ヴァレンの街
川沿いを二時間歩いた。
途中、一度休憩した。食料は鞄ごと落としてきたので何もなかったが、川の水は飲めた。シーアは川に手を浸けて、水を掬って飲んだ。ルシアンも同じようにした。冷たくて、少し土の味がしたが、悪くなかった。
ヴァレンの街が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
丘の上から見下ろすと、港町よりずっと大きかった。城壁に囲まれた旧市街と、城壁の外に広がる新市街。市場の屋根が並んでいて、遠くから見ても人の往来が多いことがわかった。
「大きい」
シーアが呟いた。
「港町より大きいね」
「こんな場所に来たのは初めて」
「白い部屋の前も?」
「……たぶん。記憶にない」
ルシアンは丘を下り始めた。シーアがついてくる。
街の入り口に門があって、衛兵が二人立っていた。旅人の確認をしている様子だったが、止めているわけではなく、流れるように通過させていた。
ルシアンは近づきながらシーアに小声で言った。
「フードは被ったまま。目を合わせない。僕の隣を歩いて」
「わかった」
門を通る時、衛兵の一人がルシアンを見た。次にシーアを見た。
「旅の方で?」
「はい。仕事を探しに来ました」
「どこから」
「西の方から。港町の出です」
衛兵は特に怪しむ様子もなく、通してくれた。手配書が出回っているとしたら、この街にも届いているかもしれない。でも衛兵が全員の顔を確認しているわけではないらしかった。
街の中に入ると、音が変わった。
人の声、荷馬車の音、どこかで金槌を叩く音、食べ物の匂い。港町とは種類の違う喧騒だった。港町は潮と油の匂いがするが、ここは石と人の匂いがした。
シーアが立ち止まった。
「どうした」
「……多い」
「人が?」
「音が。全部一度に聞こえる」
耳が良すぎるのかもしれない。ルシアンはシーアの袖を引いて、大通りから一本入った路地に移動した。少し静かになった。
「ここで少し慣れて」
「うん」
シーアは目を細めて、耳を少し動かした。聞こえてくる音を一つずつ整理しているのかもしれない。しばらくして、目が開いた。
「大丈夫」
「確認したいことがある」
ルシアンは懐からカルロに貰った紙を出した。
鞄と一緒に落としてきたと思っていたが、懐に入れていたことを思い出した。紙は湿っていたが、川を渡った時に上着の内側に入っていたおかげで、辛うじて読めた。
名前と、街の区画が書いてあった。
旧市街の南側。鍛冶屋の隣にある宿。エルナという女性を訪ねること。
「まず宿を探す。腹も空いたから、その後飯」
「うん」シーアは少し間を置いた。「お金、ある?」
「工具と一緒に鞄に入れてた分は落とした。でも、別に分けてた分が少しある」
「よかった」
「よかった、って呑気だね」
「だって、あるんでしょ」
「ギリギリだよ」
「ギリギリでも、あることに変わりない」
反論できなかった。ルシアンは歩き始めた。
旧市街に入って、南側の区画を探した。石畳の道が入り組んでいて、港町の路地とは違う複雑さがあった。
鍛冶屋の音を頼りに歩いた。金槌の音は大通りより大きく聞こえる場所に向かって進むと、小さな広場に出た。広場の端に鍛冶屋があって、その隣に木造の二階建ての建物があった。看板はなかったが、扉が開いていた。
「ここかな」
中を覗くと、受付らしい空間があった。カウンターの向こうに、四十がらみの女性が座っていた。赤みがかった茶色の髪で、背筋が真っ直ぐだった。
「すみません」
女性が顔を上げた。
「カルロさんの紹介で来ました。エルナさんですか」
女性の表情が、少し変わった。
「カルロの?」
「はい」
「名前は」
「ルシアン・ヴェルネです。こっちはシーア」
