第12章 世界は広がる
アルヴェオン王国歴一五五年、夏。
ヴァイオレットは自室の机に並べられた書類を前に、頭を抱えていた。
——魔術学院入学許可証。
「……今さら?」
手紙の封を解いたときは、てっきり実家からの近況報告だと思っていた。だが、そこに記されていたのは、十五歳になった貴族の子女は魔術学院への通学義務があるという、正式な入学通知だった。
「義務って……私はもう工学研究院で研究しているし、なんならレクスティアとの共同研究もやったのに。」
確かに、魔術学院の課程は貴族にとって通過儀礼のようなものだ。しかし、前世でアストリアとしてすでに学び終えた内容を、改めて学ぶ必要があるとは思えない。
「どうするかな……。」
ヴァイオレットは書類を手に取り、机の上に置かれた新しい魔道具の設計図を見つめる。
研究を続けたい気持ちはあるが、学院に通わない理由としてそれが認められるかはわからない。
「……とりあえず、ルクスと宰相閣下に聞いてみるか。」
彼女は書類を抱え、ため息をつきながら部屋を後にした。
*
サンクタス城の執務室。陽光が窓から差し込み、分厚い書類の山を照らしていた。
ヴァイオレットは机の前に立ち、手にした入学通知を見せながら、神妙な面持ちで言った。
「……それで、十五なので魔術学院に入学しなければならないということなんですけど。」
ルクスは面倒くさそうに書類の束をめくりながら、あっさりと言い放つ。
「お前、行く必要ないだろう。」
ヴァイオレットはため息をついた。
「本質的にはそうなんですけど、例外を作ると反発を生みませんか?“国王の婚約者だから”っていう理由で通学義務を免除されると、ほかの貴族から反感を買いそうですし……。困りました。」
彼女の言葉に、ヴァルターが微笑を浮かべた。
「いい方法がありますよ。国外留学すれば、魔術学院卒業と同等とみなされます。ちょうど良い機会ですし、ヴァイオレット様、結婚前にいろいろと見てきたらどうですか?」
「留学……ですか?」
ヴァイオレットは驚いたように目を瞬かせる。
「ええ。国王の婚約者が国外留学するとなれば、国際的な注目を集めるでしょう。外交関係の強化にもつながりますし、光魔法の技術交流にもなります。」
ヴァイオレットは興味深そうに考え込み、ふとルクスの方を見た。
「陛下は……心配でしょうが、あと三年くらい我慢できますよね?」
ヴァルターの言葉に、ルクスの手が止まった。
「……」
図星を突かれ、何も言えなくなるルクス。
名目上の婚約だったはずなのに、彼女がアストリアとわかってからは、次第に彼女そのものを求める気持ちが芽生えていた。それを言葉にすることは決してなかったが、ヴァルターにはすべて見透かされていたのだろう。
「……いいだろう。」
しぶしぶと認めるようにルクスが言うと、ヴァイオレットはぱっと顔を輝かせた。
「えっ、いいんですか? どこがいいかな……この前のレクスティアとの共同研究、とても面白かったから、レクスティアに行けません?」
ヴァルターは満足げに頷く。
「いいですよ。早速外交ルートで交渉を進めます。」
ルクスは横目でヴァルターを睨んだが、宰相はまるで気にした様子もなく、さっそく外交官の呼び出しを手配した。
*
ヴァルターの辣腕により、ヴァイオレットのレクスティアへの三年の留学は驚くほどの速さで決定した。特に聖女クラリスは、彼女の申し出を「光魔法の研究がさらに進展する」と大喜びで承諾し、レクスティア側の手続きも即座に整えられたという。
サンクタス城の中庭では、留学の準備が着々と進められていた。文官たちが書類を確認し、護衛の騎士たちがルートの安全を確認する中、ヴァイオレット自身も荷造りに追われていた。
一方、その様子を見守っていたルクスは、玉座の間の隅で腕を組み、微妙に不機嫌そうな顔をしていた。
「……俺の婚約者だろう……」
