第9章 閉ざされた茨の塔
婚約騒動の後は、それはもう大変だった。
我に返った両親が、宰相ヴァルターに泣いて縋り、それでも決定を覆せないと悟ると、今度は血気迫る勢いで王へと交渉を持ちかけた。
——成人するまで手を出さないこと。
——年に一度は必ず帰省させること。
この二つを、どうにかして認めさせたのだ。
温厚で物静かな両親が、まるで獅子のように王へと噛みつかんばかりに迫る姿を目の当たりにし、ヴァイオレットは複雑な心境に陥っていた。
(……こんなに愛されていたんだな。)
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
だが、それ以上に落ち着かないのは、そもそもの発端が自分の発言だったことだ。
「好きなだけ研究できる」
そしてその甘美な響きに、何の異論も唱えられなかった自分のことを、どうにも責めきれない。
(……まあ、仕方ないですよね。)
そんな風に考えながら、サンクタス城へと本格的に居を移してから、数週間。
まさか、こんな贈り物が待っているとは、思いもしなかった——。
*
宮殿の奥深く、茨に囲まれた研究塔の一角。
ヴァイオレットは、廊下の突き当たりにある重厚な扉の前で足を止めた。
漆黒の木材に、繊細な銀細工が施された扉。その中央には、王家の紋章が誇らしげに刻まれている。
「どうぞ。」
静かに扉を押し開いた護衛の騎士の声に促され、ヴァイオレットはそっと足を踏み入れた。
次の瞬間——
彼女の想像をはるかに超える光景が、視界いっぱいに広がる。
*
天井までそびえ立つ書架。
びっしりと並ぶ魔導書や研究論文。
魔法陣が刻まれた大理石の実験台、整然と配置された測定機器、繊細な細工の施されたガラス器具——。
光石と闇石をはめ込んだ特殊な計測装置が輝きを放ち、天井の魔法灯が夜空の星のように静かに瞬いている。
——ここは、彼女のための研究室だった。
ルクスが、婚約祝いとして用意した、ヴァイオレット専用の研究空間。
彼の研究室よりは小規模ではあるが、設備の充実度は申し分ない。
ヴァイオレットは、そっと指先で机の端をなぞる。
滑らかな木の感触が心地よく、微かに新しいインクと紙の匂いが混じる。
*
「……すごい。」
その言葉は、驚嘆と戸惑いの混ざった無意識のものだった。
研究室を見渡す彼女の耳に、静かな声が響く。
「気に入ったか?」
低く淡々とした口調。
はっと我に返ったヴァイオレットは、すぐに背筋を伸ばし、両手を腰に当てると、焦ったように眉を寄せた。
「お、お待ちください! 研究設備が素晴らしいのは間違いありません。でも……本当に、私と結婚なさるおつもりなんですか?」
ルクスは微かに眉を上げたが、その反応も一瞬のことで、すぐに感情の読めない冷静な声で答えた。
「お前、光魔法の研究をしたいんだろう?」
それだけではなく、彼は淡々と続ける。
「俺の婚約者——そうしておけば、お前がどれだけここで研究に没頭しようと、誰にも文句は言われない。オルフェ家の設備では、ここまでの環境は用意できないはずだ。」
それは、あまりにも理路整然とした説明だった。
だが、そのあまりの冷淡さが、ヴァイオレットの胸にじわりと苛立ちを滲ませる。自分は、主観的にはともかく、客観的にはたった八歳の子供なのだ。
(ルクス、あなたそんな子でしたっけ!?)
彼女はぎゅっと拳を握る。
確かに彼の言うことは正しい。オルフェ家は学問貴族として一定の研究環境を持つものの、それでも貴族の義務や制約がつきまとう。この研究室と、王の婚約者という立場は、光魔法の未知の領域に挑むにはこれ以上ない環境なのは確かだった。
それでも——
(だからって、そんな割り切った言い方ってあります!?)
ヴァイオレットは、静かに息を整えながら、まっすぐルクスを見据えた。
「……ルクス陛下、私の知識と研究を買ってくださったこと、感謝いたします。」
努めて落ち着いた声でそう告げる。
ルクスは彼女を一瞥し、薄く微笑んだ。
それは、まるで氷のような微笑だった。
「今後も買うかどうかは、お前次第だろう。」
ヴァイオレットは、奥歯を噛み締めた。
(何、このルクス……可愛くない!)
