ローゼンフェルト農園
ギフトの受け取りの儀式を終えると、私は真っ先に領地の農園へと馬を走らせた。
屋敷では、父が「王宮での晩餐会の前に祝いのパーティーを開く」と言っていた。
ならば――
その場にふさわしい、最高のチーズを用意したかった。
愛馬から降り、その頬を撫でる。
「いつも、重たい私を運んでくれてありがとう」
彼は私の体重をものともせず、本邸から農園までの長い道のりを、確実に運んでくれる。この馬がいなければ、私はここへ来られない。それほどまでに、大切な相棒だった。
手綱を引いて馬舎へと導いていると、
農園の奥から声がかかる。
「おお! これはこれは、お嬢様!ギフトの受け取りは、無事に済みましたかな?」
声の主は、ローゼンフェルト領の農園を任されている農夫――マリオ。幼いころから、夫婦で私を見守ってくれた人だ。
「マリオさん、お出迎えありがとうございます。
ええ、とても素敵なギフトを頂きましたわ」
「それは良かった。家内もきっと喜びますぞ。さぁ――お嬢様は挨拶より、ご自身で仕込まれたチーズの出来高の方がお好きでしょう、ささご案内いたしましょう」
「ふふ……私の食いしん坊を、そう言って許してくださるのは、あなたたちだけですわ」
石造りのチーズ製作所に入ると、ひんやりとした空気と、チーズの香りが鼻をくすぐった。
棚には大小さまざまなチーズが並び、白く若いものから、飴色に近い年代ものまで、熟成の段階が一目でわかる。
私は、自然と二つの棚の違いに目を向けてしまう。
一方は、滑らかな表皮に布で丁寧に包まれ、王都の食卓へと送られる“貴族向け”のチーズ。
もう一方は、ヒビが入り、形も不揃いで、農園の人間や近隣の村で消費される“農民向け”のもの。
同じ牛の乳から作られたはずなのに、扱いも、行き先も、まるで違う。
「……この差は、どうして生まれるのかしら」
思わず口にすると、マリオは少し困ったように笑った。
「貴族様向けのものは、脂肪分の多い乳を選び、熟成も長く、失敗は許されません。手間も時間もかかりますからな」
私は、農民向けの棚から一つ手に取る。
ずっしりと重く、表面は少し硬い。
「でも、こちらの方が……お腹に溜まりますわね」
「ええ。働く者には、味よりも力になることが大事ですから」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
力になる。
それはつまり――
生きるために、必要なもの。
「……けれど」
私はチーズを見つめたまま、続ける。
「これだけが、農民の方たちの“たんぱく源”だなんて、少なすぎると思うのです」
マリオが、驚いたように私を見る。
「お嬢様……?」
「肉は貴重で、毎日は食べられない。豆や穀物だけでは、体はもたない。それなのに――貴族向けのものは“嗜好品”として扱われ、農民向けは“最低限”で済まされる」
私は、棚の前に立ったまま考える。
「熟成を短くしても、塩分を調整すれば保存は効くはずです。脂肪分の少ない乳でも、発酵を工夫すれば、栄養は保てる……」
自分でも驚くほど、言葉が溢れてきた。
「量を増やして、安定して作れる“日常用のチーズ”の作り方さえ安定すれば――それだけで、食卓は変わる」
マリオはしばらく黙り込み、
やがて、深く息を吐いた。
「……お嬢様は、やはり“食べる人”の目をしておられる」
「え?」
「味や値ではなく、“生きるために何が必要か”を見る目です」
私は、はっとする。
それは――母を失い、食べることで生き延び、
農場で命の循環を見てきた、私自身の目だった。
「……農民のためのチーズを、“我慢の食事”にしたくないのです」
「満たされる食事に、したい」
その言葉に、マリオは静かに、しかし確かにうなずいた。
「けれど……そうねチーズだけではないわ熟成肉も塩分を十分に含ませるには、その分の塩が必要になりますわ。この国では、まだ精製塩の製法が確立されていない。ですから瑞安国から輸入する精製塩か、瑞安国国境の冬山やサフィール火山付近で採れる岩塩に頼らざるを得ません……」
「その通りでございます……。家畜用の岩塩も、火山の噴火の影響で年々値上がりしておりましてな……」
「もし、瑞安国から安全で、なおかつ安価な塩を安定して入手できれば……。ダメだわ精製塩だけでは、あの子たちに必要なミネラルが不足してしまう……」
私は、思わず天井を仰いだ。
「……ああ。私に、塩を生み出す力でもあればよろしいのに」
マリオは、静かに首を横に振る。
「お嬢様、いつも申しておりますでしょう。農畜産物は、自然からの恵みです。その時その時に、神が与えてくださるものを見極め、大切に使わねばなりません」
その言葉は、叱責ではなく、長年土に触れてきた者の、揺るがぬ実感だった。
「そうよね、ごめんなさい。わたくしの悪い癖だわ」
「いいや、お嬢様。その悪い癖で、わしらの暮らしはずいぶん豊かになりましたぞ」
マリオは目尻に深い皺を刻んで笑うと、ふと思い出したように声を上げた。
「そうだ、お嬢様。なかなか乳が出なかった雌牛がいたでしょう?あいつが、ようやく良い乳を出すようになったんですわ。わしらがチーズの準備をしている間、乳しぼりをお願いしてもよろしいですかな?」
「まあ、本当?もちろんよ」
私は嬉しさを隠しきれず、少し大きな足取りで作業場の隅に置かれた木製のバケツを手に取った。
中身のないそれでも、ずしりと重い。
けれどこの重さは嫌いではない。働くための重さ、命を受け取るための器の重さだ。
牛舎へ向かう前に、私はまず箒を手に取った。踏み固められた床を整え、湿った藁を新しいものと取り替える。蹄の跡に溜まった汚れを丁寧に掻き出し、空気を入れ替えるために扉と窓を開けた。
「さあ、これでいいわね」
牛舎に満ちる匂いが、少し柔らぐ。
私はゆっくりと、あの雌牛の前に立った。大きな体を揺らしながら、穏やかな目でこちらを見ている。
「おはよう。今日は調子がいいって聞いたわ」
低く、落ち着いた声で話しかける。急がない。驚かせない。この子が安心してくれなければ、良い乳は出ないから。
「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」
首筋を撫でると、雌牛は小さく鼻を鳴らした。私は腰を落とし、バケツを据える。
指先に伝わる、温かさ。規則正しく、力強く流れ落ちる乳の音。
――ああ、生きている。
この命が、今日も誰かの食卓を支える。そう思うと、胸の奥が静かに満たされていった。