ぽつりと呟いたその声は、小さく拗ねた子供のようだった。
ヴァイオレットはきょとんとしながらも、書類の束を抱えたまま彼を見上げる。
「え、でも私との婚約は研究させるための名目だったんですよね?レクスティアでも研究してきますよ?」
「……」
ルクスは言葉に詰まった。
確かに、かつての自分はそう言った。いや、むしろ、はっきりと言い切ってしまったのだ。「研究のための名目」であると。
だが、彼女がアストリアだったと知り、彼女の存在そのものが日々の中で欠かせないものになりつつある今も、その言葉をそのまま認めるのは、どこか釈然としなかった。
過去の自分の言動が今になって自分を追い詰めることになるとは……。
無言のまま何かを考え込むルクスを見て、ヴァルターは楽しそうに肩をすくめ、軽く手を叩く。
「陛下はノルデン皇太子やら聖女クラリスやらを次々とたらしこむ......失礼、味方につけるヴァイオレット様がご心配なのでしょう。」
ルクスが睨みつけるが、ヴァルターはひょうひょうとしたまま続ける。
「まあまあ。とはいえ、これは外交的にも良い機会ですよ。国王陛下があまりに未練たらしく見送ってしまうと、見苦しくなってしまいますよ。」
ヴァイオレットは「そんなに未練があるんですか?」と言いたげな目でルクスを見つめる。
ルクスは深く息を吐き、目を伏せた。
「……いい。もういい。好きにしろ。」
ヴァルターは満足げに頷き、ヴァイオレットに向かって微笑む。
「では、ヴァイオレット様。ご武運を。陛下が寂しがらないよう、時々は手紙でも送ってあげてください。」
「はい!頑張ります!」
明るく微笑むヴァイオレットと、何も言えずにそっぽを向くルクス。
こうして、ヴァイオレットの留学は粛々と進められたのだった。
*
朝霧がまだ王都を薄く覆う中、ヴァイオレットの旅立ちの日が訪れた。
サンクタス城の中庭には、見送りのために多くの人々が集まっていた。護衛の騎士たち、外交官、そして宰相ヴァルター——すべてが整然と並び、レクスティアへ向かう彼女を見送ろうとしている。
ヴァイオレットは、胸いっぱいの期待を抱きながら馬車の扉へと手を伸ばした。レクスティアでの留学、魔法のさらなる研究、そして新たな学びの場——未来に待つ未知の世界に思いを馳せながら、一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
「……待て。」
低く、抑えた声が背後から響いた。
次の瞬間、ヴァイオレットの肩が強く引かれる。
「——っ!?」
驚く間もなく、柔らかな感触が唇を塞いだ。
風の音も、周囲のざわめきも、すべてが遠のいた。
目を大きく見開いたまま、何が起こったのかを理解するのに数秒を要した。けれど、目前にある金の髪と、彼女を捕らえるように支える腕が、すぐにその答えを告げる。
——ルクス。
彼は強引に、けれど確かな意志をもってヴァイオレットに口づけていた。
短いようで、永遠にも感じられる静寂が流れ、ようやくルクスがゆっくりと唇を離す。
「……っ、な、な……!?」
ヴァイオレットの顔が、一気に赤く染まる。
「急に何を……!?」
言葉にならない言葉を必死に絞り出そうとするヴァイオレットの耳元で、ルクスは静かに囁いた。
「アストリアのときから、お前が好きだ。」
——世界が止まる。
彼の瞳は、冗談や軽い戯れのものではなかった。長い間秘めてきた感情が、その黄金の光の中に宿っていた。
「お前が留学から戻るころには、もう成人だ。だから——待っている。」
それだけ言い残し、ルクスは身を翻した。
金色の髪が朝陽に輝き、黒の外套が翻る。
ヴァイオレットは、その背中を呆然と見つめることしかできなかった。
「……なんてこった……。」
馬車の扉を閉めると同時に、彼女は自分の顔を両手で覆った。
これは、あまりにも急展開すぎる——!
