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陰鬱、陽だまり/僕、彼女。#01

一年に一度のサマーセールがついに到来!

長い間狙っていた美少女ゲームがついに値引きに……!

「やっとだ!今度こそ、このチャンスを逃すわけにはいかない!」

胸を高鳴らせながらダウンロードした、その瞬間はただの喜びのはずだった。


……しかし、その選択が、少年の未来を大きく揺るがすことになる――。


「誰がなんと言おうと、私はあなたのそばを離れない」

ゲームのヒロインが告げたその台詞は、長谷川裕一の過去に深く突き刺さった。


物語の舞台――「福岡」で紡がれる数々のハッピーエンド。

だが、ゲームが終わった時に訪れるのは、耐えがたい孤独と虚無感。

そして裕一は決意する。

現実でもゲームと同じ舞台「福岡」へ行き、人生をやり直そうと。


ところが、そこで彼を待っていたのは――

ゲームのヒロインに瓜二つな、とある年上の“先輩”。

しかも彼女の方から、裕一に近づいてきて……!?


果たして、新天地・福岡での出会いは、彼の退屈な日常を塗り替え、

“本当のハッピーエンド”へと導くのだろうか――?

序章-「さよなら、この都市。」


「年に一度の夏のセールがついに来た!ずっと狙っていた美少女ゲームがやっとセール対象になったんだ、感動だよ!

今回は絶対にこのセールを逃さない!」

まさか、この選択が、僕の未来を左右するなんて思いもしなかった。


「他の人がなんと言おうと、私はあなたのそばを離れないよ」

物語には三人のヒロインのルートがあるが、美音が口にしたこの言葉は、深く僕の心に突き刺さった。


中学生の頃、僕には友達なんてほとんどいなかった。毎日のようにいじめられ、この世界には……僕のことを好きになってくれる人なんていないんじゃないか……そう思っていた。

だからこそ、僕はいつも自分の気持ちを閉ざしていた。どうせ誰も認めてくれない、僕なんてただの厄介者、余計なことを言えば悪口で返されるだけ。だから心の中に何があっても、口には出さなかった。僕はただの荷物なんだと。


高校に入っても、それは変わらなかった。東京での生活は、まるで誰かに記録されているかのように、ゲームの序章のように、心の傷が再び抉られていった。

でも物語の中の僕は違った。物語の中で叔父に福岡へ連れられ、新しい生活が始まった。そこで多くの人に出会い、そして僕を愛してくれる人――美音に出会った。


ゲームが終わった瞬間、虚無感が襲ってきた。現実へと強制的に引き戻されたのだ。

僕はすべてを失った。


「他の人がなんと言おうと、私はあなたのそばを離れないよ」

あの言葉は、今の僕には皮肉でしかなかった。同時に、無限の孤独に落ちていった。


小学生の頃からの友人――梓川和優も、そんな僕の異変に気づいた。

「お前、大丈夫か?最近全然連絡よこさないけど?」

「放課後、家の近くのラーメン屋行かね?久しぶりにさ」


料理を待っている間、僕はふと口にしてしまった。

「俺、東京を離れるよ。」

「決めたんだ。福岡に行く。」


突然の言葉に、和優の表情は驚きでいっぱいになった。

「本当にいいのか?九州だぞ、福岡って!」

和優がそう問いかける。


ちょうどその時、店員がラーメンを運んできた。僕は無言で麺をすすったが、彼はまだ驚きのままだった。

「俺がこんなこと言って嘘だと思うか?」

そう告げた。


「安心しろ、この数日で手続きは全部済ませた。もう出発する準備は整ってる」

そう言った瞬間、胸の奥で自分がとんでもない奴だと感じた。こんな大事なこと、親友にすら言わずに。


『せめて東京を離れる前に、理由くらい聞かせろよ』

「ごめん、笑えるかもしれないけど……前に話したあのゲームがさ、俺に確信を与えてくれたんだ。東京を出たい、この苦しい都市を離れたいって」

『なんだよ、早く言えって。福岡に俺の家が一つ空いてる。大橋駅の近くだ。水道光熱費だけ自分で払えばいい、家賃はいらない。どうだ、俺って義理堅いだろ?』

「えっ???そんな家持ってたなんて全然知らなかったぞ」

『まあな。お前いつ福岡に行くんだ?俺も航空券買って、一緒に住む場所まで連れてってやるよ。なんだかんだお前にも世話になったしな』


出発の日、和優は急用で来られなくなり、鍵と住所だけ渡して先に帰った。


「○○航空福岡行きの乗客の方は、第2ターミナルへお進みください」


「東京、さよなら。」


第一章 -「福岡へようこそ」


飛行機の中で、私は未来の生活への期待を隠しきれなかった。ついに、この悲しみと痛みの記憶に満ちた都市を離れる時が来たのだ。およそ二時間のフライト時間、体感では特別長く感じられた。前方のモニターを見つめると、ついに福岡に到着しようとしていた。


飛行機を降り、あの見覚えのあるエレベーターの前に立った。ゲームの中と同じ光景。しかし、そこには見慣れたポスターも、懐かしい人影もなかった。私ひとりだけが、この懐かしくもあり、同時に見知らぬ場所に立ち尽くしていた。まるでゲームが始まったばかりの物語そのもののようだった。


私は新しい住まいへと向かうことを選んだ。

天神、西新平原、高宮、大橋——その道のりには夏の思い出が詰まっていた。だが今、通勤するのは私ひとり。孤独の感覚が再び押し寄せてくる。


夏休みが終わる前に、和優が貸してくれた家を掃除する。心の中で思わずつぶやいた。

「和優っていったい何者なんだ……この家、東京の住まいと比べると全然違うじゃないか……二人以上でも住める広さだよ。東京に戻ったら、ちゃんとお礼をしないと」


ふと思い出す。彼の家は数年前、急に事業が伸び始めたのだ。父親が経営する梓川書店は、経営方針を見直したことで収益が急増し、日本でも有数のライトノベル出版社となった。特にティーン向けライトノベルを多く出版し、多くの作家を世に送り出した。彼らが選んで出版する小説はどれも面白く、私も梓川家の熱心な読者だった。


ああ、それなら納得できる。だが、まさか不動産まで手を広げるとは思ってもみなかった。


新学期が始まった。私は大橋から電車に乗り、天神で空港線に乗り換え、大濠公園へと向かう。道中の景色は、どこか懐かしく、しかし見知らぬものでもあった。


入学したばかりの新しい環境では、私はあまり動き回る勇気がなかった。授業の進み方は東京よりもゆっくりで、競争の雰囲気もない。むしろ、私のようにゆっくり理解することを好む学習スタイルには合っていた。だが放課後、群れをなして帰るクラスメイトたちを見送り、ひとりきりで立ち尽くす自分に気づくと、この福岡に来たことが本当に正しい選択だったのか疑わしく思えてしまう。


休日になると、私は必ず天神地下街へ足を運んだ。しかし、そこで繰り返し突きつけられるのは現実——私が受け入れたくない現実だった。

(結局、全部ただのゲームに過ぎなかったんだ。私はいったい何を妄想しているんだろう……?)


天神地下街を歩きながら、歩きながら、次第に自分自身を疑い始める。この選択が正しかったのかどうかもわからない。家に戻り、ベッドに横たわっても、自分を楽しませる方法すら見つけられなかった。


そんなある日、学校で美音にそっくりな先輩を見かけた。その瞬間、これまでぼんやりと過ごしてきた人生が変わったのだ。


彼女の顔立ちは清楚でありながら、成熟したお姉さんの雰囲気を漂わせていた。すらりとした四肢と完璧なプロポーションは、私を深く惹きつけた。それはまるで、かつてプレイしたあのゲームから美音本人が現れたかのようで、私は思わず息を呑んで立ち尽くしてしまった。だが、理性で必死に自分を引き戻す。


