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ディーエルエル様とオールドテンプ君〜System.dllの計算通り〜  作者: exe


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【放送事故】因果律心中

https://youtu.be/BZrvYWHcuzc

昭和五十二年の夕暮れは、腐った蜜柑のような色をしていた。 茶の間のテレビからは、大相撲中継のくぐもった音が流れている。畳の匂いと、換気扇から回ってくる隣家の焼き魚の煙。 台所に立つ母の背中が、トントンと包丁のリズムに合わせて揺れていた。


「あ、キャベツ切らしちゃってたわ」


母は振り返らずに言った。 「ねえ、八百屋さんでひと玉買ってきて。お肉少ないから、今夜は野菜炒めでカサ増ししないと」 「えー、また?」 少年は漫画雑誌から顔を上げ、不満げに声を上げたが、母は濡れた手で十円玉を数枚、テーブルに置いた。 「お釣りはアイス買っていいから」 「わかった、行ってくる」 少年はサンダルを突っ掛け、逃げるように家を出た。 それが、彼が「こちらの世界」で交わした、最後の会話だった。


路地裏には、長く伸びた影が黒い帯のように焼き付いている。 近所の犬が遠くで吠えていた。どこにでもある、ありふれた放課後の空気。 少年はいつもの角を曲がった。 そこには、創業三十年続く古い八百屋があるはずだった。


けれど、そこには何もなかった。


建物が取り壊されたという風情ではない。瓦礫も、重機も、立ち入り禁止のロープもない。 ただ、風景の一部が四角く切り取られたように、そこだけが真っ白な「空き地」になっていた。 アスファルトとも土ともつかない、のっぺりとした灰色の地面。 少年はその異様な光景に足を止めた。 「……あれ?」 店のあった場所の中心に、ぽつんと緑色の塊が転がっている。 キャベツだ。 誰かが忘れていったのか、それとも最初からそこ「生えて」いたのか。 少年は吸い寄せられるように空き地に入り、それを拾い上げた。 ずしりと重い。けれど、野菜特有の冷たさや湿り気がない。まるで精巧に作られたプラスチックの食品サンプルのように、妙に乾いた手触りだった。 「買わなきゃ」 少年は呟いた。店はないけれど、キャベツはある。これを持ち帰れば、おつかいは完了する。 そう自分に言い聞かせ、キャベツを左脇に抱えて振り返った時──世界は変貌していた。


空の色がおかしい。 先ほどまでの茜色は消え失せ、毒々しい紫色と蛍光のオレンジが混じり合った、金属的なグラデーションが空を覆っていた。 「……なにこれ」 少年は小走りで来た道を戻ろうとした。 路地の向こうから、いつもの野良犬がやってくるのが見えた。 「ポチ?」 少年が名を呼ぶ。だが、犬は答えない。 それどころか、犬は一歩も足を動かしていなかった。 四肢を硬直させ、剥製のようなポーズのまま、氷の上を滑るようにズズズズ……と地面をスライドして近づいてくる。 「う、うわあ!」 少年が悲鳴を上げて避けると、犬はそのままブロック塀に半身をめり込ませ、水彩画が滲むように壁の中へと透過して消えていった。


ひゅっ、と喉が鳴る。 逃げなければ。家へ帰らなければ。 少年は走った。けれど、足音がしない。 サンダルのペタペタという音の代わりに、ガガガガ、という硬質なノイズ音だけが足元から響く。 通り沿いの塀に貼られた「オロナミンC」の看板。笑っている女優の顔が、ドロドロに溶けてアスファルトに垂れ落ちていた。 井戸端会議をしていた主婦たちの横を通り過ぎる。 彼女たちの顔には目も鼻も口もなく、のっぺらぼうの顔がただ痙攣していた。話し声は、カセットテープを早送りしたような「キュルキュルキュル」という高音のさえずりに変わっている。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」


少年は泣き叫びながら走った。けれど、景色はループする。 角を曲がっても、また同じ「溶けた看板」の前に出る。 終わらない路地。引き伸ばされた夕暮れ。 世界中がバグを起こしている中で、左脇に抱えたキャベツの重みだけが、唯一の鮮明な現実だった。 少年は無意識に、右手でキャベツを撫でた。 キュッ、キュッ。 その感触だけが、彼を正気に繋ぎ止めていた。


その時、視界の端に赤い電話ボックスが見えた。 あそこなら、外と繋がるかもしれない。 少年はボックスに飛び込み、震える指で十円玉を投入口に押し込んだ。 ジリリ、ジリリとダイヤルが回る音が、ひどく大きく響く。 頼む、出てくれ。ママ、出てくれ。 『……もしもし』 繋がった。 聞き慣れた、少し低い母の声だった。 少年は安堵で膝から崩れ落ちそうになった。 「あ、ママ!? 僕だよ! 八百屋さんがなくなってて、道が変なんだ! 犬が滑ってきて、看板が溶けて……!」 『……』 「今どこにいるのか全然わからないんだよ! 怖いよ、助けて、ママ!」 少年は受話器に縋り付いて叫んだ。 電話の向こうで、母が息を吸う気配がした。


けれど、その声は、決定的に温度を失っていた。 まるで、あらかじめ録音された音声を再生するように、抑揚のない声が鼓膜を打つ。


『……そこに、ぼくなんて子は、さいしょからいないわよ』


「え?」


少年の思考が停止する。 プツン、と唐突に電話が切れた。 ツー、ツー、ツー、という電子音だけが残る。 直後、電話ボックスのガラスが、黒いペンキで塗り潰されたように一瞬で不透明になった。 カン、カン、カン、カン。 踏切の警報音が、すぐ耳元で鳴り響く。 「うそだ、あけて、あけてよ!」 少年はドアを叩くが、開かない。 足元の地面が、砂嵐のようなノイズに変わって崩れ落ちていく。 線路などないはずの場所で、遮断機が降りる幻影が見えた。


(あぁ、僕は迷子になったんじゃない)


少年は、溶けゆく意識の中で理解した。


(僕は、この世界の「計算間違い」だったんだ)


八百屋が存在しないこの世界線において、八百屋へ買い物に来た少年というデータは、矛盾エラーでしかない。 訂正されなければならない。 削除されなければならない。


「マ、マ……」


言葉は、意味を成さないデータ列へと分解された。 指先が、足が、顔が、画素の粗いドットへと還元されていく。 最期に残ったのは、左脇のキャベツを抱きしめる感触と、それを撫でる右手の反復動作だけ。


夕闇に飲み込まれた空き地には、もう誰もいない。 ただ、一枚の粗い画像データだけが、そこに残されていた。 それは、キャベツを抱えたまま、終わることのない放課後の中で、永遠にそれを撫で続ける少年の姿だった。

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