第2章 魔法と科学が交わる時
ようやく森の家が見えてきたとき、アストリアは心の底から安堵した。
「やっと、辿り着いた……」
王都を出てから数日。冬の名残が色濃く残る旅路の中で、ようやく彼女の目指した場所が目の前に広がる。王国の西方ルヴェラン領でもさらに西の外れ、フォルシアの森の奥にひっそりと佇むその家は、まだ雪解けの途中で、屋根の上には薄く積もった雪が残り、軒先にはつららがきらきらと光っていた。
それでも、木々の枝には小さな新芽が芽吹き始めており、冷たい風に混じって微かに春の匂いが漂う。まだ暖かさには程遠いが、確かに季節は変わり始めているのだと感じられた。
彼女は厚手のマントの中で眠る小さな存在をそっと抱き直す。
「あと少しよ、ルクス」
赤子は静かに寝息を立てていた。
王都を出てからというもの、旅は決して楽なものではなかった。道中、いくつかの村に立ち寄り、必要なものを揃えた。ヤギの乳やおむつ、赤ん坊用の着替えを分けてもらい、時には親切な女性たちがルクスを抱いてくれることもあった。だが、それでも三ヶ月の赤ん坊を連れての冬の旅は想像以上に過酷だった。
馬車が揺れるたびにルクスは泣き、アストリアは何度も何度も馬車を止めることになった。あやしてはミルクをやり、ようやく眠ったかと思えば、今度はおむつが濡れて不快なのか、また泣き出す。狭い馬車の中で体を捩じらせる小さな腕と足を必死に押さえながら、おむつを替えるのはひどく骨が折れる作業だった。
抱っこし続ければ腕は痺れ、肩は凝り、寝かせればまた泣く。
王宮での華やかで冷たい祝賀会とは、まるで別の世界だった。
やっとの思いで家の前にたどり着くと、アストリアは大きく息を吐き、懐かしい木の扉を押し開けた。
ーーカランコロン
扉についた小さなベルが軽快に音を立てる。
家の中は静かだった。冷えた空気がひんやりと肌を撫で、しばらく閉め切っていたせいか、わずかに埃っぽい匂いがする。
「すぐに暖炉をつけなくちゃね……」
アストリアはルクスを腕に抱き直しながら、小さく呟いた。
火を灯せば、この家もすぐに暖まる。
ここは王宮とは違う、彼女たちだけの家なのだから。
*
森の中にひっそりと建つこの家は、素朴で飾り気のない造りだった。冬の名残を残した冷え込む空気が室内に漂い、長い間閉め切られていたせいか、わずかに埃っぽい匂いがする。
部屋の奥には暖炉があり、そのそばには木製の家具が並んでいる。アストリアの研究机と棚は、書物や巻物で埋め尽くされ、幾重にも重ねられた紙の束が所狭しと積まれていた。壁には光石を仕込んだランタンがかけられており、柔らかい白い光がぼんやりと室内を照らしている。
アストリアはそっとルクスを即席の揺り籠に寝かせると、息を吐いて床にぺたんと座り込んだ。
「ふぅ……」
旅の疲れがどっと押し寄せる。数日間、気を張り続けていたせいで全身が重い。それでも、ここに帰ってこられたことが何より嬉しかった。
ルクスはぱちくりとした瞳で、まだ見慣れぬ空間をキョロキョロと見回している。小さな手をふにふにと動かしながら、何かを確かめるように視線をさまよわせた。
「ここが、新しい君の家ですよ」
アストリアがそう語りかけると、ルクスは安心したようにきゃきゃっと声をあげて笑った。その無邪気な笑顔を見て、アストリアの口元も自然と綻ぶ。
王宮では冷たく扱われ、誰にも抱かれることのなかったこの子が、今は穏やかな表情をしている。それだけで、ここまで連れてきた甲斐があったと思えた。
とはいえ――
アストリアは部屋の片隅に目をやり、小さくため息をついた。
旅の途中で慌ただしく詰め込んだ荷物がぐちゃぐちゃに積まれている。おむつも適当にまとめただけで、今すぐ洗濯しないと使い物にならない。ヤギの乳も早く保存しなければ傷んでしまうし、そもそも薪を割って暖炉にくべなければ、夜の寒さに耐えられないだろう。
「……やるべきことが山積みですね」
思わず苦笑する。
そのとき、小さな寝息が聞こえた。
ふと見ると、ルクスはゆりかごの中で気持ちよさそうに目を閉じていた。旅の疲れがたまっていたのか、微かに唇を動かしながら、すぅすぅと規則正しい呼吸を繰り返している。