「せっかく新しい環境に来たんだ。誰もまだ俺のことを知らない。だったら、長年の苦しみの中で磨かれた本当の自分を出して、もう一度自分を作り直せばいいじゃないか」


そんな考えが脳裏をよぎった。実のところ、この考えこそが、私が東京を離れると決めた理由の一つでもあった。


私はもう、東京で味わったあの苦しく病んだ人間関係にはうんざりしていたのだ。

だからこそ、消えかけた青春の時間に復讐し、そして自分だけの「美音」を追い求めるのだ。


第二章-「邂逅」


俺は持てる限りの手段を駆使して、あの先輩を探そうとしていた。

けれど同時に、彼女にはもう恋人がいるのではないか、あるいは、俺のような惨めな人間など眼中にないのではないか……そんな恐怖も抱えていた。


だが、もし本当に振られてしまったとしても、きっと驚きはしないだろう。


針を大海に落として探すかのように、何日も情報を掴めずにいた俺。

心が折れかけたそのとき、一通の手紙が俺の下駄箱に入っていた。


「……はぁ。他の人と間違えただけだろうな」


最初はそう思い、特に気にも留めなかった。

だが封筒の宛名に目を凝らした瞬間、思考が止まる。


「長谷川 裕一」


俺の名前が、そこに確かに記されていた。

心臓が大きく跳ね、慌てて封を切る。


――致 長谷川くん


「放課後、時間ある? 屋上で待ってるね」


――君が探している、その先輩より


……最初は悪質な冗談だと思った。こんな話、漫画やドラマで散々見てきたから。

だが一方で、「もし本物だったら?」という思いも湧き上がる。

仮に騙されて馬鹿にされたとしても、せいぜい笑われて社会的に死ぬだけだ。

だったら――行くしかない。


そう決めた俺は、放課後、手紙の差出人を確かめに屋上へ向かった。


扉を開けると、そこには一人の女性の後ろ姿があった。

どこかで見覚えがあるようで……けれど、どこか遠い存在のように思える背中。


その光景に、俺は立ち尽くした。


振り返った彼女が、柔らかに微笑みながら言う。


「来てくれたのね、長谷川くん」


俺の名前を呼ぶその声。


「こっちに来なさい。別に食べたりなんかしないから」


促されるまま、ぎこちなく彼女の隣に歩み寄る。

夕陽が沈みゆく屋上に、しばし静寂が訪れ――やがて、先輩が口を開いた。


「……私のこと、探してたんでしょ?」


「え、あ……うん」


どう答えていいか分からず、言葉が喉につかえる。

緊張で頭が真っ白になっていた。


「私と、知り合いになりたい?」


フェンスに背を預けながら、真っ直ぐに問いかけてくる先輩。

その美しさは、現実なのか夢なのかさえ曖昧にしてしまうほどだった。


「は、はいっ!」


「お、俺……先輩と友達になりたいです!」


あの瞬間、俺は自分の全てを曝け出した。

生まれて初めて、心の奥底にある思いを必死に伝えようとした。


まともに言葉を紡ぐことさえできなかったが、それでも先輩の瞳を真っ直ぐに見つめ続ける。

――どうか、この視線から俺の想いを汲み取ってほしい。


それが正しい選択かどうかも分からない。

むしろ、こんな自分を恥じて謝罪したい衝動に駆られてさえいた。

だが緊張で声は出なかった。


そんな俺に、先輩は小さく笑いかけて――


「早く言えばいいのに。ほら、私のInstagram教えてあげる。……スマホ、貸して」


差し伸べられる手。

その光景は、あまりにも眩しく、夢のように美しかった。


言われるままにスマホを取り出し、Instagramを開いて彼女に渡す。

やがて返された画面には、ひとつのアカウント名が表示されていた。


そこに記されていたのは――


八尋 未央


「帰ったら連絡してね!」


にっこりと微笑み、温かな声を残して、彼女はゆっくりと階段へ降りていった。

俺はただその背中を、呆然と見送るしかできなかった。


「……これ、本当に現実なのか?」


全てが幻のように思えてならない。


「夢なんかじゃ、ないよな……?」


手の甲を抓る。鋭い痛みが走った。

あまりにも現実離れした出来事に、未だ信じられない。

けれど確かに、それは起きたのだ。


ようやく我に返った俺は、帰路につく。

いつもと同じ道のはずなのに、胸の高鳴りが抑えきれない。


「……俺は、変われるのか?」


その問いを何度も繰り返しながら家へ帰り、ソファに腰を下ろした瞬間――


不意にスマホが震える。

表示された通知は、和優でも、他のクラスメイトでもない。


そこにあったのは――


未央先輩からのメッセージだった。


幕間「衝動すぎた!」


「うわあああああああああ!!!!!!! なんで私、あんなに衝動的だったのよおおおおおお!」

私は――八尋未央。今まさに、恥ずかしさのあまり布団の上でゴロゴロ転げ回っている。


どうしてこんなに悶えているのかといえば、放課後に起きた“あの出来事”のせい。

あのとき、私は興奮しすぎてしまったのだ。


「はあああああああ! もしかして、軽く声をかけられただけで簡単になびくチャラい女だと思われたんじゃないの!?」

頭の中を、彼に避けられてしまう最悪の想像がぐるぐる駆け巡る。


……まあ、でも。少なくとも、彼の連絡先は手に入れたんだし。

そう思った瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。


どうしてだろう。私はいつも周りの人と、どこか距離を感じていた。

友達からはよく「スクールカーストの上位にいる存在」だなんて言われるけれど、正直まったく嬉しくなかった。


両親が同年代の中でも目立つほど容姿に恵まれていたせいか、私も自然とその容姿を受け継いでしまった。

けれど、そのせいで周囲は私と関われば厄介なカースト争いに巻き込まれると恐れて、近づこうとしない。

羨望と嫉妬が入り混じった視線ばかりが突き刺さって、息苦しい。


告白されることもあったけど、いつの間にか誰もそんなことをしなくなった。

おそらく互いに牽制しあっているのだろう。

だから私は――ただひたすら孤独だった。


けれど、そんな私の前に現れたのが、あの東京からの転校生。

彼は私を探しているみたいだけど、東京の権力を振りかざすような人には見えなかった。

むしろ、他の誰とも違う。温かさを持ちつつ、どこか痛みを背負った、まるでラノベの主人公みたいな人。

……もっと、ちゃんと知りたい。


彼は私に向き合うとき、立ち姿も言葉も緊張でいっぱいなのに――その瞳だけは、不思議なくらい真っ直ぐで、強い意志を感じさせた。


「はぁ……それにしても、連絡先を交換できたのはいいけど……うぅ、なんて送ればいいのかわからないよ……」


第四章「おはよう」


七時三十分。携帯のアラームが鳴り響く。


起き上がると、意外にも気分はすっきりしていて、心も晴れやかだった。

簡単に身支度を整えて朝食をとり、少し休んでから制服に着替える。

いつも通り、八時ちょうどに家を出た。


家のドアを閉めると、ちょうど後ろから未央先輩が駆け寄ってくるところだった。


「おはよう!! 長谷川くん! よかった、ちょうど会えた!!」

「今日もどうぞよろしくねっ! な・が・た・に・が・わ・く・ん♪」


「おはようございます、八尋先輩」


「さ、行こう。これ以上遅れたら電車に間に合わなくなっちゃうよ」


未央先輩は嬉しそうに僕の手を取って、駅の方へと引っぱっていく。


──急なことだけれど、この感覚は嫌いじゃない。


これからの僕は、一体どんな試練に出会うのだろうか。

今の僕にはまだまったく分からない。けれど、未来はきっともっと刺激的で、輝いていると信じられる。


将来の目標はまだ探している途中だけれど……それでも、未来への自信は少しずつ大きくなっていた。


この青くて不器用な日々は、まだまだ続いていく。


第五章「日々は楽しくなったけど、面倒なこともついてきた」


先輩に見つけてもらってから、二人の交流は始まり、もう二週目に入っていた。

時間の流れはいつもより速く感じられる。


だが、僕には悩みがあった。


先輩が僕に親しく接してくれるようになってから、どうやら先輩は感情や社交に関してとても純粋で、周囲の視線をあまり意識していないようだった。

しかし、僕は過去の数々の辛い経験から、他人の視線にはかなり敏感になっている。


だから今、僕はよく「誰かに見られている」ような感覚に襲われる。

特に先輩と一緒に歩いているとき、笑いながら話しているその途中で、他人からの視線が僕に注がれているのを感じるのだ。


冷たい嫉妬の視線、熱い羨望の視線──。


「くそっ! このやつは一体何者なんだ、あんな自然に校内の最高ランク美少女と歩きながら笑って話してられるなんて!」

「羨ましすぎる……転校生なのに、入学して間もないのに全校の有名美少女と一緒に歩けるなんて!」


そんな視線に、僕の心の中はまるで氷と炎の五重奏のようだった。

確かに、みんなに見られているということは認めざるを得ない。しかし、この「見られている」感覚は──正直、あまり気分がいいものではなかった。


時刻はもう昼になっていた。


「はぁ……やっと午前の授業が終わった……」


東京ほど授業のテンポは速くないが、教えられる内容が簡単になっているわけではない。

ただ、授業のペースが僕に合っているので、成績は維持できていた。


──あ、そういえばテストがあるんだっけ。


急に顔が真剣な表情になる。

隣の席に座る、僕がこの高校で初めてできた友人──清水建人が、普段は別の友達と話していたが、僕の険しい表情に驚き、こちらを見た。


「長谷川、顔色が急に悪くなったけど、どうした? 保健室に行く?」


普段あまりこんな表情を見せない僕を、彼は違和感を持って見ているようだった。

まあ、毎日こんな重い顔をしているわけじゃない。

(他人の視線を意識している時以外はね……)


