追跡
朝、カルロに起こされた。
夜明け前だった。ランプも持たずに扉を叩く音がして、ルシアンが開けると、カルロが立っていた。顔が険しかった。
「昨夜、町に二人来た」
それだけで十分だった。
「いつ」
「夜中の二時頃。宿を回って聞き込みをしていた。今はどこにいるかわからない」
「こっちの宿には来たか」
「来ていない。ただ、時間の問題だ」
ルシアンは振り返った。シーアが寝台の上で目を開けていた。話し声で起きたらしい。
「聞こえてた?」
「うん」
「五分で準備して」
「わかった」
シーアはすでに起き上がっていた。迷いがなかった。こういう時の動きが、シーアは早い——逃げることに慣れている体だとルシアンは思った。思って、少し胸が痛かった。
荷物をまとめた。大半は昨夜のうちに纏めてあったから、三分で終わった。
カルロが食料を包んで渡してくれた。
「街道は使うな。裏道を教える」
「お願いします」
「ヴァレンまでの抜け道を知っている。森の中を通るから時間はかかるが、人目につかない」
カルロは手書きの地図を渡した。荒削りだったが、要所に目印が書いてあった。
「この木を目印に進め。迷ったら川沿いを下れ、ヴァレンに出る」
「わかりました」
「一つ聞いていいか」
「何ですか」
カルロはルシアンをまっすぐ見た。
「お前は、この先どうするつもりだ」
ルシアンは少し考えた。
「とりあえず、ヴァレンまで行きます」
「その先は」
「その先は、その先で考えます」
カルロは少し間を置いた。
「そうか」
それだけ言って、裏口を開けてくれた。夜明け前の空気が流れ込んできた。冷たくて、湿っていた。
「気をつけろ」
「ありがとうございました」
シーアがカルロを見上げた。
「ありがとうございました」
カルロは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
裏道は、町の外れから森に入る獣道だった。
木々が密で、夜明け前の暗さの中では数メートル先しか見えなかった。ルシアンは小さなランプを出して、足元だけを照らした。
シーアが後ろをついてきた。足音が静かだった。
森に入って十分ほどしたところで、シーアが袖を引いた。
ルシアンは立ち止まった。ランプを消した。
暗闇の中に、音があった。
枝を踏む音。一定のリズムではなかった。止まったり、動いたりしていた。こちらの動きに合わせているのか、あるいは別の何かか。
ルシアンはシーアに口だけで聞いた。何人、と。
シーアは指を二本立てた。
二人。方向は——シーアが右斜め後方を指した。
追われている。
ルシアンは地図を頭の中で展開した。今いる場所から川まで、まだ距離がある。このまま進むか、やり過ごすか。
やり過ごす場所があればいいが、森の中で二人が隠れられる場所を探すのは時間がかかる。
進む方がいい。
ルシアンはシーアの手首を掴んで、歩き始めた。早足で、でも走らない。走ると音が出る。
後ろの音が、少し近くなった気がした。
シーアの手首を掴んでいる手に、力が入った。シーアは何も言わなかった。ついてきた。
五分歩いたところで、後ろの音が止まった。
ルシアンも止まった。耳を澄ました。風の音、葉の音、遠くで鳥が鳴いた。
人の音はしなかった。
二分待った。何もなかった。
「……撒いた?」
小声でシーアに聞いた。
「たぶん」シーアも小声で答えた。「でも、いなくなったわけじゃないと思う。少し離れただけで、まだ近くにいる気がする」
「気がする、って、聞こえてるの?」
「聞こえてるというより、感じる。うまく説明できないけど」
竜の感覚が残っているのかもしれない。ルシアンはそれ以上聞かずに、また歩き始めた。
夜明けが近くなってきた。木々の間から、空が少しずつ白くなっていた。
川の音が聞こえ始めた頃、シーアがまた袖を引いた。
今度は強かった。
ルシアンが振り返る前に、右の茂みが動いた。
人間が出てきた。
三十代くらいの男で、軍服ではなかったが、立ち方が軍人のそれだった。手に短刀を持っていた。
