最終章 科学と魔法が照らす未来
アルヴェオン王国歴一五八年、秋。
ヴァイオレットは、三年の留学を終え、ついに帰国した。
アルヴェオン王国は実りの秋を迎え、大地には豊穣の香りが満ちている。金色の麦畑が風に揺れ、王都ミナスの市場には収穫を祝う賑やかな声が響いていた。
長い旅路を終え、彼女は王宮へと足を踏み入れた。久方ぶりに見るサンクタス城の威厳ある石壁、整えられた中庭の草花、そして——彼女の帰りを待つ、あの人。
……感動の再会が待っているかと思いきや——
「……あなた、本当に馬鹿なんですか?」
夜の王宮の研究室に、ヴァイオレットの怒声が轟いた。
机の上には光魔法の波長計算のメモが散乱し、黒板には膨大な数式がびっしりと書かれている。その中心に立つのは、相変わらず冷静沈着な王——ルクス・アルヴェオン。
彼は腕を組み、淡々とヴァイオレットを見下ろしていた。
「私との年齢差を縮めるために、光魔法で光速に近い移動を繰り返していたですって!? 道理であなた、出会った時から全然老けないと思いました!」
ヴァイオレットの紫紺の瞳が鋭く光る。
「……ああ。」
ルクスはまったく悪びれる様子もなく答えた。
「お前の教えてくれた、特殊相対性理論だ。」
「バカじゃないんですか!? あなた、自分が王だって自覚あります!? 何やってるんですか、本当に!」
「俺の魔力量なら可能だったから、試しただけだ。そうしたら、できた。」
「試しただけで時空間を歪めるなぁぁぁぁ!!!?」
ヴァイオレットは思わず手元にあった本を掴み、勢いよく投げつけた。
——ばしん!
本がルクスの肩に当たるが、彼は微動だにせず、それどころか興味深そうに本を拾い上げ、ぱらぱらとページをめくる。
「ふむ、確かに副作用については、もう少し調べてみる必要があるな。」
「そういう問題じゃない!!! あなた、本当に昔から変わりませんね……。」
ヴァイオレットは肩で息をしながら、呆れ果てたように頭を抱えた。
ルクスが研究に没頭しすぎて無茶をするのは、今に始まったことではない。けれど、それが王になっても変わらないとなると、もはや国の未来が心配になってくる。
「まあ、お前と同じ時代を生きるには、こうするしかなかったということだ。」
ルクスは淡々とした口調で言いながら、ちらりと彼女を見やる。
「手紙によると、向こうでアルヴァもたぶらかしてきたらしいし、俺の婚約者殿はまったく油断がならんのでな。」
「は……?」
ヴァイオレットの顔が一瞬にして赤く染まる。
「ちょっ……何を言ってるんですか!? そんなつもりは——」
「そう言うな。お前のためにやったことなんだから、少しは感謝しろ。」
「感謝なんかしません!!!心配してるんです!!!」
ふくれっ面のヴァイオレットに、ルクスは楽しげに目を細めて笑った。
光魔法の研究者として、王として、彼はまだまだやるべきことがある。だが——ヴァイオレットが帰ってきた。そしてこれから共にその道を歩んでくれる。
それだけで、彼は何でもできる気がしていた。
王宮の窓の外では、光の魔法で輝く街灯が、夜の街を優しく照らしていた。
*
ヴァイオレットが留学していた三年間——王国はさらに大きく発展していた。
サンクタス城の執務室。
分厚い書類が積み上げられた机の向こうで、ルクスとヴァルターが並び、ヴァイオレットにこの三年の技術と国政の進展について説明していた。
「まずは、東部エルヴァインの塩湖から採掘されるカリウム塩、それに南方の島嶼で産出されるリン、そして北部フロステンで風魔法を利用して空気中から抽出された窒素——これらを組み合わせた合成肥料を開発しました。」
ヴァルターが机上の地図を示しながら説明する。
「これにより、土地の痩せた地域でも穀物の生産量が飛躍的に向上し、王国全土の食料供給が安定し、国外輸出も可能になる見込みです。エルヴァインは塩害が多く、農耕に向かない土地が多かったのですが、土壌改良とこの肥料のおかげで、特に工業地帯から離れた南部は穀倉地帯に変貌するでしょう。」
ヴァイオレットは目を輝かせながら地図を覗き込む。
「農業だけではない。」
ルクスが静かに口を開く。
「光コンピュータが本格的に運用されはじめた。お前が構想した光魔力演算技術を基に、通信・計算能力が飛躍的に向上したおかげで、国政、商業、工業のあらゆる分野で情報の管理と分析が容易になった。」
「……レクスティアでも相当話題になっていました。」
ヴァイオレットは感慨深く呟いた。彼女とルクスが長年構想し、理論を築き上げてきた技術が、ついに国家を動かす基盤となっている。