「いや、大丈夫。ただ、期末テストのことを思い出して少し悩んでいただけ。東京のときのテストはすごく難しかったから、ここの難易度が分からなくて……心配かけてごめん」


「なるほどね。安心して。せっかく新しい人生を始めるために福岡に来たんだから。それに東京の競争の激しさを経験してきたんだろ? 福岡なら大丈夫だよ。授業の進め方も君に合ってるんでしょ? 心配しなくていいよ」


(まさかオタク同士なのに、こんなに話がうまいとは……)

(でも、異性の扱いはやっぱり下手そうだな)


なるほど、過剰に心配する必要はなさそうだ。


授業中もノートはきちんと取っているし、そのノートは以前、先生にも褒められたことがある。

東京にいた頃、ほとんど友達がいなかったので、一人でできることはすべて自分でやっていた。暇な時間があれば授業中のノートを整理してノートにまとめていたので、ノート整理なんて朝飯前のようなものだ。


だからこそ、東京で耐え抜くことができたのだ。


福岡に来ても、DNAに刻まれた反射動作は変わらない。

授業中に重要なポイントはすぐにノートに書き込み、家に帰ってから整理してまとめる──。


「ねえ、あの超可愛い先輩と付き合ってるの?」


水を飲んでいた僕は、思わず噴き出しそうになった。


「今、学校中でその噂が広まってるの知ってる?」


予想はしていたが、まさかこんなに早く広まるとは……。

(高校生の情報共有力、恐るべし……)


なるほど、だから視線がますます増えている感覚があったのか。


「ち、違うよ! そんなことあるわけないだろ……」


──ふと、先日放課後にあったことを思い出す。


僕は最後に教室を出た。いつも通り、教室のドアを閉めて帰ろうとしたその時、学校のトラブルメーカーと思われる生徒に遭遇した。

どうやら彼も未央先輩のことが好きらしく、突然、理不尽に僕に絡んできたのだ。


正直、かなり困った。

内向的な僕にとって、これは苦痛以外の何物でもない。


その人物──葉山将男。

最近、僕と未央先輩の距離が縮まってきたことが、どうやら気に入らないらしい。

だから僕を攻撃の対象にしてきたのだ。


「おいおいおい、このクソオタめ! 未央に近づこうなんて、調子に乗るな! 転校生だからこのルール知らないだろ? 俺様が教えてやるぜ!」


彼は八尋先輩の名前を呼び捨てにして、極めて挑発的な口調で僕に言い放つ。


その瞬間、僕の怒りが頂点に達した。

背負っていたカバンを下ろし、彼の前に飛び出して襟首を掴み、右手を拳にして殴りかかろうとした──。


「ふざけんな! この野郎、自分が何様だと思ってるんだ! どれだけ偉いと思ってるんだ!」

「お前はただの自己満足の道化だろうがあああああああ!」


しかし、その瞬間、聞き覚えのある声が僕を呼び止めた。


「長谷川くん!!!!!」


──八尋先輩の声だ。

彼女が駆けつけてきて、僕とあの野郎が殴り合う寸前で止めてくれたのだ。


その瞬間、僕の怒りの拳は彼の顔の直前で止まった。

もう少しで、顔面に一発くらわすところだった……。


「長谷川くん、ちょっと待って」


先輩は僕を横に引き離し、落ち着かせる。


「気が狂ったの?」


その言葉と同時に、先輩の手が将男の顔を打つ。

「パシッ」という音と共に、彼の頬に鮮やかな手形がついた。

彼は驚愕の表情で先輩を見つめる──僕も状況外だったが、その光景は十分に衝撃的だった。


先輩に救われた瞬間だった。


混乱している僕を先輩は手を引いて廊下の反対側へ連れて行く。


「長谷川くん、本当にごめんなさい」


花壇のある廊下に出ると、先輩は謝り続ける。


(待って、この件は八尋先輩のせいじゃないんだけど……)


「長谷川くん、きっと変に思ったよね……」

(確かに……来たばかりなのに、こんな人物に絡まれるなんて……)


「この人、高校が始まってすぐからずっと私を追いかけてきて、『俺の運命の人だ』とか言ってたの……」

「本当に、ごめんなさい!」


先輩はひたすら謝るが、僕の小さな頭は高速で回転していた。


「八尋先輩、大丈夫です。この程度のことで僕に影響はありません」

(心の中では少し不快だったけど……)


振り返ると、先輩がそっと肩に寄り添ってくる。


「これから何か悩みがあったら、私に話してね。心に溜め込むのもよくないし、新しい環境に来たんだから、昔のことはもう考えなくていいんだよ」


こうして二人は中庭のベンチに座り、夕日が沈む時間を静かに過ごした。

先輩は僕の過去を静かに聞いてくれていた。


第六章「僕の過去」


僕、長谷川裕一。

僕もまた、平凡だけど少しばかり平凡ではない家庭に生まれた。


父は警察官で、夜もほとんど仕事に出ている。休みの日もほとんど家におらず、友人と飲みに行っては酔っ払って帰宅することが多かった。

だから、父との関係はかなり疎遠だった。


母は専業主婦だが、父の大雑把な性格のせいで、ほとんど父のことばかり心配しており、僕や妹のことにはあまり関心を示さなかった。


妹の名前は長谷川彩里。

名前の「彩」の通り、彼女は幼い頃から人々の注目を浴びて育った子で、両親も彼女をとても可愛がっていた。

だから、彼女の幼少期はとても幸福だった。


そのため、多くのことは僕一人で模索して覚えていくしかなかった。

そして、妹は生まれながらに甘やかされて育ったため、生活能力は驚くほど低い。

しかし、学校での彼女の立ち位置は僕と正反対で、非常に人気のある超陽キャだった。


掃除やお米を研ぐといった基本的なことすらできず、母に全部やってもらっていた。


僕は記憶がある限り、ずっといじめの対象だった。

誰を怒らせたのか、あるいは当時は世界の残酷さを知らなかっただけなのか、理由はわからない。

無数の言葉の暴力、陰湿な人間関係の虐待、グループ分けでも僕だけが一人残されることばかりだった。

僕は一体何を間違えたのだろうか?