アストリアはその寝顔を見つめながら、静かに毛布をかけ直した。
「よし、一つずつやっていきましょう」
もう一度、深く息を吸い込む。
自分の頬を軽く叩いて気合を入れると、アストリアは再び立ち上がった。
やるべきことは多い。でも、それをこなしていく先に、新しい生活が待っている。
この森で、ルクスと共に――。
*
森の家での生活が始まって数日、アストリアは早くも限界を感じていた。
ミルクを飲ませるたびにルクスは服を汚し、おむつは想像以上の速さで消費される。夜泣きに付き合っているうちに寝不足になり、昼間も抱っこをせがまれて作業が進まない。
「……無理。これは、一人じゃ無理です」
光属性の魔女であることを理由に村付き合いを避けてきたが、そんなことを言っている場合ではなかった。
アストリアはルクスを抱え、意を決して森を出て最寄りの村へと向かった。
ラーナの家は、森の入り口近くにある素朴な木造の家だった。村の人々にとって、彼女は子供たちの面倒をよく見る優しい女性であり、アストリアにとっても数少ない「話しやすい」相手だった。
扉の前に立ち、アストリアは深呼吸する。
(……変に思われるかもしれません。でも、今の私には頼れる人が必要です)
扉を軽く叩き、少し声を張る。
「すいません、ラナさんいらっしゃいますか?」
しばらくすると、家の奥から軽やかな足音が近づき、扉が開いた。
「あら、アストリア?……どうしたの?」
ラナは明るい笑顔を浮かべていたが、次の瞬間、アストリアの腕の中のルクスを見て目を丸くした。
「って、あらあらあら!」
まるで可愛い動物でも見つけたかのように、ラナは顔を綻ばせる。
「ちょっと、アストリアが赤ちゃんを抱いてるなんて、信じられないんだけど!」
「私だって信じられません……」
思わずぼやくアストリア。しかし、ラナの明るい反応に、緊張がふっと解けるのを感じた。
*
アストリアは王都での出来事は伏せ、「この子を育てることになった」とだけラナに説明した。
「正直、一人では手が回らなくて……。ラナ、助けていただけませんか?」
するとラナは、何の疑問も持たずに、即座に頷いた。
「もちろんよ!そんなの、言うまでもないでしょ?」
子供好きの彼女は、むしろ大歓迎とばかりにルクスの小さな手を撫で、額のアザは全く気にならないように「可愛いわねえ」と微笑む。
「村の人たちにも声をかけてあげる。赤ちゃんを育てるなら、ヤギの乳やおむつがたくさんいるでしょ?」
「……助かります、本当に」
アストリアは素直に礼を言った。
こうして、村の女性たちの助けを借りながら、ルクスを育てる環境が整っていった。
*
春本番、森の中には新芽が芽吹き、鳥たちが軽やかにさえずっていた。木々の合間から降り注ぐ陽光は、冬の冷たさを完全に追い払い、温かな空気を運んでくる。
そんな中、アストリアは小さな研究机の上で魔法陣の用紙を広げながら、時折視線をルクスへと向けていた。
ゆりかごの中で、ルクスはふにゃふにゃと指を動かしながら、じっと自分の手を見つめている。しばらくすると、ぽてっとした小さな手を口に持っていき、しゃぶり始めた。
「おお、ついに自分の手の存在に気がつきましたね。」
頬を緩ませながらそう呟く。
しかし、その成長の速さは、アストリアの想像を超えていた。
ある日、ほんの少し目を離した隙に――
「えっ、もうですか?」
ぱたん。
ルクスがコロンとうつ伏せに転がっていた。寝返りの成功だ。
驚いて駆け寄ると、ルクスはふくふくとした顔を持ち上げ、誇らしげに笑っている。
「成長、早いですね?」
驚きながらも、その姿が愛おしくて、つい顔が綻ぶ。
こうなったら、早くこの世界にもカメラを作らねば。成長の記録を残さないのは、あまりにも惜しい。
そう決意するアストリアだった。
春の終わり、森には甘い花の香りが漂い、木々の葉が濃い緑へと移り変わる。
村の女性たちのアドバイスに従い、そろそろ離乳食を始めることにした。試行錯誤して作ったお粥をのせたスプーンを手に、ルクスの前に座るアストリア。
「さあ、初めてのお粥ですよ。」