「そして、魔石の輸送に頼らない魔力伝達網の構築です。同時に、上水、光通信網も兼ねています。」
ヴァルターが別の書類を手に取る。
「これまでは、都市ごとに必要な魔石を運び、それぞれの魔法陣や魔道具に設置することで魔力を供給していました。しかし、新たに開発された国内全土を覆う大規模魔法陣によって、主要都市同士を繋ぎ、遠距離でも魔力および情報の送受信が可能になりました。」
「魔法の送受信網、というわけですね。」
ヴァイオレットは頷く。
「そういうことだ。」
ルクスがわずかに口元を緩める。
「魔法工学産業は、もはやこの国の根幹となった。俺が即位した時には想像もしなかった速度で、王国の発展は加速している。」
ヴァイオレットは窓の外を見つめる。
王都ミナスの街並みは、輝く魔導灯に照らされ、人々が行き交う活気に満ちていた。新たな技術が次々と生まれ、産業が発展し、国民が豊かになっていく——その姿が、確かにそこにあった。
「株式会社の数は千を超え、国内外からの投資も盛んに行われています。」
ヴァルターが最後にそう告げると、ヴァイオレットは思わず小さく息を呑んだ。
「千社……! そんなに……。」
「お前がいない間も、王国は歩みを止めていない。」
ルクスの言葉に、ヴァイオレットはしばし沈黙する。
彼の言う通り、この国は確かに発展している。数年前とは比べ物にならないほど、国民の生活は向上し、技術は進歩していた。
けれど——
(私はこの国に、王妃として何をもたらすことができるのだろう。)
ヴァイオレットの胸に、小さな問いが生まれる。
ルクスは国を動かし、ヴァルターは政治を掌握し、数え切れない技術者たちが日々、新たな未来を築いている。
その中で、自分は王妃になって何をすべきか——
*
秋の深まるサンクタス城。王宮の窓から差し込む柔らかな光が、書類の広がる机上を照らしていた。
ヴァイオレットは、執務室の片隅で膝を抱え込み、静かにため息をつく。
(……私が、本当に王妃になっていいんだろうか。)
光魔法の研究者として、学者として、そしてルクスの婚約者として——これまで迷いなく歩んできたつもりだった。けれど、いざ結婚式の準備が具体的に進み、正式に「王妃」となる日が近づくと、ふと不安が押し寄せてきた。
(私は、ただ研究が得意なだけの田舎貴族の娘なのに……。)
そんな風に考え込んでいた時だった。
「おや、ヴァイオレット様。悩み事ですか?」
不意にかけられた穏やかな声に、ヴァイオレットは顔を上げた。
宰相ヴァルターが、梟の形をあしらったペンを弄びながら、優しく微笑んでいた。
「宰相閣下……。」
「ずいぶんと難しい顔をしていらっしゃる。何かお困りのことでも?」
ヴァイオレットは少し口ごもったが、しばらくして意を決したようにぽつりと呟いた。
「……私が、王妃でいいんでしょうか。」
ヴァルターは一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それから肩をすくめた。
「なんだ、そんなことですか。」
「“そんなこと”って……大事なことじゃないですか!」
「ええ、重要なことですね。しかし、それならば余計に心配する必要はありませんよ。」
ヴァルターはペンを机に置き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「陛下を、あの茨の塔から救い出せたのは、あなただけでした。」
「……。」
「陛下が変わるきっかけになったのは、間違いなくあなたです。そして何より、陛下ご自身があなた以外を選ぶ気などさらさらないでしょう?」
「……それは、そうかもしれませんけど……。」
ヴァイオレットは頬を赤らめながら、少しだけ視線を落とす。ルクスの性格を考えれば、彼がほかの誰かを妃に迎えるなど到底考えられない。
「諦めてください。」
ヴァルターは、あっさりと断言した。
「そんなふうに悩むより、不安でもやってみて、あなた方の言うところの——“世界を広げる”ことを考えたらいいんですよ。」
ヴァイオレットは、はっと息を呑んだ。
それは、かつてルクスと語り合い、そして自身も何度となく繰り返してきた言葉。世界を広げるということ。学び、知り、視野を広げ、成長していくということ。
(私がこれまで歩んできた道と、これから歩む道は、きっと地続きなんだ。)
そのことに、ようやく気づくことができた。
「……そうですね。」
ヴァイオレットはゆっくりと息を吐き、微笑んだ。