自分でも全くわからなかった。


幼稚園時代はなんとか遊べていたが、小学校に上がっても孤独は変わらず、隅っこの席に座り、みんなが群れて遊ぶのをただ眺めるしかなかった。

時間が経つにつれて、僕は自分を閉ざすようになった。

これが、僕が本格的にオタクの道に入った理由だ。


誰も僕に関心を持たなかった。

いや、そもそも同年代の子と交流することすらなかった。

子どもの頃、僕は中高年の人間関係を眺めるだけで、同年代の子と交わる経験はほとんどなかったのだ。

だからどうやって同年代の子と関わればいいか、わからなかった。


六年生の頃、人生の恩人であり、福岡での住む場所を提供してくれる存在──梓川和優と出会った。

彼は当時、僕の隣の席に座っていた。

僕はいつも通り、一人で人気の軽小説を読んでいたのを覚えている。

彼もその本に興味を持ったらしい。


「長谷川、その本、読み終わったら貸してくれない?」


初めて、誰かがこんなにも丁寧に僕に物を借りたいと言ってきた瞬間だった。

学業優秀な彼が、オタク文化に興味を持つなんて、驚きだった。


僕はその本を彼に貸すことにした。

本を閉じて、手渡す準備をする。


「ほら、読みたいなら貸してもいいよ」

「いや、長谷川、君が読み終わってからでいいよ」


その後、少しずつ話すようになり、彼もまた孤独だったことを知る。

ただ、彼の家族は学業を重視していたため、塾に通っており、それが学業優秀と呼ばれる理由だった。

ほとんどの科目で満点を取る、まさに怪物のような存在で、高校は東京の御三家高校の一つ──開成高校に進学した。


天才と呼ばれる彼と、長年陰キャを演じ続けてきた僕は、立場も異なれば環境も異なるが、趣味は驚くほど似ていた。

それは非常に奇妙で、心地よい奇跡のようだった。


しかし中学に上がると、再び一人の孤独な日々に戻った。

彼のクラスは僕のクラスから遠く、ほとんど会うこともなかった。

彼は当時SNSを使っていなかったので、連絡を取ることはほぼ不可能だった。


中学生活はさらに苦痛だった。

中学生は恐ろしい生き物である。

僕は内向的な性格なので、他人とほとんど交流できなかった。

その中で、数名の怖い奴らが他人の噂をでっちあげるのを好み、僕は彼らの格好のターゲットとなった。


誰も僕がどんな人間か理解してくれなかった。

いや、むしろ、これは自業自得かもしれない。

僕は他人と関わろうと努力しなかったのだ。


だから僕は真っ白なキャンバスのように、彼らの低劣な創造力の餌食になった。


中二になっても状況は改善されず、さらに辛くなる一方だった。

中学時代、僕も好きな女の子がいた。

しかし処女の臆病心から、言葉を交わすこともできなかった。

ある日、なぜか自分でもわからない衝動で、彼女に告白してしまった。


その時代、僕はまだ紙に手書きで小さなメモを書き、渡す方式だった。

今のSNS時代なら、社会的に死ぬほど恥をかくこともなかっただろう。


結局、その出来事は中学卒業まで笑いものになり、視線はますます息苦しいものとなった。

その視線は、まるで死んだ変態を見ているかのようだった。


僕は……僕は何もしていないのに、弁明する力もなかった。

この全ては僕が変えられるものではなかった。


さらに息苦しい課題の圧力も加わった。

その時、僕は本気で、「今すぐ死んでしまおうか」と思ったこともある。

すでに全てを失っていたのだ。

尊厳を持って生きることさえ、許されなかった。


僕には、何を願うことも残されていなかった。

元から弱者である僕が、なぜこんなにも衝動的になるのか。


愛の力とは恐ろしい。人の理性を狂わせる。

しかし今の僕も、決して万全ではなかった。


僕は何を間違えたのか。

なぜいつも嘲笑の的になるのか。

今でも正しい答えは見つからない。


ただ、僕はかろうじて生き延び、蟑螂のように気持ち悪く、卑劣に生き延びた。

周囲に嫌われる存在として、しかしどうしても殺されることはなかった。


──もう思い出すのはやめよう。

思い返せば思い返すほど、精神が痛むだけだ。


僕は今も、突然こうした痛みを伴う記憶に沈むことがある。

だから、今さら振り返る意味はない。


考えているうちに、胃まで痛くなってきた。


第七章「事件の後日談」


僕と葉山将男が喧嘩をした件。

たった一日の午後と夜を経ただけで、どうやら学校中に知れ渡ってしまったらしい。


やはり、高校生の情報伝達スピードには舌を巻く。恐ろしすぎる。


彼の校内での地位は、確かに少し揺らいでいるようだった。

何せ、僕の目の前で、突如現れた八尋先輩にパチンと一発叩かれたのだから。


教室に座り、僕はぼんやりと窓の外を眺めた。

もう、そんなことを深く考えたくはなかった。


「裕一、昨日マジでやばかったな。あいつと殴り合いになるなんて、これから大谷川大兄貴って呼ぶしかないな」


建人の突然の言葉に、僕は少し驚いた。

こいつまで知っていたのか……どうやら、もう学校中に広まっているらしい。

あとは先生に放送されるだけだろう。


「こいつが度を越していたから、もう我慢できなかったんだ。あんな奴、もうたくさんだ」


僕は相変わらず窓の外を見つめながら、建人の言葉に淡々と答えた。

自分でも、こんなに平然とした口調で話せる自分に驚いていた。

これが、本心からの言葉だから、こうして淡々と話せるのかもしれない。


「まあ、もう終わったことだし、これ以上は触れないでおこう」


この件については、もう話したくなかった。

建人にも一応、そう伝えておいた方がいいだろうと思った。


「よし、なら最近長谷川が使えるかもしれない恋愛話題に切り替えようぜ!」

「使えるかもしれないって、何だよそれ!!!」


こうして僕らは、冗談を交わしながら、ゆったりとした昼休みを過ごした。


──それにしても、こんな日々は、一体どれくらい続くのだろうか。


第八章「思わぬ来訪者」


今日はいつも通り、朝の七時三十分まで寝ていて、スマホのアラームで目が覚めた。

でも、どうにも寝足りない感じで、もう一度二度寝したい……。


やはり、だんだん寒くなってきたようだ。布団の中でゴロゴロしているほうが、外に出て冷たい風を浴びるよりもずっと快適だ。

だが仕方ない、今日は平日だ。学校に行かなくてはならない。

いつも通り簡単に身支度を済ませ、朝食を食べたあと学校へ向かった。


八時に家を出て少し歩いたが、意外にも八尋先輩の姿は見えなかった。

仕方なく、先に自分だけで駅へ向かって歩いていると、背後に妙な気配を感じた。


「おい!長谷川!無視するなよ〜」


後ろから、聞き覚えのある声がした。八尋先輩ではない。東京でよく聞いた声……

その人は、


「梓川 和優」


東京時代、僕の唯一の友人。

まさに意外、そして意外。

この人は東京でかなり自由に暮らしていたはずだ。どうして福岡に来たのか、全く見当がつかない。


「和優、どうして急にここに来たんだ?」

僕は疑問を口にした。


「孤独少年・長谷川の召喚に応えに来たのさ!どうやら支援が必要らしいから、兄として僕が恋のサポートをしないわけにはいかないだろう〜」


うん、こいつは絶対にちょっかいを出しに来たに違いない。

それにしても、東京にいた時とは全然違うテンションだ。


「長谷川、俺がここに来た目的、わかるか?」

和優が突然真剣な口調になり、僕に問いかける。


「わからない」

僕の心からの答えだ。なぜ彼が福岡に来たのか、全く見当もつかない。


「さすがだね、観察力に欠けるなあ、こんな小さな変化も気づかないなんて」

彼がそう言うと、よく見てみると、彼の制服は僕と同じ学校のものだった。


「な……まさか」

転校してきたのか?


「そう、まさにその通り。俺は東京から転校してきたんだ」

和優は確かに、開成高校から福岡の僕の学校に転校してきたのだった。


「なんで教えてくれなかったんだよ、和優」

『サプライズにしたかったんだよ』

和優はそう答える。

まさに意外な展開だ。


「さあ、学校に行こう。遅刻する前に」

時計を見ると、もう少し遅れたら電車に間に合わない。

うん、急いで出発しよう。


駅に向かう道すがら、和優と最近あった出来事について話した。

すると、後ろから女性の声が聞こえてきた。澄んでいて、耳に心地よい声。


「長谷川くん!!待って〜!!」


振り返ると、八尋先輩が僕の方に走ってきていた。

「よかった、間に合った……あれ?長谷川くん、その隣の人は……?」

どうやら先輩は寝坊したらしい。


「えっと、この人は梓川 和優、東京での僕の友人だ」

『はじめまして、梓川 和優です。よろしくお願いします』

ああ、やはり彼は異性の前では素直になるタイプらしい。


「なるほど、長谷川くんがよく話していた梓川くんか、よろしくね!」

僕が和優を見ると、彼の耳は真っ赤になっていた。


「和優、耳が目立ちすぎだぞ」

異性の言葉にめっぽう弱いらしい。


「おい、長谷川、この超かわいい女の子は、前に話していた八尋先輩か?」

梓川が耳元で小声で聞いてくる。

僕は誇らしげにうなずいた。


梓川は悔しそうな顔をしていた。内心はきっと、

(くそ……こいつ、転校先でもこんな素敵な女の子に出会えるなんて、悔しい……!)

そんな感情だろう。


「さあ、行こう。もう電車に間に合わなくなるよ」

八尋先輩がそう言い、僕はまだ不満げな和優を連れて駅へ向かった。

すると、和優は道中ずっと黙っていた。


うん、僕も八尋先輩に会う前は、異性とどう話していいかわからず、あんな感じだった。


学校に着くと、和優は先生を探しに行き、僕と八尋先輩は別々の教室へ向かった。


「長谷川、最近うちの学校にすごい転校生が来たらしいぜ」

隣の建人が話しかけてきた。

誰のことかは言うまでもない。東京の開成高校から来た人物だ。


「みんな席に戻って、これから学級会を始めます」

担任が教室に戻り、学級会の準備を始めた。


「今日、新しい転校生がいます。まず自己紹介をしてもらいましょう」

先生がドアの外を指差し、入ってきたのは見覚えのある人物。


黒板に自分の名前を書く。


「梓川 和優」


皆がざわつく中、彼は自己紹介を始めた。

「皆さん、こんにちは。東京の開成高校から来ました、梓川 和優です。東京の生活リズムがあまり好きではなく、新しい環境で色々な人に会いたくてこちらに来ました。皆さん、よろしくお願いします」