小さな口元にスプーンを近づけると、ルクスは不思議そうにスプーンを見つめ、一瞬ためらった後、ぱくりと口に含んだ。
「……どうですか?」
ルクスは一瞬、顔をしかめた。だが次の瞬間には、にこっと笑って手をぱたぱたと振った。
「気に入ったようですね。よかった。」
少しずつではあるが、確実にルクスは成長している。
そして、夏。
森は濃い緑に包まれ、夏の虫の声が絶え間なく響いている。
ルクスは離乳食を食べるだけでなく、今やハイハイで部屋中を動き回るようになっていた。
「おぉ、今日も元気ですね……って、ちょっと待って、それは触らないでください!」
アストリアが慌てて振り返ると、ルクスの小さな手が研究机の上に伸びていた。
「あああ、ダメです、それは貴重な魔導書……!」
だが、時すでに遅し。机の上の巻物や魔道具が、ルクスの手によって無惨にも床に散らばった。
「……うそだと言ってください。」
ルクスは満面の笑みで手を叩き、キャッキャと楽しそうに声を上げる。
対照的に、アストリアは天を仰ぎ、頭を抱えた。
夏の終わり、風にわずかに秋の涼しさが混じり始めた頃。
ルクスが、椅子にしがみつきながら、よろよろと立ち上がった。
「頑張れ……!」
アストリアが思わず応援する。
ルクスはふんっと小さく息を吐き、必死に膝を伸ばす。だが、バランスを崩し、そのまま後ろに倒れそうになった。
「危ないっ!」
とっさに手を伸ばし、間一髪でルクスを支える。
「……心臓に悪いです。」
ルクスはアストリアの腕の中で、満足そうに笑っていた。
そして、冬。
森の木々はすっかり葉を落とし、一面の雪が静かに降り積もっている。外は冷え込み、朝の空気は頬を刺すほどに冷たい。
それでも、家の中には暖炉の火が揺らめき、心地よい温かさが広がっていた。
この冬、ルクスはついに、一人で歩き始めた。
「あっ……!」
アストリアは息をのむ。
小さな足が、ふらりと前に踏み出される。
一歩、また一歩。
転びそうになりながらも、ルクスはゆっくりと前へ進む。
そして――
「やりましたね!」
ルクスは嬉しそうに笑い、アストリアに抱きついた。
*
ルクスが昼寝をして、つかの間の休みの時間。アストリアは、散らばった育児用品を片付けながら、これまでのことを振り返った。最初は「育児は大変なことばっかり」と思っていた。
でも――
ルクスが成長するたびに、新しいことをできるようになるたびに、アストリアの胸には温かいものが満ちていった。
「……こんなに喜びに溢れたものなんですね」
まさか、自分がこんな気持ちになるとは思ってもいなかった。
(私はただ、同じ属性を持つものとして、同情心で引き取っただけだったのに)
それなのに、ルクスが笑うだけでこんなにも嬉しい。
そして、村の女性たちの助けは絶大だった。
おむつの替え方のコツを教わり、ミルクの上手な飲ませ方を学び、おもちゃを譲ってもらい、時には預かってもらって休むこともできた。
最初は「できるだけ自分一人で何とかしなければ」と思っていたアストリアも、次第に考えを改めていった。
「人の手を借りることは、決して悪いことじゃないんですね」
こうして、アストリアは育児に奮闘しながら、ルクスとともに新たな生活を歩んでいた。
自分の人生が、少しずつ前の無味乾燥なものから色づいたものに変わっていくのを感じていた。
*
ルクスの寝息が静かに響く部屋の片隅で、アストリアはそっと立ち上がった。
「やっと寝ました……さて、研究の時間です」
そう呟くと、伸びをしながら研究室へと向かう。
育児を始めてからというもの、研究に当てられる時間は激減していた。かつては昼夜問わず没頭していた実験も、今はルクスが寝た後のわずかな時間しか確保できない。
それでも、研究を諦める気はなかった。
彼女は光石のランプのスイッチを入れ、その灯りを柔らかく灯した。机の上には、分厚いノート、巻物、ガラス器具、金属の細工道具などが雑然と並んでいる。その間には、小さな魔法陣に乗せられた魔法石がいくつも置かれていた。
(昔は、丸一日でも研究していられたんですが)
そう苦笑しながらも、アストリアの目は楽しげに輝いていた。
*
研究の合間、椅子に腰を下ろし、ふと目を閉じる。