「まだ若いんですから、いくらでも試してみればいいんです。」
ヴァルターが満足そうに頷き、ヴァイオレットはすとんと胸の奥に落ちた安心感を抱えながら、そっと立ち上がった。
(そうだ。私は、ルクスと共に世界を広げていくんだ。あの日、蒸気機関車の中で約束した通り。)
迷うのは今日で終わり。
ヴァイオレットは、決意を新たに未来へと歩き出した。
*
アルヴェオン王国歴一五八年、長かった冬の終わり。
王宮の大広間に、静謐な空気が満ちていた。
ステンドグラスを通した無数の虹色の光が天井の装飾を優美に照らし、煌めく燭台の灯火とともに、壮麗な空間を彩る。絹張りの壁にはアルヴェオン王国の紋章を掲げた旗が誇らしげに揺れ、集まった賓客たちが整然とその瞬間を見守っていた。
ノルデン帝国の皇帝セレナ、レクスティアの聖女クラリス、王国の貴族や要人たち——この国の未来を形作る者たちが、ここに集い、新たな王妃の誕生を見届けようとしていた。
静寂の中、ヴァイオレットはゆっくりと歩を進めた。
純白のドレスが優美に揺れ、銀糸の刺繍が光を受けて輝く。長く伸ばした金の髪が細やかな装飾に飾られ、深い紫紺の瞳は、ただ一人を映していた。
王座の前に立つ男——ルクス・アルヴェオン。
彼は、王としての威厳を湛えた漆黒の礼服を纏い、黄金の瞳で静かに彼女を迎えていた。
宰相ヴァルターが、玉座の横に進み出る。
「ルクス・アルヴェオン、貴方はこの者を伴侶とし、共に国を治めることを誓いますか?」
ルクスは微かに瞳を伏せ、まるでこの瞬間を噛み締めるように静かに息をつく。
そして——
「誓う。」
はっきりとした声音で、そう告げた。
「ヴァイオレット、お前と共に、私はこの国を導こう。」
その言葉に、ヴァイオレットの胸が静かに熱を帯びる。
かつて闇の中にいた青年は、今、自らの意志で未来を築こうとしている。
「ヴァイオレット・オルフェ、貴方もまた、この者を伴侶とし、共に国を治めることを誓いますか?」
宰相の声が広間に響き渡る。
「——誓います。」
ヴァイオレットは、そう言って向かい合うルクスに頭を下げた。
ルクスは静かに頷き、彼女の頭に王妃の冠をそっと乗せた。
銀細工に細やかな宝石が散りばめられたその冠は、ステンドグラスを通る陽光を受け、柔らかな輝きを放つ。
彼女がゆっくりと顔を上げた瞬間、ルクスは迷いなく彼女の手を取り、そのまま自らの隣へと導いた。
黄金の瞳が紫紺の瞳を捉える。
そして、ルクスは静かに顔を傾け——ヴァイオレットの唇に、誓いの口付けを落とした。
その瞬間、大広間に歓声が湧き上がる。
ステンドグラスを通り抜けた光が虹のように舞い、吹き抜ける春風が華やかな祝福を運ぶ。
新たな王と王妃の誕生。
それは、アルヴェオン王国が迎える新時代の幕開けだった。
*
王宮の書斎は、静かな光に包まれていた。
窓から差し込む朝の陽光が、淡い金色の光を描きながら机の上の書類や設計図を照らしている。革表紙の魔導書が積み上げられた机の奥、壮年になったルクスはペンを手に取り、淡々と宇宙開発に向けた新たな理論を書き記していた。その筆には迷いがなく、彼の思考はすでに遥か未来を見据えている。
その隣では、妻ヴァイオレットが宇宙空間における光石と闇石の特性を比較するためのデータを整理しながら、時折、小さく頷いていた。
二人の間には、長年培われた穏やかな沈黙があった。
それは言葉がなくても互いの存在を確かめ合える、心地よい静寂だった。
ルクスはふと手を止め、懐かしげに呟く。
「……学ぶことで、世界は広がる。」
その言葉に、ヴァイオレットはペンを止めて彼を見つめた。
「懐かしい言葉ですね。」
「昔、そう教わった。君に。」
彼は視線を遠くへ向ける。
『学ぶことで、世界は広がる。』
かつて、彼を育て、導いた人が言った言葉。
そして今、自分とヴァイオレットは、その言葉を自らの次の世代に伝えている。
ヴァイオレットは微笑みながら、そっとペンを置いた。
「それなら、もっともっと、世界は広がります。」
彼女の言葉に、ルクスは小さく息をつく。
そして、わずかに微笑みながら、彼女を見つめた。
「……ああ。」
窓の外、朝の陽光が王宮を包み込む。
すべての魔法が等しく扱われる国。
研究と知識が国を豊かにする時代。
二人が導く未来は、これまで誰も見たことのない、新たな光に満ちたものだった。
新しい時代の光の下、物語は静かに幕を閉じる。
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