意外と話もうまい。驚かされた。


「では、梓川くん、その席に座ってください」

先生が僕の後ろの空席を指す。


「はい、わかりました。ありがとうございます」

和優は僕の後ろに座った。


「裕一、座席いいじゃん。景色もいい、最後列から二番目だ」

クラスメイトたちは、和優と僕がすぐに話す姿を不思議そうに見ていた。

僕らは旧知の間柄なので、別に不思議なことではない。


「長谷川、君、彼を知ってるのか?」

建人が驚いた顔で聞く。


「そうだよ。和優は東京での古い友人なんだ」

僕が答えると、建人は大いに驚いた。


「長谷川、舐めてられないな。東京出身とは忘れてたぜ!」

「東京の人間が全員すごいわけじゃないだろ!」


こうして、クラスは騒がしい雰囲気のまま一日を過ごした。


放課後、今日は特に疲れた気がした……。

「長谷川、この辺りに美味しい店ってあるの?」

突然思い出す。福岡に来てから、あまり外出していなかったことを。

基本は通学か、家の近くのコンビニだけだった。


ふと思い出した。ゲームで行ったあのレストラン、現実にも同じ店があるかもしれない。行ってみよう。


「おお、御好焼きの店ならあるよ。まだ行ったことはないけど、美味しそうだし、ちょうどいい機会だ」

「いいね、福岡で御好焼き食べてみたかったんだ」


こうして僕らは、学校から少し距離のある御好焼き店へ向かった。


「ところで、和優、ちょっと聞きたいことがあるんだ」

僕は好奇心に駆られていた。なぜ彼は福岡に来たのか。


「理由は簡単だよ。朝言った通り、違う場所を見てみたかっただけ。東京は確かに、君がよく言う通り、毒のある社会リズムで、普通の人間なら耐えられないだろう」


彼の言う通りだ。生活のリズムが早すぎて息が詰まる。

高圧な環境では、他人をいじめることすらストレス解消になってしまう。

これは学校ではよくあることだ。


「で、和優はどこに住むの?」

彼はここに来たが、福岡で僕の家に部屋を借りていた。まだ住む場所はあるのか?


「裕一、心配いらないよ。一部屋借りてある。大きくはないけど、十分使える」


少し罪悪感を覚えた。


「和優」

『ん?どうした?』

「僕、福岡に来て、まるで異世界に転生したみたいに感じてるんだ。みんな僕のことを知らないから、生活をリスタートできる。君も同じ気持ちだろ?」

『そうだね。だから君がここに来た理由も納得だよ。ちょうどいい生活リズムも、君に合ってる』


夕日が道を斜めに照らす中、僕は思い出した。

以前は孤独に街を歩き、数え切れない人々が僕の横を通り過ぎていったことを。


今の時間まで、心は傷だらけで、現実から逃げて自分だけの小さな空間に籠りたかった。

だが、この社会に屈してはいけない。

僕は、消えゆく青春に逆襲するのだ。臆して逃げるわけにはいかない。


そんなことを考えつつ、店に到着した。


「いらっしゃいませ!何名様ですか?」

「二名です、ありがとうございます」


僕と和優は窓際の席に座った。


「はぁ、疲れた……」

「裕一、福岡に来てどんなことがあったんだ?」

「あ、そうだ、和優。ちょっとお願いがあるんだけど」

「どうした?急に?」

「前に話した先輩の件なんだけど、遊園地のチケットみたいに、特殊ルートで手に入れる方法、お願いできるかな?」


梓川家なら、こういうものを手に入れることは容易だろう。


「ああ、それだけでいいの?」

和優の口調は、まるで簡単なことのように聞こえる。


「もちろん手伝うよ。でも、俺もお願いがある」


和優は快く了承したが、意外にも彼も僕に頼みたいことがあるらしい。


「先生を知っているだろう?先生に頼んで、部活を立ち上げよう。最低三人と顧問一名でできるんだ。軽小説研究部を作ろう。父さんに頼んで小説を送ってもらう。君の先輩も軽小説に興味あるだろ?そうすれば一緒に過ごす時間が増える。もちろん俺も計画があってね、詳細は後で教える」


和優は部活を作りたがっているが、同時に何かを画策しているようだ。

だが、この条件は僕にとってあまりに魅力的だ。


「お待たせしました〜!ご注文の材料です。どうぞお楽しみください〜」


御好焼きの材料が届き、鉄板に置くとジュウジュウと音を立てる。食欲が刺激される。


「うん、この条件なら問題ない。受けよう」


こうして、二人の相互協力(?)が始まろうとしていた。


第九章「僕たちの部活」


新しい一週間が始まった。

なんだか寝足りない気がする。あるいは、天気が寒すぎるせいで、暖かい布団から出たくないのかもしれない。

(ああ、毎日が休日だったらいいのに……)


カーテンを開けると、なんと雪が降り始めていた。

こりゃ、服ももっと厚着にしないといけないな。


玄関を開けると、ひんやりした風が吹き込む。


「おはよう〜、長谷川くん〜」


左耳に八尋先輩の声が届いた。

あの明るくて心地いい声は、一生忘れられそうにない。


「あ、あ、おはようございます、八尋先輩」


先輩は相変わらず元気いっぱいな様子だ。


「そうだ、最近顧問の先生を見つけて部活を作ろうと思ってるんだけど、先輩も私の部活に入ってみませんか?」


駅まで一緒に歩きながら、僕は少し探るように先輩に訊いてみた。


「え?どんな部活なの?」


どうやら先輩は興味があるようだ。


「僕が作りたい部活は、たぶん軽小説を研究する部活です。こういう文芸系の部活は、創設も比較的簡単だし、梓川も一緒に参加すると言ってくれてるんです。それに梓川は家にたくさん小説を持っているので、学校に持ち込めば、あとメンバー1人と顧問の先生1人で部活が成立するんです。先輩、参加してくれませんか?」


僕はざっくりと、自分の考えを八尋先輩に説明した。


「あ〜、なるほどね!学校の時間に小説を読めるなんて、最高じゃないですか!!ぜひ私も参加させてください!!」


よかった、先輩も部活に入ってくれることになった。

これで、あとは顧問の先生を見つけるだけだ。


僕はスマホを手に取り、梓川にそのことを伝えようとしたそのとき——


「ゴンッ」


額に痛みが走った。

スマホを見ながら歩いていたので、前を見ておらず、電柱に直撃してしまったのだ。


幸い、ゆっくり歩いていたので大きな衝撃ではなかったが、やっぱり痛い。


「ええええっ!?長谷川くん、大丈夫!?」


どうやら八尋先輩に、電柱にぶつかったことがバレたらしい。


僕は手で額を触ると、少し赤く腫れて熱い。


「はぁ……大丈夫、うぅ……」


すると先輩が突然体を寄せてきた。


「本当に大丈夫?無理しちゃだめよ!」


どうやら僕が思ったより強くぶつかったらしく、八尋先輩も少し慌てて心配してくれているようだ。


「大丈夫だから、さあ、学校に急ごう」


スマホで時間を確認すると、このままでは電車に遅れてしまう。


教室に着くと、梓川は席でスマホを触っていた。


「おはよう、和優。今日は何する予定?」


どうやら何か作業をしているらしい。


「うん、おはよう裕……あれ?頭どうしたの?」


僕の額の腫れが、朝の電柱直撃でさらに目立っているようだ。


「ああ、この額のこと?朝、学校に来るときに前を見ずに電柱にぶつかっちゃったんだ」


そう説明すると、やっぱり額が少し痛い。


「もう、君ってば、また歩きながらぼーっとしてたのか?」


昔もよく、そうして道でケガをしたことがある。


「いや、今日は違うんだ。メールを送ろうと思ってスマホ見てたら、つい前見ずにぶつかっちゃった。学校に着いたら報告しようと思ってたんだ」


『何のこと?』


和優は少し疑問げに訊いてきた。


「八尋先輩が部活に参加してくれることになったんだ。あとは顧問の先生を見つけるだけで、部活が成立するんだけど、まだどの先生にお願いするか考えてて……」


そのとき、スマホが通知音を鳴らした。


「え?」


『あ?どうしたの?』


画面にはこう表示されていた:


