表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ひまわりと、海

ひまわりと、海4 光のない部屋

作者: 小山らいか

「どうして、東京に来たの?」

 アヤカさんは静かに言った。「ここじゃ、海の絵は描けないでしょう」

 僕は、同級生に誘われて東京に来たこと、イラストレーターとして働いていることを話した。忙しいけれど充実していると、少しだけ噓もついた。「そう。それならよかった」

「風花に少しだけ聞きました。アヤカさんは、仕事、たいへんなんですか?」

 風花は、ママは悲しそうな顔をすると言っていた。今の仕事はつらいんだろうか。少しだけでも話を聞かせてもらって、彼女の気持ちが楽になればいいと思った。

 アヤカさんはそれにはすぐに答えず、遠くを見る目をした。その横顔は、以前より少し瘦せたように見えた。彼女は小さくため息をつくと、僕に笑顔を見せた。

「住み込みで働かせてもらって、とてもよくしてもらっているの。風花は、小学生になってから絵画教室に通っているのよ。たぶん、ハルくんの影響じゃないかな。あと、ピアノも習ってるの。お友達に誘われて。すごく楽しそうで」

 あの南の島の砂浜で、愛おしそうに風花を見つめていたときと同じ表情だった。「仕事はたいへんなときもあるけど、今は幸せに暮らしているから。もう、心配しないで」

 突き放すような物言いが、ほんの少し心にひっかかった。何か変だ。アヤカさん本人の言葉より、風花の母親を見る目を信じた。アヤカさんは、何かを、隠している――。

「……仕事をしていて、悲しそうな顔になるのは、なぜですか?」

 僕はアヤカさんの顔をまっすぐに見た。彼女は一瞬、動揺したように見えた。僕から目をそらし、足先に目線を移した。「話を、聞かせてもらえますか」彼女の手は震えていた。

 彼女は、東京に来てからのことを、少しずつ話し出した。

 親戚の紹介してくれた仕事は、小さな運送会社の事務だった。職場の近くにアパートも紹介してもらい、仕事にも慣れ、親子は穏やかに暮らしていた。ところが、業績が悪化し、勤め始めて一年あまりで会社は倒産した。職を失い、ほどなくして二人は住む場所も失った。困り果てているところへ、取引先だった通販会社の社長が、家政婦として働かないかと声をかけてくれたという。四十代前半の、まだ若いやり手の社長だった。

「それまで働いていた住み込みのお手伝いさんが辞めてしまってちょうど困っていたところだったって。それで、その人が住んでいた離れの部屋を使わせてもらえることになって。社長さんは、風花もそこから学校に通わせればいいって言ってくれたの」

 アヤカさんは一生懸命働いた。四月には風花は小学生になり、元気に学校に通い始めた。社長は風花をかわいがり、学用品や洋服など、必要なものがあればいろいろと補助をしてくれた。友達との付き合いでつらい思いをさせないよう、アヤカさんも風花に習い事をさせたり、遊びに行くときにはお小遣いやお菓子を持たせたりして気を遣っていた。

 初めのころは、社長の心遣いのおかげもあって、十分にやりくりできていた。少し金銭感覚がおかしくなっていた。しかし、そんな心遣いも次第になくなると、家計は厳しくなっていった。自分の着るものや食費を削っても、風花にはお友達と同じような生活をさせてやりたかった。相当無理をしていた。

 思い余って、少しだけお金を借りた。それはすぐに膨らんでいき、あっという間に自分の力ではどうすることもできなくなった。彼女は、あまりにも世間知らずだった。

 アヤカさんは恥を忍んで、社長のところへ相談に行った。社長は嫌な顔をせず、必要なだけお金を貸してくれた。しかしそれが三回目になると、彼は少し表情を曇らせた。

「貸すのは構わないけど……返すあてはあるのかな」

 アヤカさんは答えることができなかった。「……空いた時間に、外で働いてもいいでしょうか」夜、働きに出たいと言った。すると社長は、それはダメだと強い口調で言った。

 そこまでの覚悟があるなら、今夜、もう一度相談においで――彼は言った。風花を寝かせてから、深夜、一人で。「僕の言ってること、わかるよね。もちろん、断ってもいい」 

 何度も迷いながら、彼の部屋を訪ねた。彼は彼女の手を引いて、奥の寝室へ連れて行った。明かりを落とした部屋で、彼の相手になった。部屋を出るとき、彼はアヤカさんの手に数枚のお札をそっと握らせた。自分が何をしているか、現実を思い知らされた。

 一度手を染めたら、もう後戻りはできなかった。月に数回、深夜に彼を訪ねた。「僕は、強制はしない。決めるのは君だからね」悪いのは君だと、彼は何度も彼女に言い聞かせた。

「……こんなふうに、あなたに会いたくなかった。もう、あの時間には戻れないのに」

 彼女の涙は、僕の心を締めつけた。人のこれほど悲しい表情を、僕は見たことがない。

「幸せ……ですか、本当に。あなたにとっても、風花にとっても」

 僕の言葉が、彼女を余計に苦しめてしまうことはわかっていた。それでも、言わずにはいられなかった。彼女を愛していた。たとえ、何があっても。

 透き通るような淡い青の海。風に揺れるひまわり。もう一度、あの場所で、三人でやり直せたら。いまさら叶うはずもない願いが、心をよぎる。

「もう一度、あの海が見たいな」

 アヤカさんが消え入るような声で言った。そして涙をぬぐうと、立ち去っていった。

 もう一度、彼女とあの海へ――。そこから、未来につながる何かをつかめたら。 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