馬車が静かに動き出す。
窓の外、遠ざかる城門の向こうで、ルクスが確かにこちらを見つめていた。
*
留学期間は三年。ルクスとのことは、その間じっくり考えればいい——そう自分を納得させながら、ヴァイオレットは秋の澄んだ空気の中、レクスティアの首都セントリアに到着した。
石畳の広がる大通りを進む馬車の窓から、見慣れない異国の風景が目に映る。荘厳な石造りの建築が立ち並び、行き交う人々の言葉もどこか異なる響きを持っていた。アルヴェオン王国とは異なる文化に、ヴァイオレットは胸を躍らせる。
そして、レクスティア中央大学の正門に到着した瞬間——
「まあ!相変わらずなんて可愛らしいの!」
突如として、白い法衣を纏った聖女クラリス・ヴァンレーヴェンが駆け寄り、ヴァイオレットを勢いよく抱きしめた。
「わ、わわっ——!?」
突然の抱擁に、ヴァイオレットはその腕の中で思わず固まる。
「ようこそレクスティアへ。待っていました。前々からね、あなたのことすごく可愛い子だと思っていたの。」
ああ、この聖女は本当はこういう性格なのか——そう思いつつも、クラリスの温かな歓迎に少し安堵する。
そのまま手を引かれ、大学の付属病院を含む広大な構内を案内されることになった。歴史ある大学の中庭、研究棟、最新の医療設備が整えられた病棟。どれも興味深く、ヴァイオレットは夢中で話を聞きながら歩いた。
「ところで、研究テーマは何か決まっている?名目上は、私が指導者ということになるのだけれど…」
そう問われたヴァイオレットは、一瞬迷ったあと、静かに答えた。
「……実は、闇魔法について研究したいと思っています。」
その言葉に、クラリスが目を瞬かせる。
「光でなく、闇?」
「ええ。教団の崩壊によって、今度は闇魔法が邪悪な力として迫害される可能性があります。でも、闇魔法には精神への作用を持つものが多い。それを医療的に応用できないかと考えているんです。」
ヴァイオレットがそう説明すると、クラリスは少し思案するように沈黙した。そして、やがて重い口を開く。
「……実はね。」
彼女の声は、いつになく真剣だった。
「アルヴァが、今この大学病院の紫外線遮断空間にいるの。」
ヴァイオレットの目が見開かれる。
「アルヴァが?」
「ええ。彼は今、思い悩んでいるようで……。彼の強大な闇魔法の力を、どう導くべきか……私には、それを示してあげることができないから。」
クラリスの青い瞳が、どこか迷いを含んでいた。
「あなたなら、彼を導く手助けをしてあげることはできない?」
ヴァイオレットは深く息を吸い込んだ。
光と闇——かつて対立していた力が、今、新たな道を探ろうとしている。
ルクスがここにいたら、きっと反対するだろう。でも。
「……彼と話してみたいです。」
その言葉とともに、ヴァイオレットの新たな挑戦が始まるのだった。
*
ヴァイオレットが足を踏み入れたのは、紫外線を一切通さない特別な隔離空間だった。レクスティア大学病院の窓のない部屋、魔法障壁によって厳重に守られたその部屋は、明るいのに、まるで世界から切り離された小さな箱庭のように静謐だった。
彼女の視線の先——部屋の奥の椅子に座る十七歳の少年。
アルヴァ。
長い黒髪は一つに結ばれ、伏せがちの黒い瞳は、どこか憂いを帯びている。肌には残るシミの跡。それでも彼の顔立ちは整っており、知性と儚さが混じり合った美しさを持っていた。タートルネックの服に身を包み、細い指で静かに本のページをめくる。そのメガネをかけた横顔は驚くほど穏やかで——まるで、かつて教団の最高指導者であったことが嘘のようだった。
ヴァイオレットは、一瞬だけ不思議な気持ちを覚えた。