「メンバーは揃ったみたいだね、長谷川くん。顧問の先生探してるんでしょ?」

「見つけたよ〜❤️」


僕と和優は、スマホのメッセージを見て固まった。


「え?」

「ええええええええええええええええええええ!?」


こうして、顧問の先生問題も無事解決した。


僕と和優は部活申請書を持ち、八尋先輩と一緒に顧問の先生にサインしてもらい、学校に提出した。

あとは連絡を待つだけだ。


気づけば昼になっていた。


「和優、購買に行かない?」

『いいよ、ちょうどお昼買おうと思ってた』


少し外の空気を吸って深呼吸したくなった。


「やっぱり、人が多い環境はまだ辛いんだね?」


教室を出た僕に、和優はそう声をかけた。


「うん、そうだね。昔のことがトラウマになってて、人が多い場所だと息が詰まるんだ」


『ふふ、どこに行っても君は君だね』


「別の場所に住めば、急に性格変わって別人になるってこともないよね」


『そうだね、ただ場所が変わっただけで別人になるなんておかしいよ』


「そういえば、学校内をこんな風に散歩するのって久しぶりだな、懐かしいな……」


『また昔を懐かしんでるの?今君が立ってる場所が一番いいんだよ』


「そうだね、今からまた新しいスタートだ……」


歩いていくと、購買に到着した。


『何を食べようかな……』

「あ、このパン美味しそう」

『じゃあこれにしよう』


和優は相変わらず太っ腹で、まさに金持ちの世界。


『ところで、何か食べたいものある?僕が奢るよ』

「じゃあ、この焼きそばにしよう」


こうして、昼食を一回奢ってもらった。


教室に戻ると、机の上に紙が置いてあった。


「梓川和優」

『ん?どうしたの?』

「これ見て、部活の申請通ったよ」

『うわ、もう通ったの!?』

「あとで顧問の先生に挨拶行こう」

『うん、いいね』


こうして、長い午後の授業時間を過ごすことになった。


「行こう、和優。顧問の先生のところに行こう」

『うん、行こう』


放課後、僕たちは教師室へ向かい、部活の顧問の先生を訪ねた。


「長谷川くん〜、こっちこっち〜」


教室を出ると、八尋先輩の声が聞こえた。

先輩がわざわざ私たちのクラスに来てくれたのだ。


「部活の申請、通ったみたいね、よかった〜」


先輩も嬉しそうだ。

好きなことを仲間と一緒にできる喜びは、誰でも嬉しいものだろう。


「私たちはまず顧問の先生に会いに行きます。先輩も行きますか?」

「あ、いいよ〜、じゃあ行こう〜」


「行こう、和優」

「うん、行こう」


僕と和優は八尋先輩に続いて、部活の顧問の先生を訪ねた。


「小雫〜、部活のみんなを連れてきたよ〜」


先輩がそう言う小雫先生は、彼女たちのクラスの担任——梶本雫先生だ。

朝、先輩が僕たちを連れて行った時も、先生は歓迎してくれていた。


「部活の申請、通ったんだね。じゃあ、ついてきて。部室に案内するよ」


梶本先生は机の上の半分残ったコーヒーを片付け、僕たち三人を部室に案内した。


「ここが君たちの部室だよ〜」


部室は僕と梓川の教室から意外と近く、通路ひとつ分歩けば到着する距離だ。


これで、梓川も小説を運ぶのが楽になるだろう。


「先生はこれで失礼します。部活の時間を楽しんでね〜」


梶本先生は部室を案内した後、先に帰られた。


「じゃあ、まず部活のルールを決めましょうか」


梓川は小さなホワイトボードとペンを取り、僕と八尋先輩に提案を始めた。


「では、まず最初のルールです。この部活は基本自由参加です。急用がある場合は連絡すればOK。異議はありますか?」


「同意します」

『私も同意』


自由参加のルールは、この人数の少ない部活にはちょうどいいだろう。


「よし、第一のルール、自由参加、通過」


「他に提案はありますか?」


梓川が僕と先輩を見て、次は僕たちの番だ。


「えっと、梓川くん、部活にお菓子を持ってきて、みんなで食べながら小説を読んでもいいですか?」

『いいよ、それ!!』


梓川は即答した。美少女には弱いのだろう。


「和優、ちょっと思いついたんだけど」

『うん、裕一どうぞ』

「お菓子が出るなら、お茶もあったほうがいいよね。部室に電気ポット置こうよ」

『おお、いいね!』


こうして、半分真面目で半分ワイワイした初回部活の午後は過ぎていった。


「そろそろ帰るね、裕一、八尋先輩。あとはよろしく」


和優は先に帰った。


『この部室、意外と広いね……』


先輩がそう言い、僕も部室を見渡した。

確かに広く、奥には使われていない机や椅子が山積みになっているが、ちゃんと使えるようだ。


「もう大体話もまとまったし、八尋先輩、一緒に帰りますか?」


『あ、いいよ。ちょうど明日の朝ごはんを買いたかったの』


先輩は無邪気に笑った。その言葉の裏に色々想像できるのだが、理性で抑える。


学校を出て駅に向かう途中も、いつも通り最近読んだ軽小説の話をしながら歩いた。


駅を出てコンビニに向かう道は、雪で真っ白だ。美しいが、歩きにくい。


『うわあああ』

「八尋先輩!気をつけて!!」


先輩が滑って倒れそうになった瞬間、反射的に僕は先輩を抱きしめて自分の体で支えた。


「長谷川くん……」


我に返ると、先輩を抱きしめたままだったことに気づき、すぐに体を離した。


「あ、八尋先輩、本当にごめんなさい」


思わずドキドキする。美少女が自分の腕の中にいる。

心臓の鼓動が、さっきのアドレナリンより早い気がする。


『長谷川くん、本当にありがとう。もしあの時守ってくれなかったら、冷たい地面に倒れていたかも……』


その言葉で、体温がさらに上がる。


「うわっ!?長谷川くん?大丈夫?顔赤いけど、ほんとに平気?」


どうやら先輩は、自分の言葉の殺傷力に気づいていないらしい。


「……大丈夫、さあ、コンビニ行こう」


幸い、先輩は怪我していなかった。


「さっき長谷川くんが助けてくれたから、今日は私が奢るね!」


女の子に奢られるのは少し恥ずかしいが、断る理由もない。


こうして、ちょっとしたハプニングもあったが、楽しいひとときを先輩と過ごしたのだった。


第十章「初めての彼女との部活時間と予想外の出来事」


今日は火曜日、目覚める時間はスマホの設定より早く、今の時間は朝の六時。

おそらく昨日早く寝たせいで、体がしっかりと睡眠をとった感覚になっているのだろう。


スマホを見て、通知が来ていないか確認してみる。


「ん?和優からメッセージ?」

『先日、父さんにお願いして少し小説を送ってもらったんだけど、俺の部屋まで取りに来て手伝ってくれる?』


「OK」

和優はこんな朝早くから起きているのか、さすがに不思議だ。

普段、こいつは朝起きても必ず二度寝するタイプだったはずだ。特にこの寒くて布団から出たくない季節なら、もっと長く寝ているに違いない。


まあ、気にせず、とりあえず彼の部屋に行って本を運ぼう。

あ、そうだ。八尋先輩にも先に連絡を入れておこう。家の前で待たせてしまわないように。


ふと、自分は最近、何かあるたびに八尋先輩のことをまず考えてしまうことに気づく。

これが人々が言う、青春特有の「ときめき」の魔法なのだろうか。


ドアを開けると、ひんやりとした風が吹き込んできた。家の中よりも冷たい。

だが、それでも和優の家に向かうのを妨げるほどではない。

幸い、学校の制服には冬用のコートがあるので、校則に違反せず十分に暖かくできる。


実際、福岡の気候は東京よりも暖かい。東京は緯度が高いので、より寒いのだ。


和優の部屋は駅の反対側、つまりまっすぐ進めば到着する距離にある。

駅を過ぎてすぐ、和優の部屋に着いた。僕はインターホンを押す。


(ピンポーン)


『はい、どなたですか?』

「和優、長谷川だ。本を手伝いに来たよ」


『あ、裕一か。ちょっと待ってて』


程なくして、和優がドアを開けた。制服に着替え済みだった。


『どうぞ』

「お邪魔します」


部屋に入ると、客間は箱でいっぱいだった。

箱には梓川書局のマークがあり、多くは部室に持っていくためのものらしい。


『ごめんね、昨日届いたばかりで整理してなくて、部屋が少し散らかってるんだ』

(なるほど、昨日早めに出かけたのは宅配を待つためだったのか)


『とりあえず、いくつか箱に詰めて運ぼう』


父親から送られた本は多種多様で、青春恋愛系のライトノベルからミステリーまで揃っている。

中には、僕が全巻読破した作品もあった。


だから、まず僕が以前読んで面白かったものと、読む予定だったが買えなかったライトノベルをいくつか選び、箱に詰めて学校に運ぶ準備をした。


「そういえば、和優も本を選んだの?」

「ああ、三、四セットくらい箱に入れて置いたよ」


和優は客間の低いテーブルの上に置かれた梓川書局の小箱を指した。

三、四セットがあのサイズの箱に収まるということは、長編ではなく、四〜六巻で完結する作品だろう。


(うう、この短編シリーズって、毎回ちょっとずつ食べてるような感覚で、続きが気になるけどあっという間に完結してしまうんだよな……)