「前の人生では、子育てした記憶はないですね……」
自然と、遠い記憶が蘇る。
アストリアには、――地球での大学生活の記憶があった。
物理学の講義、研究室での実験、光の屈折や波動について学んだ日々。
なぜ自分が死んだのかはわからない。事故だったのか、それとも病気だったのか。
気づけば、この世界で生きていた。
だが、ひとつだけ確かなのは、彼女は前の世界で「光」について学んだことがあったということだ。
アルヴェオン王国では、「光魔法使いは役に立たない」と思われている。
確かに、火のように燃やすことも、水のように形を変えることもできない。攻撃魔法としては目眩し程度、回復魔法にもならない。光の魔法石である光石がランプとして使用される程度。そしてそれは人力である必要はない。
だが――
(本当にそうでしょうか?)
前世の知識がある彼女には、光がただの「照明」だけではないことがわかっていた。
「屈折、干渉、偏光……光魔法には、もっと多くの可能性があるはず」
最初は単なる反発と好奇心だった。
だが、実験を繰り返すうちに、アストリアは光魔法の可能性に気づいていった。
今では、研究そのものが楽しくて仕方がない。
ルクスの育児で中断しているものの、その情熱は変わらなかった。
*
アストリアは手元のノートを開く。
光魔法の研究を始めて以来、彼女は光魔法と物理学の融合を試みていた。
「光は波の性質を持つ」
この世界の魔法使いたちは、魔法を感覚的に捉えることが多い。だが、アストリアはそれを「数値化」し、理論的に制御しようとしていた。
光の性質は、いくつかの要素で決まる。速度ーー光速ーーは一定だが、波長、振幅、位相の組み合わせで、多種多様な光線を実現できる。
この世界の魔法使いは、光を「ただの輝き」としてしか扱っていない。
だが、これらのパラメータを魔法で調整すれば、光は全く異なる力を持つものになる。アストリアは、その技術を独自に開発していた。
波長と位相を揃えた光を一点に集中させ、高エネルギーを発生させるレーザー光。
短波長のX線を使えば、物体を透過し内部を見ることができる。
可視光より長い波長を持つ赤外線は、温度の測定に使える。アストリアは、赤外線を吸収する闇の魔石を利用した非接触型温度計の開発に成功した。
さらに光の屈折をコントロールすれば、リソグラフィ技術ーー地球で集積回路の作成に使われる、光を利用した微小な回路の作成技術ーーで魔法陣、ひいては魔導具の小型化を飛躍的に向上させられる見込みがあった。
そして今、アストリアが最も熱心に取り組んでいる課題は、写真技術の開発だった。可視光で色を白く変える闇の魔石を砕いて板にぬりつけ、写真に撮りたい風景をレンズで集光し、粉末を塗りつけた板に焼き付ける。解像度は元の世界のものとは比べ物にはならないが、可愛い可愛いルクスの成長を記録するために、今最も必要な技術だった。
アストリアはペンを取り、ノートに新しい計画を書き込む。
「当たり前と思われていることを、改めて考え直すことで、新しい世界が見えるんです」
光は、ただの光ではない。
知識と応用次第で、全く別の力を持つ。
ランプの光が揺れる研究室で、アストリアは静かに実験を続ける。
彼女の目は、知識と探究心に満ちていた。
夜は長い。
そして、新しい発見が、すぐそこに待っている。
*
アルヴェオン王国歴一二八年、春。
冬の名残が完全に消え、柔らかな陽光が森の家を包み込んでいた。
家の裏手に広がる草原には、小さな野花が芽吹き、微かな花の香りが風に乗って流れ込んでくる。窓を開け放つと、森の奥から小鳥のさえずりが聞こえ、遠くでは雪解け水がせせらぎを作りながら流れていた。
昼下がりの研究室には、ゆるやかな午後の時間が流れていた。
アストリアは書きかけのノートを片手に、机の上で考え込む。やっとルクスが一人で長い時間遊んでくれるようになり、こうして自分の研究に集中できる時間が増えてきたのはありがたい。しかし——
(写真も開発したし、そろそろ、次のアイデアを試してみたいけれど……)
ノートに走らせたペン先が止まる。思索の海に沈みかけたその瞬間——
「ねえ、ママ!」
