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白亜の竜と時計師の僕  作者: 紅生姜愛好家
14/15

追跡

 朝、カルロに起こされた。

 夜明け前だった。ランプも持たずに扉を叩く音がして、ルシアンが開けると、カルロが立っていた。顔が険しかった。

「昨夜、町に二人来た」

 それだけで十分だった。

「いつ」

「夜中の二時頃。宿を回って聞き込みをしていた。今はどこにいるかわからない」

「こっちの宿には来たか」

「来ていない。ただ、時間の問題だ」

 ルシアンは振り返った。シーアが寝台の上で目を開けていた。話し声で起きたらしい。

「聞こえてた?」

「うん」

「五分で準備して」

「わかった」

 シーアはすでに起き上がっていた。迷いがなかった。こういう時の動きが、シーアは早い——逃げることに慣れている体だとルシアンは思った。思って、少し胸が痛かった。

 荷物をまとめた。大半は昨夜のうちに纏めてあったから、三分で終わった。

 カルロが食料を包んで渡してくれた。

「街道は使うな。裏道を教える」

「お願いします」

「ヴァレンまでの抜け道を知っている。森の中を通るから時間はかかるが、人目につかない」

 カルロは手書きの地図を渡した。荒削りだったが、要所に目印が書いてあった。

「この木を目印に進め。迷ったら川沿いを下れ、ヴァレンに出る」

「わかりました」

「一つ聞いていいか」

「何ですか」

 カルロはルシアンをまっすぐ見た。

「お前は、この先どうするつもりだ」

 ルシアンは少し考えた。

「とりあえず、ヴァレンまで行きます」

「その先は」

「その先は、その先で考えます」

 カルロは少し間を置いた。

「そうか」

 それだけ言って、裏口を開けてくれた。夜明け前の空気が流れ込んできた。冷たくて、湿っていた。

「気をつけろ」

「ありがとうございました」

 シーアがカルロを見上げた。

「ありがとうございました」

 カルロは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。


 裏道は、町の外れから森に入る獣道だった。

 木々が密で、夜明け前の暗さの中では数メートル先しか見えなかった。ルシアンは小さなランプを出して、足元だけを照らした。

 シーアが後ろをついてきた。足音が静かだった。

 森に入って十分ほどしたところで、シーアが袖を引いた。

 ルシアンは立ち止まった。ランプを消した。

 暗闇の中に、音があった。

 枝を踏む音。一定のリズムではなかった。止まったり、動いたりしていた。こちらの動きに合わせているのか、あるいは別の何かか。

 ルシアンはシーアに口だけで聞いた。何人、と。

 シーアは指を二本立てた。

 二人。方向は——シーアが右斜め後方を指した。

 追われている。

 ルシアンは地図を頭の中で展開した。今いる場所から川まで、まだ距離がある。このまま進むか、やり過ごすか。

 やり過ごす場所があればいいが、森の中で二人が隠れられる場所を探すのは時間がかかる。

 進む方がいい。

 ルシアンはシーアの手首を掴んで、歩き始めた。早足で、でも走らない。走ると音が出る。

 後ろの音が、少し近くなった気がした。

 シーアの手首を掴んでいる手に、力が入った。シーアは何も言わなかった。ついてきた。

 五分歩いたところで、後ろの音が止まった。

 ルシアンも止まった。耳を澄ました。風の音、葉の音、遠くで鳥が鳴いた。

 人の音はしなかった。

 二分待った。何もなかった。

「……撒いた?」

 小声でシーアに聞いた。

「たぶん」シーアも小声で答えた。「でも、いなくなったわけじゃないと思う。少し離れただけで、まだ近くにいる気がする」

「気がする、って、聞こえてるの?」

「聞こえてるというより、感じる。うまく説明できないけど」

 竜の感覚が残っているのかもしれない。ルシアンはそれ以上聞かずに、また歩き始めた。

 夜明けが近くなってきた。木々の間から、空が少しずつ白くなっていた。

 川の音が聞こえ始めた頃、シーアがまた袖を引いた。

 今度は強かった。

 ルシアンが振り返る前に、右の茂みが動いた。

 人間が出てきた。

 三十代くらいの男で、軍服ではなかったが、立ち方が軍人のそれだった。手に短刀を持っていた。

