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白亜の竜と時計師の僕  作者: 紅生姜愛好家
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路地裏の獣

 雨だった。

 港町特有の、潮と油と錆が混じったような雨。傘を持っていても意味がない——風向きが読めないから、どこから降ってくるかわからない。ルシアンはジャケットの襟を立てて、ツールロールを抱え直した。

「最悪」

 誰に言うわけでもなく、呟く。

 依頼人の家から工房まで、近道をしようとしたのが間違いだった。古い倉庫が立ち並ぶ区画を抜ける路地は、雨の夜には人気がなくなる。足元の石畳は濡れて黒く光り、排水溝が詰まっているのかそこかしこに水溜まりができていた。ブーツの爪先が水に浸かる感触が不快で、ルシアンは眉をひそめた。

 そこで、音を聞いた。

 呼吸音だ。

 荒い。苦しそうな、断続的な息。人間の出す音にしては低くて、でも獣にしては弱々しい。ルシアンは足を止めて、音の方向を探った。

 路地の奥。積まれた木箱の陰。

 見に行く理由なんてなかった。港町育ちは余計なものに首を突っ込まない——それが不文律だ。見なかったことにして歩き続ければよかった。ルシアンはそう思いながら、気がつくと木箱の方に向かって歩いていた。

 馬鹿みたい。

 自分でそう思った。思いながら、それでも足が止まらなかった。

 木箱を二つ回り込んだところで、ルシアンは息を呑んだ。

 白かった。

 そこにあったのは、白い生き物だった。

 体長は——折り畳まれているから正確にはわからないが——二メートル近くあるかもしれない。四肢を地面に着け、翼を半端に広げたまま、壁に背を預けるような体勢でうずくまっている。全身は白い毛皮と光沢のある鱗のハイブリッドで、光の乏しい路地でもそれとわかるほど白かった。長い尾が石畳の上に力なく広がっている。

 竜だ、とルシアンは思った。

 この街で竜を見たのは初めてだったが、それ以外の言葉が出てこなかった。

 生き物は目を開けていた。氷のような青い瞳が、ルシアンを見ていた。敵意なのか警戒なのか、それとも単に焦点が定まっていないだけなのか、判断できなかった。ただ、その目がひどく疲弊していることはわかった。

「……」

 ルシアンは一歩引いた。

 生き物は動かなかった。動けないのかもしれない。翼の一部が裂けていて、そこから血が滲んでいた。白い毛皮のあちこちが暗く濡れている——雨だけじゃない。

 関係ない。

 そう思った。港町の路地裏で怪我をした獣を見つけることは、そう珍しくもない。人間でさえそうだ。関わったら面倒だ。時計師は獣医じゃない。

「……それで、僕に何の得があるの」

 誰に言うでもなく、声に出た。

 生き物が、かすかに動いた。首がゆっくりとこちらを向く。氷青の瞳がルシアンをとらえて、それから——ほんの少し、細まった。

 敵意ではなかった。

 泣きそうな顔に似ていた、とルシアンは後で思う。竜が泣きそうな顔をするなんて思ったこともなかったのに、そう見えた。

「……はあ」

 ルシアンは額に手を当てた。雨が前髪を伝って頬に落ちた。

 最悪だ。

 本当に、心底、最悪だと思った。

 それでもしゃがんで、ツールロールを石畳に置いて、両手を見せるようにゆっくりと生き物の方へ近づいた。

「噛むなよ」

 生き物は噛まなかった。

 近づいても逃げなかった。ただ、荒い呼吸が少しだけ浅くなった——緊張しているのか、それとも力が入らないのかは、わからなかった。

 ルシアンは翼の裂け目を見た。思ったよりも深い。手持ちの布で圧迫しても、ここで処置できる怪我ではなかった。

「動ける?」

 返事はなかった。

「……動けないなら、引っ張っていくけど。重かったら途中で置いてくから、それだけは覚悟して」

 当然それも返事はなかった。ルシアンは立ち上がり、ツールロールを肩にかけ直した。視線を上げると、雨は少し強くなっていた。

 工房まで十五分。こいつを抱えたら、倍かかるかもしれない。

 本当に、最悪だ。

 ルシアンは生き物の隣にしゃがんで、おそるおそる翼の根元に手を添えた。毛皮は濡れていたが、思ったより温かかった。生きている熱だと気づいて、なんとなく、ほっとした。

 そのことが少し癪だった。

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