かつて、自分を死に追いやった集団の元指導者と、こうして静かに向かい合うことになるとは。
それでも、今の彼は「敵」ではない。
ヴァイオレットは静かに口を開いた。
「はじめまして。ヴァイオレット・オルフェです。」
アルヴァはゆっくりと顔を上げ、彼女を見つめる。その黒い瞳は、どこか影を帯びながらも、確かに彼女の存在を認識していた。
「……聖女から話は聞いています。あなたは、闇魔法を研究したいと。」
彼の声は静かで、どこか警戒心が滲んでいた。
ヴァイオレットは頷く。
「はい。具体的には、精神操作が人体にどのように作用するのかを研究し、麻酔や外科手術の際に応用できないかと考えています。痛覚を遮断し、意識を落とし、必要に応じて筋肉の動きを止める。そうした技術が確立されれば、医療の発展に大きく貢献するはずです。強大な闇魔法使いであるあなたの力があるとありがたいのですが。」
アルヴァは微かに眉をひそめた。
「……それを、どうやって研究するつもりですか?僕は、昼間はここから出られません。」
彼が困惑を滲ませながらそう言うと、ヴァイオレットは少し考えた後、真剣な顔で答えた。
「そうですね……まずは、ここにイカを持ってきます。」
「……イカ?」
アルヴァの表情が、一瞬理解が追いつかないとでもいうように固まった。
「そうです。イカには、とても太い神経があるので、そこに電気を流しながらいろいろな闇魔法をかけて、伝わり方がどう変わるのか調べたいと思います。」
彼女の言葉を聞いた瞬間——
アルヴァは、耐えきれなくなったように口元を覆って笑い出した。
「イカ……! イカって……!」
肩を震わせながら笑う彼の姿は、先ほどまでの沈鬱な雰囲気とはまるで違っていた。まるで、長い間忘れていた感情が不意に零れ落ちたかのように。
ヴァイオレットはそんな彼をじっと見つめた。
(……綺麗な笑顔。)
彼がここに閉じこもるようになって、こんなふうに笑ったのは、どれくらいぶりなのだろう。
「ふふ……そういう研究なら、ぼくにも手伝えそうですね。」
ようやく笑いを収めたアルヴァが、目を細めながら言った。その瞳には、ほんのわずかだが、かつての絶望から抜け出す光が差し込んでいるように見えた。
ヴァイオレットは静かに微笑みながら、そっと手を差し出す。
「よろしくお願いします、アルヴァ。」
アルヴァは少し迷ったようだったが——
やがて、その手を取る。
こうして、光と闇の新たな研究が幕を開けたのだった。
*
約束通り、ヴァイオレットは部屋に大量のイカを持ち込み、アルヴァをまたしても大笑いさせた。
「本当に持ってくるとは……!」
肩を震わせながら笑うアルヴァの姿を見て、ヴァイオレットは少し得意げに胸を張る。
「当然です。実験には適切な材料が必要ですから。多少の匂いはご容赦ください。」
彼女は手際よく装置を組み立て、イカの神経に電極をセットしていった。その横で、アルヴァは未だ笑いを引きずりながらも、興味深そうに彼女の手元を覗き込んでいる。
実験が始まると、彼はヴァイオレットの指示に従いながら、自身の闇魔法を神経に向かって放出した。魔法の性質を微妙に変えながら、神経の伝達がどのように変化するのかを、細かく測定していく。
最初は遊びのように笑いながらだった。
だが——
繰り返すうちに、アルヴァの表情が徐々に変わっていった。
「……今の、魔力の波長を少し変えただけで、神経の反応速度が大幅に低下した……?」
実験結果を目の当たりにするたびに、彼の瞳が真剣さを帯びていく。
ヴァイオレットは、ノートに素早く数値を書き留めながら頷いた。
「ええ。闇魔法の特定の振動数が、スイッチ的に神経の興奮を抑えるみたいです。この方法をうまく応用すれば……」