確かに研究室は素晴らしい。けれど、目の前のルクスは、記憶の中にいたあの少年とはまるで別人だった。
この冷たい王の本心を知るには、時間がかかるかもしれない。
それでも——
彼女は深く息を吐き、静かに研究室の奥へと足を踏み出した。
*
ヴァイオレットは、すぐにこの恵まれた研究環境に没頭した。
王の婚約者という肩書きは、彼女に貴族としての義務から解放された自由を与えた。朝から晩まで、ひたすら光魔法の可能性を探求し、試し、計算し続け、それを理解者であるルクスと議論する日々——それは彼女にとって、何よりの喜びだった。
そして、気がつけば、ルクスの研究室との壁を取り払うことに同意していた。
共同研究室と化した広大な空間の中央で、ヴァイオレットは大理石の実験台に身を乗り出し、素早く羊皮紙に数式を書きつけていく。彼女の向かいでは、ルクスが腕を組み、わずかに眉を寄せながらその計算を見つめていた。
「しかし、データ量の圧縮はどうする……なさるんです?」
ヴァイオレットは顔を上げ、じっとルクスを見つめた。彼の金の瞳には、深い思索の色が宿っている。
「可視光を使えば、複数の波長を並列処理できる。つまり……」
ルクスは手元の光石をひとつ拾い、机の上に置かれた闇石の小片へと光を照射した。淡い光が広がり、闇石に蓄積される。
しかし——
ヴァイオレットは納得がいかないように頬に指を当て、首を傾げた。
「それだと、波長ごとの干渉で情報が混ざる可能性があるのでは?」
「だからこそ、波長ごとに振幅変調をかけるんだ。」
ルクスは無造作に羽ペンを取り上げ、ヴァイオレットの書いた数式の脇に、新たな式を書き込む。光の波の重ね合わせを制御し、情報を分離する方法。
ヴァイオレットは、それを見て一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに面白そうに口元を緩めた。
「なるほど……! そうやって並列処理するんですね!」
「理論上は、だがな。」
ルクスの声は淡々としていたが、ヴァイオレットは彼の目に微かな光が宿るのを見逃さなかった。
研究に没頭する彼の姿は、かつての少年の面影を僅かに思い出させるものだった。
実験台の周囲では、書類を手にした文官たちが、二人のやり取りをただ黙って見守っていた。
必要なサインを求めてきた勇気ある一名が、何か言おうと口を開いたものの——
次の瞬間、再び繰り広げられた専門的すぎる議論に割り込むことができず、結局、気まずそうに黙り込んだ。
——王と、その妃となるはずの少女が、誰も理解できない世界を構築している。
研究室の空気は、他の誰も入り込むことのできない、ふたりだけの領域になっていた。
*
署名を求め、ついに自ら研究室に乗り込んできた宰相ヴァルターは、その光景を見て深々とため息をついた。
「これが王とその未来の妃か……」
前髪をぐしゃぐしゃとかき分けて目を覆い、ヴァルターはぼそりと呟く。その呆れた声も、ルクスとヴァイオレットには届いていなかった。
ルクスは、ヴァイオレットの計算の続きをじっと見つめ、微かに口元を歪めた。
「……お前の発想は時々、俺の考えの外から飛んでくるな。」
それは、ごく僅かだが、確かに微笑だった。
ヴァイオレットはその表情を見て、一瞬言葉を失う。
彼の笑顔は、滅多に見られるものではない。いや、むしろ——ルクス・アルヴェオン王は、国政の場では決して笑わない。
だが、今この研究室の中で、彼はほんのわずかに口元を緩めている。
その光景を見たヴァルターは、ますます深くため息をついた。
「国政には冷淡なくせに、研究となると笑顔を見せるのか……。」
彼の嘆きにも、やはりルクスは耳を貸さなかった。
*
茨の研究塔の一室。