「止まれ」

 低い声だった。

 ルシアンは止まった。シーアを自分の後ろに回した。

「荷物と、その子を置いて行けば、お前には手を出さない」

「断ったら?」

「断る理由がない。お前はただの時計師だろう」

 調べてある、ということだ。ルシアンは男の目を見た。短刀の持ち方、重心の置き方。戦闘訓練を受けた人間だとわかった。

 勝てない。

 正面からでは、絶対に勝てない。

「わかった」

 ルシアンは鞄を肩から外した。

「荷物はここに置く。でも——」

 鞄を地面に落とすと同時に、ランプを男に向かって投げた。

 男がランプを避けた一瞬、ルシアンはシーアの手を引いて走った。

 川の音がする方へ。木々の間を、枝を払いながら、走った。

 後ろで男の舌打ちが聞こえた。追ってくる足音がした。

 シーアの手を引きながら走った。シーアは遅れなかった。むしろ、ルシアンより足が速かった。

 川が見えた。

 思ったより川幅があった。水量も多い。渡れるかどうか、見た目ではわからなかった。

 後ろの足音が近かった。

「渡れる?」

 シーアに聞いた。

 シーアは川を見た。一秒だけ考えた。

「渡る」

 答えを待たずに、川に入った。

 ルシアンも続いた。水が冷たかった。膝まで浸かった。流れが思ったより強くて、足元が不安定だった。

 シーアが先に対岸に渡った。ルシアンが渡りきったところで、対岸から振り返った。

 男が川岸に立っていた。

 川を見て、何かを判断するような顔をした。それから、こちらを見た。

 しばらく、目が合った。

 男は川に入ってこなかった。

 代わりに、

「逃げ足だけは認めてやる」

 と言った。

 皮肉なのか、本心なのか、わからない声だった。

 それだけ言って、男は森の中に戻っていった。


 川岸でしばらく、ルシアンは息を整えた。

 靴の中が濡れていた。シーアも全身がびしょ濡れで、白い髪が顔に貼りついていた。

「大丈夫?」

「うん」シーアは髪を払いながら言った。「ルシアンは」

「靴が最悪」

「それだけ?」

「怪我はない」

 シーアは少し息を吐いた。それから、ルシアンを見た。

「鞄、落とした」

「わかってる」

「食料も、地図も」

「地図は頭に入ってる。食料は、ヴァレンについてから何とかする」

 シーアはルシアンをじっと見た。

「怒ってる?」

「怒ってない。そんな余裕もない」

「……ごめん」

「謝らなくていいって、何回言えばわかる」

「でも、私のせいで」

「シーアのせいじゃない」

 ルシアンは立ち上がって、濡れた靴を脱いだ。水を出して、また履いた。不快だったが、仕方ない。

「行くよ。川沿いに下れ、ってカルロさんが言ってたから」

「うん」

 歩き始めた。シーアがついてきた。

 しばらく無言で歩いた。川の音が隣で続いていた。

 十分ほどして、シーアが口を開いた。

「ルシアン」

「何」

「さっき、私を後ろに回してくれたよね」

「うん」

「なんで」

 ルシアンは少し考えた。

「……考えてなかった。自然に」

 シーアは黙った。

 またしばらく歩いた。

「ルシアン」

「まだ何かある?」

「ランプ、よく咄嗟に投げられたね」

「他に使えるものがなかった」

「当たりそうだった」

「当たればよかったけど」

「当たってたら、もっと面倒なことになってたかもしれない」

「そうかもしれない」

 シーアが少し笑った気がした。暗くて、濡れた髪が顔にかかっていて、表情は見えなかった。でも声が、少し柔らかかった。

「なんか、笑ってる?」

「笑ってない」

「笑ってたよ」

「……少しだけ」

「どこが面白かったの」

「面白いというより」シーアは少し止まった。「怖かったのに、ルシアンがいると、なんとかなる気がして」

 ルシアンは前を向いたまま歩いた。

「なんとかならないことの方が多いよ」

「でも、今日はなんとかなった」

「今日はね」

「それで十分だよ」

 さっきルシアンが言った言葉を、そのまま返された。

 ルシアンは何も言わなかった。

 川沿いの道が続いた。夜明けの光が、川面をゆっくりと白く染めていった。

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