「じゃあ、全部揃ったし、出発しよう」

『うん、ちょっと待って、紅茶を飲み終わったら出発するよ』


カップから立ち上る湯気が、彼の上品な公子感をさらに引き立てる。まるでライトノベルから抜け出した王子様のようだ。

思い出した、昔、彼は「王子様」と呼ばれていたこともあったっけ。


毎朝、こんなにゆったり過ごせるなんて、さすが梓川家の御曹司だ。


『よし、行こう』

最後の紅茶を飲み干し、蓋をして置いたカップを片付けると、和優は立ち上がり出発の準備を整えた。


なるほど、この朝の時間差で、和優が毎日僕より先に学校に着くことも納得だ。

家の前で待ち伏せできるほど朝の自律心があるとは……本当にすごい。


こうして、僕と和優はそれぞれ箱を一つずつ持ち、駅へ向かって歩き始めた。


「和優、そういえば、この本は部室のどこに置けばいいの?」

歩きながらふと疑問が湧く。


『学校に着いてからまだ時間あるし、昨日部室に行って机を少し後ろから出しておいたよ』

(ん?いつの間にこんなに勤勉になったんだ?確かに、こいつは怠け者のはずだ……)

(まあ、深く考えるのはやめよう)


和優は、僕と八尋先輩が帰った後に部室を整理していたらしい。


駅のホームに着くと、電車がすぐ到着した。

僕と和優は箱を持って乗り込み、少し大変だった。


電車を降り、話しながら学校に到着。今日は時間がいつもより早く過ぎた気がする。


学校に着いて少し歩くと、部室に到着。

僕と和優は本をどこに置くか考えた。


結局、窓際の長机の上に並べることにした。

ちょっとした書展のようで、意外な演出効果があった。

箱は平らにして、隅に置くことにした。


「おはよう、長谷川、梓川」

『おはよう、清水』


部室に入ると、建人は元気いっぱいに挨拶してきた。

こうして、一日が始まる。


今は前の授業で数学をやっていて、とても退屈……

窓の外を眺めながら、頭はぼんやりとしていた。

(八尋先輩と一緒に座って小説読めたら……最高なんだけど……)


「この問題、わかる人いますか?」

「長谷川くんはぼんやりしてる。もう解けるだろうから、長谷川くん、前に出て解いてください!」

「長谷川くん、聞こえましたか?」


『裕一!!先生が呼んでるよ!!』

梓川に肩を揺さぶられ、我に返る。


「え?」

『前に出て解答して。数学の先生に授業中ぼーっとしてるのを見られたんだ』

「えええええええええ???」


こうして、ぼーっとしていた僕は撃墜された。


「ふぅ、危なかった」

幸い、この問題は簡単で、なんとか解けた。


『長谷川、すごすぎるよ。俺でも授業中ぼーっとできないのに』

「適当に書いただけだよ」

(口だけだ。本当は数学はめちゃくちゃ苦手だ)


こうして、ぼーっとしたり、皆と喋ったりしながら、一日が過ぎた。

(今日は授業も比較的簡単だったし、あの恐怖の数学以外はね)


「やっと一日終わった……もう力尽きた……」

机に伏せ、何もしたくない。ただ休みたいだけだ。


『裕一』

「ん?どうした?」

『今日はちょっと用事があるから、部活は行かないよ。今日は部活、任せた』

「うん、わかった」

『じゃあ、先に行くね。裕一、部活頼むよ。じゃあね』

「じゃあね」


疲れた……部室で少し寝よう。


部室に入ると、まだ誰も来ていない様子で、朝と同じ配置。

電気はつけていないが、冬の日差しが差し込み、雰囲気は最高だ。


今はそんなこと気にせず、とりあえず仮眠を取ることにした。

後ろの机を窓際に移動させ、そのまま机に伏せて寝る。


冬の日差しが差し込み、光と体感温度がとても心地いい。


少しだけ……少しだけ寝よう……。


*


私は、八尋未央。今、長谷川くんの部活に向かおうとしている。

今、部室には誰かいるのだろうか……?


部室の前まで歩いていくと、中の明かりは点いていなかった。

みんな、まだ来ていないのだろうか。


そっと部室の扉を開けて中を覗くと、長谷川くんが部室にいた。


部室に足を踏み入れると、長谷川くんはすでに眠っていて、どうやらぐっすり眠っている様子だった。


部室をじっくり見回すと、昨日とは少し配置が違っているようだ。

長谷川くんの机の前に横向きの長机が置かれ、その上には本がいっぱい並んでいる。


近づいて、どんな本か見てみる。

(うわぁぁ、すごい量のライトノベル……)


どうやら選ばれた本らしく、昔から評判の良い作品や、最近人気のシリーズが揃っている。

(あぁぁ、ここはまさに天国……)


その時、長谷川くんが机から床に落ちた。


「な、なぜ……俺を……こんな目に……」

「俺は……何を……間違えた……」

「お願い……放……して……」


長谷川くん、倒れたまま夢の中でまだ話しているのだろうか。

机から落ちた後も、彼は目を覚まさず、悪夢と戦い続けている。


「う……うぅ……」


動かない長谷川くんを見て、少し心配になった。

この時、私の頭に浮かんだ唯一の方法は……


「ひざ枕」


ライトノベルでは、女主人公が不安な状態の男性主人公を安心させるために、大腿の上に寝かせる場面がよくある。

私自身、この方法が現実でも有効かどうかはわからない。

ただ今は、長谷川くんが少しでも苦しまずにいてくれることだけを願った。


興味のある本を一冊手に取り、長谷川くんの隣に座る。


「長谷川くん、大丈夫だよ。ここにいるから」


小さな声でそう言いながら、自分の太ももを長谷川くんの頭の下に置く。

想像以上に恥ずかしい……


手で長谷川くんの顔をそっと撫でると、ひんやりとした感触が伝わってくる。


「う……うぅ……ど、どけよ……この……バカ……」

「俺はもう……お前たちの……笑い者じゃ……ない……」


少しずつ、彼の表情が重苦しくなくなっていく。

彼が目を覚ますまで、そばにいることにしよう。


*


私は、机に伏せた状態から目を覚ました。

嗅ぐ空気は、今いる福岡の学校の木の床の香りとはまったく違い、東京の重くて不快な匂いがした。


重たい体を起こすが、目に入ったのは私の部室ではなかった。

冷たい石の床、古びた木の机と椅子、そして……

あの忌々しい連中。


目を覚ますと、私は東京の学校に戻っていた。


「おいおい、長谷川、まだ寝てるのか?ここで寝る資格があると思ってるのか?」


冷たい言葉が、再び私の心を凍らせる。


『な……なんで……福岡じゃなかったの……美音?未央?俺は一体どこに……』

「意識失って寝すぎたんだろ?かわいそうに、アニメ見すぎて脳が壊れたのか?」

「夢を見るのはもうやめろ。こここそ現実だ、お前には受け入れられないだろうけどね~」

「なら俺が頭をぶん殴って目を覚まさせてやる~覚悟しろ!」


突然の野郎のバット攻撃で、私は肝を冷やす。


『う……あ……』

激痛により、倒れ動けなくなる。


『な、なぜ……俺を……こんな目に……』

『俺は……何を……間違えた……』


力を完全に失い、体を支えることすらできない。

目の前の景色は暗く沈み、まるで命が消えていくかのようだった。


「長谷川くん、大丈夫だよ。ここにいるから」


完全に暗闇に包まれそうになった時、耳元に銀鈴のような澄んだ声が届く。

それは――八尋先輩の声だった。


私は、ただの悪夢の中にいることに気付く。

(悪夢だけど、あまりにもリアルで怖すぎる……)