ヴァルターの懇願により設えられた小会議室は、研究塔の他の無機質な空間とは異なり、わずかに人の温もりを感じさせる調度品で整えられていた。窓の外には、初夏の風に揺れる青々とした樹々が見え、陽光が穏やかな曲線を描きながら床に落ちている。
しかし、その清々しさとは対照的に、室内の空気はひどく冷え切っていた。
ヴァルターは無造作に書類の束を机に置くと、向かいに座る王を見やった。
「陛下、南部の税制改革案についての決裁が必要です。」
静かに切り出された言葉は、何の反応もないまま、広い部屋に溶けていく。
「動力源としての火魔法の定期供給を税制に組み入れるという提案に、賛否が割れています。ロマス帝国が対立を影で煽っているという報告もあり……対応として……」
「ヴァルター、お前に任せる。」
ルクスは淡々とした口調で言い放つと、手元の羊皮紙へと視線を戻した。
その紙には、複雑な幾何学模様が描かれている——おそらく、光魔法を応用した新たな研究の設計図だ。彼にとって、この場で交わされる政治の話など、どうでもいいことだった。
ヴァルターは、無意識のうちに握りしめていた梟の形をしたペンをくるりと回すと、静かに息を吐いた。
「……陛下、私は確かに国政を任されています。しかし、これは国王の判断が必要な問題です。」
ルクスは視線すら上げず、冷ややかに告げる。
「俺は傀儡の王になる。国を治めるのはお前がやる。そういう取引だったはずだ。」
ヴァルターの眉が、僅かに寄る。
「……国政は、そんなにつまらないですか。」
わずかな沈黙。
ヴァルターは目を閉じ、心の奥に広がる虚無感を押し殺した。
ルクス・アルヴェオンに、傀儡の王となるよう持ちかけたのは、他でもない彼自身だった。国政を自らの手に握るために。しかし——
初めて彼に会ったとき、ヴァルターは確かに見た。琥珀色の瞳に宿る知性と飢え——世界を求める光。
彼を王にすれば、この国は変わると確信した。だが今、その瞳が見つめるのは人ではなく、理論。国政ではなく、魔法技術。未来の王国ではなく、光魔法のさらなる可能性だけ——
何を思い、何を感じ、何を望んでいるのか。
もはやヴァルターには、彼の心は見えなくなっていた。
*
偶然この場に同席していたヴァイオレットは、二人の間に流れる重苦しい沈黙を感じながら、静かにその様子を見守っていた。
王と宰相の間には、見えない壁があった。ヴァルターがじっとルクスを見つめても、彼はその視線を受け流し、ただ筆を走らせ続ける。
(……ルクスは、光魔法の研究以外に目を向けるのを拒んでいるの?)
胸の奥に疑問が渦巻く。
十五歳の彼は、ありとあらゆる学問に手を伸ばし、世界を広げようとしていたはずだ。
それなのに、今の彼は——研究以外のありとあらゆるものを固く拒んでいる。
王となるまでに、彼は——どれほどのものを失ったのだろうか。
彼は、暗闇の中で、光の理だけを探求し続けているのか。
その思考に囚われたまま、ヴァイオレットは、ただ静かにルクスを見つめていた。
*
ヴァイオレットは、その日の夕方、研究を終えて共同研究室を出た後も、胸に引っかかるものを感じていた。
彼の冷たい視線。
機械のように淡々とした声。
かつて知っていた、世界のすべてを知ろうと笑って手を伸ばしていた彼とは、まるで別人のようだった。
あの瞳の奥に、何があるのだろうか——。
思い悩みながら、ふと視線を上げると、彼女の前に宰相ヴァルターが立っていた。
「ヴァイオレット様、少しお時間をいただけますか?」
知略を巡らせる政治家の顔ではない。
その表情はどこか険しく、それでいて何かを託すような、静かな光を湛えていた。
彼の案内で向かったのは、研究塔の一室。
茨に囲まれた孤独な塔の中で、唯一、政治の香りが許される空間——先ほどの小会議室だった。
ヴァイオレットは、机を挟んでヴァルターと向かい合い、何かを言われる前に、静かに切り出した。
「宰相閣下——なぜ、陛下はあれほどまでに光魔法の研究に没頭し、それ以外を拒まれるのですか?」