何日も何日も二人で試行錯誤を重ねた。
そして、ついに——
「……できた……!」
ヴァイオレットは息を呑んだ。
彼女たちは、単独の神経を約一時間ほど遮断する闇魔法の使い方を突き止めたのだった。
——闇魔法による、局所麻酔の再現。
「これが感覚神経の遮断なのか、運動神経の遮断なのかによって、使用法が大きく変わります。次は、生きたネズミで確かめてみましょう。」
ヴァイオレットがそう告げると、アルヴァは驚きと歓喜が入り混じったような表情を見せた。
「次はネズミ?……君は本当に面白いね!」
「真剣なんです! 真面目にやってください!」
アルヴァは思わず吹き出し、ヴァイオレットは頬を膨らませる。
だが、そのやり取りの中で、彼の瞳はかつての暗闇とは違う光を宿し始めていた。
これは、ただの闇ではない。
新しい可能性の光だった。
*
実験に関わるアルヴァの目は、日を追うごとに真剣さを増していった。
最初はヴァイオレットに言われるまま、ただ魔力を提供するだけだった彼が、次第に実験方法の改善やその限界について、自ら意見を述べるようになっていた。
「闇魔法のパルス幅を変化させた場合、神経の反応速度にどう影響するか、もう少し細かくデータを取ったほうがいいかもしれない。あと、筋弛緩の効果についても、正確に作用時間を測定しないと……個体差もありそうだ。検体数を増やさないと。」
手元のノートに細かく記録をつけながら、アルヴァはぽつりと呟いた。
「僕は……本当はね、天文学者になりたかったんだ。」
ヴァイオレットは思わず彼の横顔を見つめた。
アルヴァは微かに視線を落とし、どこか照れくさそうに続ける。
「夜の星の輝きが、僕の光だったから。それは無理だったけど、こうして研究に携われるのは嬉しい。」
彼の声は静かだったが、その言葉の端々には、確かな思いが込められていた。
ヴァイオレットの胸が、じんわりと温かくなる。
(彼もまた、学びによって世界を広げようとしているのだ……。)
——それなら、彼はもう過去に囚われたままの存在ではない。
彼の前には、闇ではなく、新たな光が確かに生まれつつあった。
*
実験は順調に進み、神経の遮断を調整することで、局所麻酔・鎮静・鎮痛・筋弛緩の四つの技術を闇魔法によって実現できることが確かめられた。
ネズミ、ウサギと、徐々に実験動物の規模を大きくしながら、二人の研究は確実な成果を積み重ねていった。
研究結果を整理し、名目上の指導者である聖女クラリスへ進捗を提出したその日の夕方——。
突然、扉が勢いよく開かれた。
「あなた方——これがどれほどすごいことか、わかっているんですか!?」
息を切らせ、表向きには滅多に感情を露わにしない聖女クラリスが、驚きと興奮をあらわにしながら部屋へ飛び込んできた。
「従来のガスによる麻酔では、術中に疼痛や体の動きによって手術が続行不可能になるような場面があるのですが……この技術なら、それを防げる可能性があるのですよ!」
いつもは冷静な彼女が、本気で慌てふためいている。
ヴァイオレットとアルヴァは顔を見合わせ、二人同時に吹き出した。
すっかり仲良くなった二人を前に、聖女はただ唖然とするばかりだった——。
*
深夜の大学病院。夜の静寂に包まれた廊下には、人の気配がほとんどなかった。
しかし、その一室だけは違った。
紫外線を遮断した薄明かりに照らされた手術室。その中央で、アルヴァが静かに佇んでいた。
彼の黒い髪は、いつものようにきちんと結ばれ、白衣の中のタートルネックの襟元を少しだけ引き締めるように手を当てる。伏せがちな黒い瞳には、これまでとは違う決意の色が宿っていた。
(本当に……僕が、この人を救えるのか?)