『そうか……わかったわ』


一瞬で、私は悪夢の中にいることを理解し、徐々に景色がはっきりし、痛みも和らいだ。


『くそ、あんたたち……』

『今の俺は、あの弱々しい長谷川裕一じゃない』


重く痛む体に力を込めて起き上がる。


『どけよ、このクソ野郎ども』

『俺はもうお前たちの笑い者じゃない……』

『死ね!!!!!!!!』


不良少年の手からバットを奪い、頭に向かって振り下ろす。


しばらく乱闘した後、先ほど叩かれた箇所が再び強い痛みを伴い、視界が純粋な闇に包まれる。


こうして、私は意識を失った。

意識は泡のように消え去っていく。


本当にこれが現実なのだろうか。

全ては幻聴なのか。

私はまだ、孤独なのだろうか。


そう、うまくいくわけがない。

こんなことが自分に起こるはずがない。


どうやら、さっき見た光景こそが、私の現実だったらしい。

私は相変わらず愚かで、哀れだ。


全てを放っておこう。もう、覚悟はできた。

呼吸がますます苦しくなる。

まるで海に沈むように、意識は徐々に闇に飲み込まれる。


「長谷川くん?」

「大丈夫だよ、ここにいるから、不安にならないで。ずっと……ずっと、そばにいるから」


耳元に未央の声が届く。

沈み続けていた意識の中、底知れぬ寒い闇に、一筋の温かい光が差し込むように感じた。


私はその光に包まれ、暖かさに守られる。

なぜだろう。


意識がゆっくり体に戻っていく。

私は、誰かに抱きかかえられているらしい。

鼻先に、あの馴染みの香り。


ゆっくり目を開けると、確かに誰かに抱きかかえられていた。


「八尋……先輩……」

『あ、長谷川くん、起きたのね』

『よかった、無事で。さっきは痛そうで、すごく心配したんだから』


夢の中だけでなく、外見でも強い苦痛を感じていたらしい。


「抱……ごめんなさい、さっき少し疲れていたから昼寝しようと思っただけなのに、悪夢を見てしまいました」

『どんな悪夢だったの?話すと気持ちが少し楽になるかもよ』


「東京に戻って、クラスの連中と喧嘩してしまった夢です」

「でも前にバットで叩かれて、強い痛みでまた意識を失ったんです」

「現実だと言われても、今いる場所が夢なのか現実なのか、わからなくなりました」

「今の状況は、僕にはほとんど達成不可能です」

「僕は……一体……」


一瞬、理性の糸が切れたかのように、夢の内容を次々に話してしまった。

感情も激しく揺れた。


その瞬間、八尋先輩は両手を差し伸べ、再び私を抱きしめてくれた。


『心配しなくていいよ、今あなたがいるのが、いわゆる「現実」だから』


八尋先輩は、夢に囚われた私の心を優しく落ち着かせてくれた。

いつの間にか、私は他人に「気にかけてもらう」という感覚を失っていた。

誰も私の存在に構わず、遠ざかるばかりだった。


そうか、なぜなんだろう。

少し、落ち着こう。


「八尋先輩」

『ん、どうしたの?』

「ありがとう、今はとても楽になった。それに、ごめんね、心配かけて」

『大丈夫よ。誰でも感情を解放する時は必要なんだから。溜め込みすぎると病気になっちゃうよ』

『でも、この慰めは長谷川くんだけのものだよ~』


八尋先輩は耳元で小さく囁く。


『もう暗くなったし、一緒に帰ろう』


八尋先輩の言葉に、私は後ろの窓を見る。

空はすっかり暗くなっていた。


スマホで時間を確認すると、驚いた。


「19:00」


悪夢に囚われて、こんなに時間が経っていたとは……。

精神力も、普通の人より強いのかもしれない。


「うん、一緒に帰ろう」


電車を降り、人の多い市街地を抜けて、住宅街に向かう。


「八尋先輩」

『ん?どうしたの、長谷川くん』

「さっきは……本当にすみません、取り乱して」

『学校でも言ったけど、人は感情を解放する時が必要なの』

『こんな長谷川くん、私も初めて見たわ~』


少し恥ずかしい気分になる。


「八尋先輩、ありがとう。もしあなたがいなかったら、もっと悪夢に囚われていたかもしれません」

「本当に、ありがとう」


やはり、感謝を伝えるべきだ。


『大丈夫よ。次があっても、ちゃんと面倒を見るから』

『悪夢の中で孤軍奮闘するあなたを見ると、少し胸が痛むんだ~』

「次は、やっぱりない方がいいですけどね……」

『それはわからないけどね~』


話しているうちに、家の前に到着した。


「じゃあ、八尋先輩、また明日」

『また明日~長谷川くん~』


家に戻りながら、私は考えていた。

なぜ、あんな夢を見てしまうのだろう。

もう、あの有害な環境から離れたのに、なぜ潜在意識はあの痛ましい世界を再生するのだろうか。


考えていると、再び強い疲労感を覚えた。

寝よう、もう悪夢は見たくない。


体が逃げるように、関連することを思い出すと強い疲労が生じる。

体まで主人の性格と同じく、何もかもから逃げたがる。情けない。


自分の存在が嫌かと問われれば、同意しつつも、同意しきれない。

でも今は、もう考えたくない。

ただ、「休みたい」だけだ。


終幕 ―「僕の青春は、まだ続いている」


深い眠りの中にいた僕は、突然目を覚ました。

おそらく、体が十分に休息を取ったのだろう。


今、僕の周りにあるもの――

全てが僕のもので、僕だけのものだと実感する。


美音、未央、建人、和優。

みんな、僕を歓迎してくれて、友達でいてくれる。


今のこの環境は、昔の僕とはまったく違っている。


ありがとう、そして、これからもよろしくね。


さて、もう一度、一気に朝まで寝てしまおう。


携帯電話がいつも通りの時間にアラームを鳴らす。

新しい一日が、また始まろうとしている。


いつも通り、簡単に身支度を整え、

昨日の帰りにコンビニで買っておいた朝食を食べる。

時計を見ると、ちょうど八時。そろそろ出かける時間だ。


扉を開けると、八尋先輩もタイミングよく僕の家に来ていた。

遠くから手を振り、小走りで僕のもとへ駆け寄る。


『おはよう~長谷川くん!』

『昨夜はよく眠れた?』


どうやら、僕の精神状態をまだ少し心配してくれているらしい。


「うん、八尋先輩、おはよう。心配しないで、昨日はよく眠れたよ」

(少なくとも、悪夢は見なかった。)


『そうなんだ~よかった』


八尋先輩は、突然僕の手を取った。


『行こう!一緒に学校へ!』

『放課後も一緒に部活に来てね!』


こうして、僕の一日がまた始まった。


これからどんなことが待ち受けているのだろう?

正直なところ、自分でもわからない。

ただ、できることなら、このまま順調に進んでほしいと願うばかりだ。


でも……本当に順調でいられるのだろうか。

僕自身、安易に答えを出すことはできない。


少なくとも、今の僕は、自分がある程度優位な立場にあると感じている。

おそらく――だが。


「新しい場所に来たからこそ、

かつてあの歪んだ環境で磨かれた、本当の力を発揮して、

自分の物語をもう一度書き直すチャンスがある」


今も僕は、この考えを胸に抱き続けている。


少なくとも、新しい「世界」では、

本来なら僕自身のものであるはずの――

他人に蹂躙され、消えかけていた――

「青春ラブコメ」を、もう一度紡ぎ直すことができる。


これはまだ始まりに過ぎない。

物語の終わりではない。


今、僕が持っている全てを、

僕が消え去るその日まで、

ずっと続けていきたい。


そして、僕が消える前まで忘れない、

完璧な青春の思い出にしたいのだ。


作者の雑談 ―「はじめまして」


読者の皆さま、こんにちは。理系の中の文系スーパーマンと申します。

このたびは、第一話

「陰鬱、陽だまり/僕、彼女。」

をご覧いただき、誠にありがとうございます。


まさか本当に書き上げてしまいました!!!!!(痛みと涙)


これが私の初めての作品であり、必ずや完璧な結末で締めくくるライトノベルになる予定ですのでご安心ください。

最後の結末で読者の皆さまに“大ダメージ”を与えるような展開は入れません。

だって、せっかく読んだのに結末で心に刃を刺されたようになったら、読者としても辛いじゃないですか(悲)。


私は信じています、長谷川は出会ったすべてを変えていけると。当時も彼はそう言っていました。

彼はすべてを経験したけれど、それでも自分の力で歩き抜いてきました。

心には無数の傷があるけれど、本当に立派な奴です。


だからこそ、彼の心の傷をゆっくり癒してくれる妹系の先輩を必ず登場させないと、

でなければ彼は本当に自滅しかねません。


もちろん、ここまで支えてくれた友人たちにも感謝しています。

彼らがいたからこそ、この作品を、元々は単に自分の心情を吐き出すだけのものであったものを、

第一話として形にするモチベーションを保つことができました。(元の原型は第四章までしか書いていませんでした)

これは私の血と汗の結晶です!


母胎単身で、ほとんど同年代や近い年齢の異性と交流経験のない私にとって、甘いラブコメを書くのはやはり少し難しく、

登場人物の心情や性格をより丁寧に想像する必要がありましたが、

私は(おそらく)自分の弱点を克服しました。


失った青春を、長谷川に代わりに思いっきり振りまかせて、

ついでに自分の悲惨な青春を記念したいのです(泣)。


もちろん、続きも書き続けていきます。

では、また縁があれば、投稿プラットフォームのどこかでお会いできることでしょう。


書いているうちに、もう年末、年越しの時期ですねw(執筆時点は2024年12月末頃です)

また一つ歳を取りましたね(囧)。


理系の文系スーパーマン

2025/6/7

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