「止まれ」
低い声だった。
ルシアンは止まった。シーアを自分の後ろに回した。
「荷物と、その子を置いて行けば、お前には手を出さない」
「断ったら?」
「断る理由がない。お前はただの時計師だろう」
調べてある、ということだ。ルシアンは男の目を見た。短刀の持ち方、重心の置き方。戦闘訓練を受けた人間だとわかった。
勝てない。
正面からでは、絶対に勝てない。
「わかった」
ルシアンは鞄を肩から外した。
「荷物はここに置く。でも——」
鞄を地面に落とすと同時に、ランプを男に向かって投げた。
男がランプを避けた一瞬、ルシアンはシーアの手を引いて走った。
川の音がする方へ。木々の間を、枝を払いながら、走った。
後ろで男の舌打ちが聞こえた。追ってくる足音がした。
シーアの手を引きながら走った。シーアは遅れなかった。むしろ、ルシアンより足が速かった。
川が見えた。
思ったより川幅があった。水量も多い。渡れるかどうか、見た目ではわからなかった。
後ろの足音が近かった。
「渡れる?」
シーアに聞いた。
シーアは川を見た。一秒だけ考えた。
「渡る」
答えを待たずに、川に入った。
ルシアンも続いた。水が冷たかった。膝まで浸かった。流れが思ったより強くて、足元が不安定だった。
シーアが先に対岸に渡った。ルシアンが渡りきったところで、対岸から振り返った。
男が川岸に立っていた。
川を見て、何かを判断するような顔をした。それから、こちらを見た。
しばらく、目が合った。
男は川に入ってこなかった。
代わりに、
「逃げ足だけは認めてやる」
と言った。
皮肉なのか、本心なのか、わからない声だった。
それだけ言って、男は森の中に戻っていった。
川岸でしばらく、ルシアンは息を整えた。
靴の中が濡れていた。シーアも全身がびしょ濡れで、白い髪が顔に貼りついていた。
「大丈夫?」
「うん」シーアは髪を払いながら言った。「ルシアンは」
「靴が最悪」
「それだけ?」
「怪我はない」
シーアは少し息を吐いた。それから、ルシアンを見た。
「鞄、落とした」
「わかってる」
「食料も、地図も」
「地図は頭に入ってる。食料は、ヴァレンについてから何とかする」
シーアはルシアンをじっと見た。
「怒ってる?」
「怒ってない。そんな余裕もない」
「……ごめん」
「謝らなくていいって、何回言えばわかる」
「でも、私のせいで」
「シーアのせいじゃない」
ルシアンは立ち上がって、濡れた靴を脱いだ。水を出して、また履いた。不快だったが、仕方ない。
「行くよ。川沿いに下れ、ってカルロさんが言ってたから」
「うん」
歩き始めた。シーアがついてきた。
しばらく無言で歩いた。川の音が隣で続いていた。
十分ほどして、シーアが口を開いた。
「ルシアン」
「何」
「さっき、私を後ろに回してくれたよね」
「うん」
「なんで」
ルシアンは少し考えた。
「……考えてなかった。自然に」
シーアは黙った。
またしばらく歩いた。
「ルシアン」
「まだ何かある?」
「ランプ、よく咄嗟に投げられたね」
「他に使えるものがなかった」
「当たりそうだった」
「当たればよかったけど」
「当たってたら、もっと面倒なことになってたかもしれない」
「そうかもしれない」
シーアが少し笑った気がした。暗くて、濡れた髪が顔にかかっていて、表情は見えなかった。でも声が、少し柔らかかった。
「なんか、笑ってる?」
「笑ってない」
「笑ってたよ」
「……少しだけ」
「どこが面白かったの」
「面白いというより」シーアは少し止まった。「怖かったのに、ルシアンがいると、なんとかなる気がして」
ルシアンは前を向いたまま歩いた。
「なんとかならないことの方が多いよ」
「でも、今日はなんとかなった」
「今日はね」
「それで十分だよ」
さっきルシアンが言った言葉を、そのまま返された。
ルシアンは何も言わなかった。
川沿いの道が続いた。夜明けの光が、川面をゆっくりと白く染めていった。