手術台の上に横たわるのは、長年の呼吸器疾患を抱え、通常の麻酔では耐えられないとされた患者だった。既存のガス麻酔を使えば、彼の呼吸は止まってしまう可能性がある。しかし、手術をしなければ命の保証はない。
「アルヴァ、準備はいいですか?」
ヴァイオレットがそっと彼の隣に立つ。彼女の紫紺の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
アルヴァは静かに息を整える。
「……いつでもやれる。」
*
手術が始まる。
まず、アルヴァは手を掲げ、闇魔法を繊細に調整しながら、患者に「鎮痛」の魔法をかけた。
——これで、痛みは感じないはず。
次に「鎮静」。患者の意識がゆっくりと沈んでいく。
(順調だ……次は。)
「筋弛緩」
闇の波動が穏やかに広がり、患者の全身の筋肉が緩んでいく。
それを確認すると、麻酔科医師が喉から人工呼吸器を装着。作動したその機械が、正確に呼吸を補助する。
アルヴァは手のひらに薄く汗を滲ませながら、魔力の流れを細かく調整した。
(……これで、大丈夫。)
ヴァイオレットが慎重に頷き、手術を待つ外科医へと合図を送る。
「闇魔法による擬似的麻酔、問題ありません。」
それを聞いた外科医が、手元のメスを静かに構えた。
——執刀。
部屋の空気が、張り詰める。
アルヴァはその光景を、静かに見つめていた。
(僕の力が……誰かを救う力になるなんて。)
彼の胸の奥で、何かがゆっくりと溶けていくような感覚があった。
長年、人を苦しめた「闇」という力。
それが今、初めて「希望」へと変わろうとしていた。
*
長い手術が終わり、外科医が最後の縫合を終える。
アルヴァは慎重に魔法を解除し、患者の意識がゆっくりと戻るのを見守った。
「……ん……」
かすかな呻き声とともに、患者が目を覚ます。
その瞬間、手術室の窓から見守っていた聖女クラリスと関係者たちが、一斉に歓声を上げた。
「成功した……!!」
アルヴァは、驚いたように自分の手を見つめる。
ヴァイオレットはそんな彼の肩をそっと叩いた。
「おめでとう、アルヴァ。」
彼は小さく息を吐き、初めて、本当に心の底から微笑んだ——。
*
静かな夜、レクスティア大学の研究棟の一室。灯されたランプの光が、分厚い本や書類の影を作りながら、机の上に広がっていた。
手術の成功から数日。アルヴァはヴァイオレットとともに、聖女クラリスを交えて今後のことについて話し合っていた。
「これから闇魔法は、医療と切っても切り離せないものになるでしょう。できることならアルヴァには、我が国の医療団に入り、その力を使うとともに、後進の育成をお願いしたいのですが……。」
クラリスの言葉は真剣だった。
アルヴァは静かに考え込み、ゆっくりと頷く。
「……ヴァイオレットがよければ。」
「え?」
彼の言葉に、ヴァイオレットは目を瞬かせた。
アルヴァは肩をすくめながら続ける。
「夜間限定か、紫外線遮断空間が必要になるけどね。」
「私はもちろんいいですよ!多少の特許料は欲しいですけど。」
ヴァイオレットはぱっと表情を輝かせる。そして、何かを思い出したように勢いよく前のめりになった。
「あ、でも、もう一つ、アルヴァにお願いしたいことがあって!」
アルヴァは驚いたように眉をひそめる。
「……?」
ヴァイオレットは嬉々とした様子で続けた。
「忙しいとは思うんですけど、あと二年宇宙の研究を一緒にしたいんです。あなたの素晴らしい闇魔法が、星の光の波長を捉える高機能天体望遠鏡の代わりにならないかと思っているんです!」
クラリスが「えっ?」と目を丸くする。
「黒体放射の測定から星の温度を計算したり、宇宙背景放射の解析から宇宙の歴史を推察したり……!あなたの闇魔法なら、もしかして可視光だけでなく、赤外線やγ線やX線まで容易に捉えられるかもしれないんです!それが当たらないよう、肌の保護は必要ですけど……。二年の留学期間で、なんとか形にしましょう!そう、闇魔法の麻酔の特許を予算に当てればいいですから!」