ヴァルターは、少しだけ目を伏せる。
そして、まるで過去を辿るように、ゆっくりと口を開いた。
「……これは、あくまで私の想像ですが。」
彼は手を組みながら、静かに言葉を紡いだ。
「陛下は、赤ん坊の時にこの国に捨てられています。王族でありながら、王宮ではなく辺境で育ち、国の荒廃に乗じた教団に、保護者を目の前で殺されたのです。」
ヴァイオレットは、無意識のうちに拳を握った。それは、アストリアのことだ。
「陛下はこの国、アルヴェオン王国に、特別な思い入れがあるわけではない。それどころか、恨んでいるのかもしれません。」
ヴァルターの声は、静かだった。
「彼はただ、教団を倒すために私と取引をして王になった。だが、それ以上の未来を望んだわけではなかったのでしょう。私はあの時、自分の思い通りになる、傀儡の王が欲しかった。そういう意味では、彼は約束通り、傀儡の王として役割を果たしているとも言える。」
しかし——
ヴァルターは、ふっと息を吐き、目を伏せた。
「……こんなふうに、国を拒んでほしかったわけではなかった。」
机の上に置かれたヴァルターの手が、わずかに力を込める。
「いや、もしかすると——」
彼はヴァイオレットを見つめ、言葉を選ぶように続けた。
「陛下は、教団によって魔女を失ったときに、世界の光をも失ったのかもしれない。そして今、それを闇雲に研究に求めているだけなのかもしれません。」
——魔女。
ヴァイオレットの胸に、微かな痛みが走る。
私が死んだとき、彼は——。
ヴァルターは、深い思索の色を浮かべながら、再び口を開いた。
「しかし、私はまだ希望を捨てていないんです。」
ヴァイオレットは、はっと彼を見つめる。
ヴァルターの瞳は、揺るぎない信念に満ちていた。
「私の希望は、あなたと——ノルデン皇太子、セレナ殿下です。」
ヴァイオレットの目が、大きく見開かれる。
「……私と、セレナ皇太子殿下?」
「そうです。」
ヴァルターはゆっくりと頷く。
「あなたたちが、光をもって——彼の茨を打ち破ってくれることを、私は期待しているのです。」
ヴァイオレットは、その言葉の重みを噛み締めるように、そっと視線を落とした。
ルクスの目には、かつての光がなかった。
それを取り戻すことができるのなら——
彼女は、研究者として、そしてかつてのアストリアとして——何をすべきなのか。
ヴァルターの言葉が、静かに心に刻まれていくのを感じながら、ヴァイオレットはゆっくりと拳を握った。
*
静寂に包まれた茨の塔の扉が、勢いよく開かれた。
石造りの廊下に響く軽やかな足音、続いて、高く澄んだ少年の声が飛び込んでくる。
「陛下、やっぱりここ、教えてください!」
研究室の中、硝子瓶に差し込む陽光が揺らぎ、机の上に広げられた羊皮紙の影をわずかに震わせる。
ルクスは筆を止めることなく、淡々と答えた。
「またか。ノートに書いてあるだろう。私が手取り足取り教える理由はない。工学研究院でも行ったらどうだ。」
冷え冷えとした声音。
その言葉に、扉の前で立ち尽くしていた少年の肩が、ぴくりと揺れる。
「でも……!」
セレナ・ノルデン。
ノルデン皇国の皇太子であり、光魔法を学ぶためにこの国へ留学してきた若き王子。
彼は懸命に言葉を紡ごうとしたが、ルクスがようやく手を止め、鋭い金の瞳を向けると、思わず唇を噛んだ。その小さな拳が、悔しげに震える。
「ルクス陛下……ノルデンでは、まだ光魔法は“無用”とされている。僕は、それを覆したいんです……。」
青い瞳がまっすぐにルクスを見つめる。
「光魔法にも、国を富ませる力があるって、証明したいんです!この国のように……!」
その言葉に、部屋の片隅で静かに様子を見守っていたヴァイオレットが、僅かに眉を上げた。
(へえ.....ノルデン皇国ではまだ光魔法が、役に立たないとされている?)