目の前で、ルクスがプリズムを片手に振り回していた。窓から差し込む陽光を受け、七色の光が床や壁に踊るように散らばっている。
「これ、きれい!すごいね!」
子供らしい無邪気な笑顔を浮かべながら、プリズムを傾け、虹の動きを追いかけるルクス。
アストリアは微笑みながら、そっとプリズムを手に取った。
「光って、いろんな色になるんだね?」
「そうですよ。光はただ眩しいだけじゃなく、もっともっといろいろな顔を持っているんです」
ルクスが興味津々な顔で見上げる。
(これは、いい機会かもしれません)
彼の好奇心を引き出しながら、光魔法の可能性を教えられるような——そんな実験を。
アストリアはノートの隅にさっとメモを取り、顔を上げた。
「では、光を利用して美味しいお菓子を焼いてみましょうか」
「お菓子!? やりたい!」
ルクスは勢いよく拳を握る。
窓の外では、風に揺れる木々の間から、春の陽光が穏やかに差し込んでいた。
*
二人は揃ってキッチンに移動し、アストリアは棚から材料を取り出した。
小麦粉、卵、バター、砂糖。そして、アストリアの大好きな、すみれの砂糖漬け。
「今日は、すみれのパウンドケーキを作りましょう。料理が苦手なママが作れる唯一のお菓子ですよ。」
「すみれ?」
ルクスは興味津々に、手のひらに乗せられた紫色の花びらを眺めた。
「綺麗でしょう。ひとつ食べてみていいですよ。ほんのり甘くて、いい香りがするでしょう。最後に飾りに使います。」
アストリアはバターを室温に戻しながら、ルクスにボウルと卵を手渡す。
「まずは、卵を割れますか?」
「うん!」
ルクスは小さな手で卵をつかむ。しかし、力加減がわからず――
ぐしゃっ。
「あっ……!」
卵の中身がボウルに落ちる前に、手のひらで潰れて、黄身と白身が指の間から垂れ、テーブルに広がる。
「うぅ……」
申し訳なさそうにアストリアを見上げるルクス。
アストリアは微笑んで、布巾を取ってルクスの手を拭いた。
「最初は、こんなものです」
「ごめんなさい……」
「いいんです。じゃあ、次は一緒にやりましょうか」
ルクスの手を軽く添えながら、慎重に卵を割る。
「そーっと、ね」
「……そーっと……」
ぱかっ。
「できた!」
今度はうまく割れ、中からツヤツヤした生卵がボウルに滑り落ちる。ルクスは目を輝かせ、満足げに胸を張る。
アストリアはその小さな成長を微笑ましく思いながら、生地作りを進めた。
卵と同じ量のバターを泡立て、同量の砂糖を加えて白くなるまで混ぜる。そこに卵を少しずつ加えながら、さらに混ぜる。卵とバターと砂糖と小麦粉同量ずつ。それが、パウンドケーキの基本のレシピ。
「これ、なんで混ぜるの?」
「空気を含ませて、ふわふわにするためですよ」
「ふわふわ……」
ルクスは「僕もやりたい!」と頷き、アストリアから受け取った泡立て器を両手で握りしめた。
「まぜまぜ、まぜまぜ……!」
力いっぱい混ぜるが、まだ力が足りず、手が止まる。
「がんばってください、あともう少し」
「うん……!」
小麦粉を振るって、ヘラで切るように混ぜ、そっと型に流し込む。
あとは、焼くだけ。ルクスの顔は、期待で輝いている。
*
アストリアはオーブンに火の魔石を入れた。
「お菓子は、オーブンの温度を一定に保つのがとても大事なんです。そこで、光が活躍します」
「どうやるの?」
「オーブンから出る、赤外線という光を測ることで、触らなくても温度を測ることができるんです」
アストリアは研究室から筒状の道具を取り出す。その先端をオーブンの光に当て、スイッチを押すと、筒の横側の窓で、何かの色が変化するのが見えた。アストリアの開発した、赤外線に反応して闇の魔石の色が変わることを利用した非接触式温度測定器だった。
「わぁ……!」
ルクスは、その不思議な道具に目を丸くした。
「これで温度がわかるの?」
「そうです、だいたい一八〇度ですね、これで炎の魔石の出力を固定しましょう」
「すごい!」
「これで、美味しいケーキが焼けますよ」
数十分後、オーブンから甘い香りが漂い始める。
ルクスは、鼻をひくひくと動かしながら、キッチンの前で待ちきれない様子で足をバタつかせていた。