女性——エルナはルシアンを見て、シーアを見た。シーアのフードをちらりと見て、それから視線をルシアンに戻した。
「中に入りなさい」
カウンターの奥に通された。カルロの宿と似た構造の部屋だったが、こちらは棚に薬草と薬瓶が並んでいた。
「座って」
座った。エルナは棚から何かを取り出して、テーブルに置いた。乾いたパンと、果物が少し。
「まず食べなさい。話はその後」
断る理由がなかった。ルシアンはパンを手に取った。シーアも受け取って、黙って食べ始めた。
エルナは向かいに座って、二人を観察していた。品定めというより、状態を確認している目だった。
「怪我は」
「僕はないです」
「その子は」
「翼の傷が、まだ完全には塞がっていない。あと、一週間くらい前まで発熱していた」
「今は熱はない?」
「昨日の時点ではなかった」
エルナはシーアを見た。
「フードを外してもいいわよ」
シーアはルシアンを見た。ルシアンが頷くと、フードを外した。
エルナは表情を変えなかった。ただ、白い髪を一秒だけ見て、それから目を戻した。
「翼は今は出ていないのね」
「はい」
「人間の形の方が楽そうね」
「たぶん、そうだと思います」
「カルロから話は聞いていた。大まかなことは知っている」
ルシアンは少し驚いた。
「連絡が?」
「昨夜のうちに。文鳥を使って」
カルロは昨夜のうちに手を打っていたということだ。ルシアンは少し、胸の中で何かが緩んだ。
「しばらくここに置いてあげる。ただし、条件がある」
「聞きます」
「あなたは仕事をしなさい。時計師なんでしょう。この街で仕事を取って、滞在費の分は稼ぐこと」
「わかりました」
「その子は私の手伝いをしてもらう。薬草の管理とか、簡単なことでいいわ」
シーアがエルナを見た。
「私に、できますか」
「やってみないとわからないでしょ」エルナはさらりと言った。「でも、手先が器用そうだから大丈夫だと思う」
「……やります」
「そう」エルナは立ち上がった。「部屋を見せましょう。二人部屋しか空いていないけど」
「それで構いません」
二階に案内された。昨日の宿より広くて、窓が中庭に面していた。寝台が二つ、机が一つ。
「食事は一階で出す。夜の八時まで。それ以降は自分で何とかして」
「わかりました」
「何か必要なものは言いなさい。全部は揃えられないけど、できる限りは」
エルナは扉の前で振り返った。
「一つ聞いてもいい?」
「はい」
「あなたたち、いつまでここにいるつもり?」
ルシアンは少し考えた。
「落ち着けるまで。目途が立ったら、次のことを考えます」
「落ち着けるまで、か」
エルナは少し間を置いた。それから、
「まあ、いいわ」
と言って、廊下に出ていった。
二人きりになった。
シーアが窓を開けた。中庭に、小さな花壇があった。秋の終わりで、咲いている花は少なかったが、緑は残っていた。
「いい場所だね」
シーアが言った。
「そうね」
「ルシアン」
「何」
「落ち着けたら、どうする?」
今朝も似たようなことを聞かれた気がした。
「工房に戻る準備をする。工具も全部落としてきたから、また揃えないといけない」
「……私は?」
ルシアンは少し間を置いた。
「それは、シーアが決めること」
「ルシアンは、一緒にいてもいいと思ってる?」
直球だった。シーアの質問はいつも直球で、ルシアンは毎回少し困る。
「……今は、一緒にいた方が安全だと思ってる」
「今は?」
「今は」
シーアは少し考えた。
「それで十分だよ」
また、さっきの言葉を返された。
ルシアンは窓の外を見た。中庭の花壇の隅に、まだ小さな白い花が一輪だけ咲いていた。
秋の終わりに咲いている花は、少し頑固だと思った。
思って、それがなんとなく、この数日間のことに似ている気がして、でもどこが似ているのかはうまく言えなかった。