かつて、光魔法は「無用な力」どころか、「忌むべき力」とされていた。けれど、ルクスが王となり、その有用性を示したことで、世界は変わった。今や光魔法はこの国の技術革新の象徴となり、かつてのように迫害されることはない。
——だが、それはアルヴェオン王国の話。
ノルデン皇国では、依然として光魔法の価値が認められていない。
「でしたら——」
ヴァイオレットは柔らかく微笑み、机に軽く手を置いた。
「赤外線を利用した暖房器具の開発をされませんか、セレナ殿下?」
セレナの目が驚きに見開かれる。
「赤外線……?えっと、君は?」
「ヴァイオレット・オルフェと申します。陛下の共同研究者をしております。光魔法の特性を調整すれば、光石から熱を生み出せます。ノルデン皇国は寒冷地で、火の魔石の供給が常に不足しているでしょう。でも、もし光魔法で効率よく暖を取る技術が確立できれば——」
ヴァイオレットは微笑みを深める。
「光魔法の価値を、あなたの国でも証明できるかもしれません。」
セレナの表情がぱっと輝いた。
「それなら……!」
興奮した様子で何かを言いかけた少年を、ルクスの静かな声が遮った。
「ヴァイオレット。」
彼女は肩越しに、机に肘をついたルクスを振り返る。
その黄金の瞳は、まるで彼女の意図を探るように、じっと揺らめく紫紺の瞳を見据えていた。やがて、あきらめたようにため息をついて、彼の指先が、手元の光石を無造作に弾く。
「いいだろう。試作を作ってみろ。できたら持ってこい。見てやる。」
セレナは、ぱっと顔を上げる。
「本当ですか、陛下!」
少年の顔に満開の笑みが浮かんだ。
ヴァイオレットは、そんな彼の様子を微笑ましく思いながらも、ちらりとルクスを盗み見た。
——ルクスの目は、微かに揺らいでいた。
彼自身がその価値を証明し、確立した光魔法の未来。
けれど、それを広げようとしているのは、彼だけではない。
新たな光を持つ、ノルデンの皇太子と——彼女自身もまた。
彼女は光石をひとつ手に取り、柔らかな光を灯した。
新しい時代の光は、もうすぐ、ここから始まるのだ。
*
研究室の奥深く、石造りの壁に囲まれた空間で、光石の柔らかな輝きが揺れていた。中央の実験台には、細かい魔導回路が刻まれた光石の破片と、幾何学的な図形が描かれた設計図が広げられている。その傍らには、小柄な少年が目を輝かせながら光石をじっと見つめていた。
セレナは、光魔法の可能性を証明するためにここにいる。
「本当に……この石を赤外線?を発するように加工できるんですか?」
少年の細い指が、光石の表面をそっと撫でる。滑らかで冷たい感触が伝わり、彼の瞳が一層真剣な色を帯びた。
「できます、セレナ殿下。」ヴァイオレットは頷く。「光魔法は、ただ明るさを生むだけのものではございません。波長を調整することで、さまざまな可能性をもちます。」
セレナの目が期待に満ちた輝きを放つ。
「やってみます!」
彼は両手を前に出し、小さく息を吸い込んだ。指先に魔力を込めると、淡い金色の光が石の上に宿る。ヴァイオレットとルクスは、それを静かに見守った。
「魔力の振動を少し抑えて……そう、波長を一定に揃える意識を持って。」ヴァイオレットがアドバイスを送ると、セレナは小さく頷き、集中を深めた。
やがて、光石の色が徐々に変化し、温かな赤みを帯びていく。そして——
「……!」
彼の目の前で、光石が淡く発光し、指先からじんわりとした熱を感じる。セレナが驚いたように目を見開いた。
「温かい……!」
ルクスが僅かに眉を上げ、光石の表面を指で弾く。その波長を確認し、淡々とした声で言った。
「悪くない。」
セレナは嬉しそうに頷いた。
——こうして、赤外線ストーブの試作が始まった。
*
研究室には、連日光石の煌めきと赤外線測定器の淡い光が揺らめいていた。
三人——ルクス、ヴァイオレット、そしてセレナは、幾度となく試行錯誤を重ね、試作機の調整を繰り返していた。
「……やっぱり、温度が一定じゃない。」
ヴァイオレットが赤外線計測装置を覗き込みながら、眉を寄せる。
目の前の試作機は、時折ふっと温度が上がったかと思えば、すぐに不安定に冷え込んでしまう。均一な暖房効果を得るには、魔力の流れを一定に保つ必要があった。
「魔力の流れが均一じゃないですね。」
彼女は光石の表面を撫でながら、慎重に言葉を選ぶ。
「一定の光量を保つためには、制御機構も必要です。」