「焼けた?」
「もうすぐですよ」
オーブンの扉を開けると、ふわふわに膨らんだパウンドケーキが姿を現した。
「おぉぉぉぉ!」
ルクスの目が輝く。
「すごい、すごい! やった!」
アストリアはケーキを慎重に取り出し、粗熱を取るために網の上に置いた。網の上でほかほかと湯気を立てるケーキはちょうど、森の家のような山形をしている。
「食べてもいい?」
「ちょっと待ってください、熱いですから」
「えぇぇぇ!」
むくれるルクスに、アストリアはくすりと笑った。
ケーキが少し冷めた頃、アストリアはすみれの砂糖漬けを飾ると、ケーキにナイフを入れ、一切れをルクスの前に置いた。
ルクスはフォークを握りしめ、慎重に一口食べる。
「……!」
目を見開き、驚いたように口を動かす。
「ふわふわで、おいしい……!」
「そうでしょう?」
「すごい! ママ、光って、魔法ってすごいね!」
アストリアは微笑み、ルクスの髪を軽く撫でた。
「魔法がすごいんじゃないんです。学んでいけば、どんなことでもできるようになりますよ」
ルクスは、初めて学ぶことの楽しさを知った。
こうして、アストリアとルクスの研究と学びの日々は、甘い香りとともに続いていくのだった。
*
森の朝は、いつも静かだ。
夜の冷たさをわずかに残した空気の中、木々の隙間から柔らかな朝日が差し込み、家の周りに咲くすみれの花々を優しく照らしている。風に揺れる若葉が、ささやくような音を立て、小鳥たちのさえずりが穏やかに響く。
アストリアは、森の家の縁側に腰を下ろし、蒸気の立ち上るハーブティーを手に取った。そっと口をつけると、わずかにぬるくなった苦みが舌に広がる。
「……やっぱり、煮出しすぎましたね」
小さくため息をつき、自分の料理の適性のなさを再確認する。
そのとき——
「ママ! 見て!」
庭先から弾んだ声が響いた。
視線を向けると、朝露に濡れた草を踏みしめながら、ルクスが手いっぱいに紫の花を抱え、嬉しそうに駆け寄ってくるところだった。
「ママの好きなすみれ、あそこにいっぱい咲いてたよ!」
「まぁ、すごいです」
小さな手の中には、根っこごと引き抜かれた鮮やかな紫色のすみれがぎっしりと詰まっていた。その瞳は興奮に輝き、頬にはうっすらと汗がにじんでいる。
アストリアは微笑みながら、そっと花を見つめた。
「よく頑張りましたね。でも、そんなに持ってきたら、来年咲かなくなってしまいませんか?」
「え?」
ルクスはきょとんとした顔をして、さっきまで花が咲いていた場所を振り返る。紫色の可憐な花が、ぽっかりと抜け落ちたように消えてしまっている。
「そっか……」
「花は、種を残さないと、次の年には咲かなくなってしまいます」
ルクスは少し考え込んだあと、抱えていた花の中から一本を選ぶと、残りを地面にそっと埋め戻した。
「これなら、大丈夫?」
「ええ。これならきっと、また来年も咲いてくれるでしょう」
アストリアは、ルクスが大切そうに差し出したすみれをうやうやしく受け取り、優しくその金の髪を撫でた。
穏やかな春の風が、二人を包み込んでいた。
*
ある日、アストリアが研究室で作業をしていると、ルクスがいつものように机の前に割り込んできた。
「ねえ、ママ」
「なぁに?」
「ぼくも、魔法の光を出してみたい!」
ルクスは両手をぐっと握りしめ、やる気満々な顔で宣言する。
アストリアは少し考え、椅子から降りて、ルクスの隣にしゃがみ込んだ。この子はもう五歳。魔法の練習を始めるのに、決して早すぎない年齢だった。
「......じゃあ、試してみましょうか」
ルクスの手を取ると、そっと魔力の流れを感じ取らせるように誘導し、それから手を離して立ち上がった。
「光魔法は、ただ魔力を放つだけじゃなくて、まずはその方向を意識することが大切です。失敗すると、自分が眩しいだけで終わってしまいますからね。では、手のひらに魔力を集めて、光を外に向けるように念じてみてください。」
「うん……」
ルクスは目を閉じ、集中した。
手のひらに魔力を集める。
じわじわと温かい感覚が広がっていく。
そして――
「うん、これだ!」
ルクスが目を開けた瞬間、
パァン!