勢いよく語るヴァイオレットを前に、アルヴァは呆然とする。
(……宇宙……僕が、夢見たもの。)
天文学者になりたかった——けれど、光の下で生きられないというだけで、それを追求する道は断たれたはずだった。
しかし、今目の前の彼女は、それを「できる」と言っている。
ヴァイオレットの紫紺の瞳はまっすぐで、迷いがなかった。
アルヴァは息を呑む。胸の奥がじんわりと熱くなる。
(僕の世界は……こんなにも広がっていくのか……。)
涙がこぼれそうになるのをこらえながら、彼はゆっくりと頷いた。
「……やろう。」
ヴァイオレットの顔に、ぱっと笑顔が咲く。
クラリスは呆気にとられながらも、苦笑した。
「あらあら、あなたたち、なんて楽しそうなのかしら。」
*
宇宙の研究計画に夢中な二人を見つめながら、クラリスはそっと息を吐く。
——夜しか生きられなかった青年が、今、未来を見ようとしている。
それを支えるのが、闇ではなく光の存在であることを、クラリスは確かに感じていた。
*
アルヴェオン王国歴一五八年、秋。
ヴァイオレットは、ついに成人を迎えた。
柔らかな金色の髪は光を受けて輝き、すみれ色の瞳には知性と情熱が宿っている。三年前、十五歳でレクスティアに降り立った少女は、今や聡明で美しい女性へと成長していた。
三年間の留学の間に、彼女とアルヴァは数々の研究成果を生み出し、その共同名義で発表された論文は、魔法医療と天文学の両分野に革新をもたらした。
「ヴァイオレット、魔法工学の最新号、もう読んだ? 光魔法を使った計算技術……アルヴェオンでは、ついに光コンピュータの実用化が始まったらしいね。」
そう言いながら、アルヴァは研究室の机に分厚い学術誌を広げた。
ヴァイオレットは微笑みながら、そのページをめくる。
「ええ、完成すれば、天文学の軌道計算にも応用できるはずです。アルヴァ、今度ぜひ買って試してみて。」
彼女の言葉に、アルヴァは目を細めた。
「光コンピュータの演算能力……楽しみだ。」
レクスティアでの三年間は、彼にとっても大きな転機だった。もはや彼はただの「元・教団の最高指導者」ではない。病による制約をものともせず、宇宙論の研究者として正式に認められ、麻酔科医として働きながら、天文学者としての道をも歩み始めていた。
しかし——
「本当に帰ってしまうの?」
旅立ちの前の夜、ヴァイオレットを見送るために集まった仲間たちの前で、聖女クラリスは彼女を強く抱きしめた。その腕には、手放したくないという思いがありありと込められている。
「ああ、このままずっと、レクスティアで研究してくれればいいのに……。」
「聖女様、それでは外交問題になってしまいますよ。」
ヴァイオレットは苦笑しながら、そっとクラリスの腕をほどく。
その横で、アルヴァがいたずらっぽく口を開いた。
「ルクス王に愛想が尽きたら、いつでもレクスティアに帰っておいで。みんな歓迎するよ。」
ヴァイオレットは思わず吹き出した。
「そんなことを言って、本気にしますよ。」
「……僕は本気だよ。」
アルヴァは肩をすくめ、黒い瞳を細めた。
ヴァイオレットは目の前の彼をじっと見つめた。三年前、闇に閉ざされていた彼は、今や光に手を伸ばし、自らの世界を広げていた。それは、かつてのルクスと同じ——いや、彼とはまた違う、彼だけの未来へと続く道だった。
「アルヴァ、ありがとう。あなたと三年、過ごせてよかった。」
「……僕も、道を見出せたのは君のおかげだ。」
二人は微笑み合う。
そして翌朝——
ヴァイオレットを乗せた馬車がゆっくりと動き出す。
彼女は、ついに帰還の時を迎えた。