セレナが小さな唇を引き結び、悔しそうに装置を見つめる。
「僕の魔力量が足りないから……?」
「違う。」
ルクスが、机の上の羊皮紙に手を伸ばしながら淡々と言った。
「光石単体では、出力の安定性が低い。なら、闇石を組み込むのはどうだ?」
その言葉に、ヴァイオレットとセレナの視線が彼に集まる。
「闇石は光を吸収するが、その特性を利用すれば、余分な熱を逃がす機構を作れる。」
ルクスはペンを取り、羊皮紙にさらさらと計算式を書き加えていく。
「光石から放出されるエネルギーの過剰分を闇石に吸収させ、一定の範囲内で再放出する。その結果、温度のバラつきを抑えられるはずだ。」
セレナが目を輝かせる。
「やってみます!」
その一言で、新たな試作が始まった。
ヴァイオレットは、光石と闇石の組み合わせを慎重に調整し、ルクスは光魔力の流れをより効率的に制御する回路を設計する。そして、セレナは試作品を組み上げる手を止めることなく、何度も何度も細かな調整を繰り返した。
失敗は数え切れないほどあった。光石の配置を誤り、一瞬で温度が上がりすぎて装置が壊れたこともある。闇石の吸収量を間違え、まったく熱が発生しなくなったこともあった。
それでも、三人は諦めなかった。
そして——
ある日、試作機のスイッチを入れた瞬間、ふわりと柔らかな温もりが広がった。
手のひらに収まるほどの小さな装置。しかし、確かに安定した熱を生み出している。
セレナは、自分の手をそっとかざした。
「……あったかい。」
彼の表情が、驚きから、ゆっくりと歓喜に変わっていく。
「できた……!」
ヴァイオレットが微笑み、ルクスもわずかに満足げに目を細める。
こうして、ノルデン皇国を温める発明が生まれた。
光石と闇石の主要な産地は、アルヴェオン王国の北部にある。この技術が普及すれば、ノルデン皇国は寒冷な気候から解放され、アルヴェオン王国もまた、資源と技術の提供によって莫大な利益を得ることになるだろう。
この灯火は、未来を変える新たな光となるかもしれない。
*
アルヴェオン王国歴一五〇年、冬の終わり。
柔らかな陽光が王宮の庭園に差し込み、氷の解けた小道をきらめかせていた。空気にはまだ冬の冷たさが残るものの、木々の枝先には新芽がほころび、春の訪れを予感させる。
その庭園の片隅で、ヴァイオレットとセレナは向かい合っていた。
「ヴァイオレットさん、本当にありがとうございました!」
セレナ・ノルデン皇太子——この国へ十歳で留学してきたときはまだ幼かった少年が、三年の月日を経て、今では堂々とした少年へと成長していた。青い瞳には知性の光が宿り、短かった金髪も少し伸びている。
彼の腕の中には、小さな赤外線ストーブ。彼自身が留学の末に完成させた、光魔法の新たな応用技術だった。
ヴァイオレットは、その姿を微笑ましく思いながら、静かに言葉を返す。
「セレナ殿下が努力された結果でございます。」
彼女がそう微笑むと、セレナは少し頬を染め、視線を僅かにそらした。
「……僕、あなたみたいな素敵な女の子と一緒に研究ができて、本当に嬉しかった。」
その言葉に、ヴァイオレットは一瞬きょとんとした。
(私みたいな女の子……?)
彼の言葉の意図を測りかねて首を傾げたその瞬間、セレナは静かに視線を落とし、小さな拳をぎゅっと握りしめた。
「でも、あなたは……陛下の共同研究者且つ.....婚約者だったんですね。」
その一言が、庭園の静寂に淡く響く。
ヴァイオレットは、思わず息をのんだ。
(ああ……)
ようやく気づいた。
この少年は、幼いながらも、自分に淡い想いを抱いていたのだと。
けれど、それを口にすることも、感情に流されることもなく、セレナはまっすぐ顔を上げる。
彼の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「僕は……陛下に誓いました。僕が即位したら、有事の際には、ノルデン皇国はアルヴェオン王国に協力すると。」
それは、ただの感傷ではなく、一人の王子としての覚悟だった。
ヴァイオレットは、静かに寂しさを抱きながらも、笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます、セレナ殿下。」
——こうして、彼は光魔法の新たな可能性を胸に、故郷へと帰っていった。
冷たく澄んだ風が、次代の王となる少年の背を押すように吹き抜ける。
冬が終わり、春が始まろうとしていた。