突然、強烈な閃光が弾けた。
「うわぁぁぁ!」
ルクスは目を押さえ、その場にうずくまった。
「眩しい……!」
アストリアは、少し離れたところで腕を組んで見守っていたが、その様子を見て思わず笑ってしまった。
「私も、最初はそうでした」
「まっくらだよぉ……」
涙目で訴えるルクスに、アストリアはそっと肩に手を置く。
「眩しいだけなので、すぐに治りますよ。焦らないでいいんです。学ぶのは一歩ずつですよ」
ルクスは涙を拭い、アストリアの顔をじっと見つめた。
「……また、やってみる」
アストリアは満足げに微笑んだ。
「その意気です。まずは、さっきの練習からですね。」
こうして、ルクスは初めての光魔法に挑戦し、少しずつ魔法の基礎を学び始めたのだった。
*
夜が更け、森の家の窓辺に静かに立つアストリアは、ゆっくりと外の景色を見渡した。
春の夜風が木々をそよがせ、窓の外には淡い霧が立ち込めている。空は晴れ渡り、冴え冴えとした月が森の梢を静かに照らしていた。枝の間からこぼれる銀色の光が、すみれの花々を優しく包み込み、夜の静寂にほのかな温もりを添えている。
家の奥では、小さな寝息が規則的に響いていた。
練習の興奮が冷めぬまま眠りに落ちたルクスは、薄い毛布を蹴飛ばし、無防備な寝顔を晒している。彼の髪は月明かりに照らされ、柔らかい金の光を帯びていた。その幼い顔には、微かな笑みが浮かんでいる。
アストリアはそっと微笑み、彼の額のあざに触れることなく、軽く毛布を掛け直した。
(この子は、私よりもずっと……)
今日もルクスは、光魔法の練習を続けていた。
最初はただの眩しい閃光だった。何度も失敗し、魔力を暴走させ、時には自分自身を驚かせながらも、それでも諦めることなく魔力を制御しようとしていた。そして、ほんのわずかではあるが、光の形を意図的に変えることに成功したのだ。
アストリアはそっと目を閉じる。
(このまま成長したら……一体どこまでの力を持つことになるんでしょう)
ルクスの魔力量は、彼女のそれとは比べものにならなかった。圧倒的な魔力の奔流を、この幼い体はすでに秘めている。
光魔法は、長らく「役に立たないもの」として蔑まれてきた。しかし、それは誰も光の本質を理解しようとしなかったからだ。
光はただ輝くだけではない。屈折し、反射し、波長を変え、見えない領域にまで広がることができる。
そして——それを自在に操ることができれば、この世界を一変させることすら可能になるだろう。
アストリアは窓の外を見上げた。
澄み渡る夜空。月の光が森を淡く照らし、無数の星々がきらめいている。
(この子が……光魔法の新しい可能性を開くかもしれません)
しかし、その確信の裏側で、ふと胸をよぎるものがあった。
——光が強くなればなるほど、影もまた、濃くなる。
彼の力は、いずれ大きな光となるだろう。けれど、それを恐れる者、利用しようとする者もきっと現れる。
アストリアは、そっと息を吐き、目を閉じる。
静寂の中、遠くで春の虫たちがかすかに鳴き、夜の森が深く広がっていった。