時計師なのに、料理もするんだ」

「しないと死ぬから」

「そういうもの?」

「そういうもの」

 椀に盛って渡すと、シーアは両手で受け取った。昨夜は顔を近づけて飲んでいたが、今日は椀を持ち上げて、人間らしい飲み方をしていた。少し、様子が違う。

「食べ方、知ってるんだね」

 ルシアンが言うと、シーアは椀から顔を上げた。

「……なんとなく、体が覚えてる。頭はよく、わからないけど」

「記憶がないの」

「断片はある。でも繋がらない」

 それ以上は聞かなかった。聞いても今のシーア自身が答えを持っていないなら、聞くだけ酷だ。

 二人で黙ってスープを飲んだ。時計の音が部屋を満たしていた。シーアはその音を気にしている様子だった——時々、耳が動く。

「時計が気になる?」

「……全部、音が違う」

「当たり前でしょ。作った人も、年代も、仕組みも違うんだから」

「全部わかるの」

「大体は」

 シーアはまた耳をそばだてた。目を閉じて、どこかの時計の音を聞き分けようとしているのかもしれない。その横顔が、なんとなく子どもみたいだとルシアンは思った。

 思って、少し居心地が悪くなった。

「あのさ」

「何」

「いつまでここにいるつもり」

 シーアの目が開いた。ルシアンを見た。

「……わからない」

「わからないって、出て行く場所がないってこと?」

「たぶん」

「追われてるよね、あなた」

 シーアの体が、少し固まった。

「翼の傷、あれ自分でやった傷じゃないでしょ。逃げてきたんだと思うけど」

「……うん」

「誰に」

 シーアは答えなかった。答えられないのか、答えたくないのか。ルシアンは無理に聞こうとは思わなかった。ただ、状況を整理しておきたかった。

「今すぐ出て行けとは言わない。熱が下がるまでは、ここにいていい」

「……いいの」

「熱がある人間を外に出したら、後味が悪いから」

「人間じゃないかもしれない」

「どっちでも同じ」

 シーアはルシアンをじっと見た。その目が、また何か言いたげだった。昨夜も今朝も感じた、うまく言語化できない何かだ。

 ルシアンは視線を逸らして、空になった椀を受け取った。

「熱が下がったら、少し話して。何から逃げてるのか、教えてくれないと対処のしようがない」

「……対処、するつもりなの」

「状況を知りたいだけ。巻き込まれるにしても、何も知らないまま巻き込まれるのは嫌いだから」

 それだけ言って、椀を洗いに行った。

 背中でシーアが毛布を引き直す音がした。それから、小さく、本当に小さく、何か呟く声がした。聞き取れなかったが、聞き返さなかった。

 窓の外は夕暮れで、港の方から汽笛が一つ、遠く鳴った。

 ルシアンは椀を拭きながら、腕時計に目をやった。父親の形見の、革ベルトが傷んだやつ。親指でふちをなぞる、いつもの癖。

 帰る場所がない、か。

 それは知っている感覚だった。知っているから、それ以上考えるのをやめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