第7章 王位継承者争い-5
王都の街路に、赤や黄色の葉が舞い落ちる。
秋の訪れを告げる冷たい風が、サンクタス城の石壁を静かに撫でた。
書斎の窓際には、冷めきった紅茶のカップ。
ルクスは、その縁を無造作に指でなぞっていた。
対面に座るヴァルターは、手元に王国の地図を広げた。
王位争いにおいて、最後に対峙することになったフロステン領――王国の最北に位置する地。
フロステン内でも南部は比較的涼しく、春小麦の栽培や酪農が行われている。ルヴェランから購入した綿花を用いた紡績業も盛んで、伝統的な家内工業が根付いているのだ。しかし、北へ行くにつれ、寒さが厳しくなり、不毛の凍土が広がる。ノルデン皇国とは隣接するとはいえ、高い山脈に遮られ、交易は限られたものだ。
「フロステンは......人口も経済力も、他の二地方とは比べ物にならないくらい小さい。」
ルクスは地図を見つめながら呟く。
「商人たちは確かに北方への投資と新たな交易路の拡大を求めているはずだが......それでも王位継承者に手をあげるのは合理的でないな。」
ルクスの発言を肯定するように、ヴァルターが声を出す。
「そう、王女殿下の意図が全くわからないのです……イザリス殿下は、かつて王国内でも評判の、慈善活動に熱心な王女でした......“王にするには優しすぎ、傀儡にするには弱すぎる”」
ヴァルターは指を組み、かつての評価を繰り返す。
「それが、私の彼女への印象でした。」
ルクスは、琥珀色の瞳をわずかに細めた。
ヴァルターはルクスを見据えた。
「この国で王女が王になるためには、すべての男子の継承者が死なねばなりません。彼女は、決してそんなことを望むような人ではなかった。その美貌・評判を生かして、外交の強化に努める......そのようなことを考えているとおっしゃっていた。」
「では、なぜ彼女は争いに加わっている?カイオスのように、他者の意向なのか?」
ルクスの問いに、ヴァルターは頷いた。
「それを知るためにも——フロステン領の大商人たちとの交渉を計画したのです。」
落ち葉が舞う王宮の窓の向こうで、冷たい風が静かに夜を運んでいった。
*
サンクタス城の一室。
重厚なテーブルを囲み、7人の北部大商人が座していた。
老獪な者、若く聡明な者。そんな彼らに共通していたのは——この王国の未来よりも、己の利益に忠実な目をしているということだった。
ヴァルターはゆっくりと、彼らの前に一枚の紙を置く。
商人たちの視線が、それに吸い寄せられるように落ちる。
「これは……?」
一人が手に取り、光にかざした。そこには、朝日を浴びるサンクタス城の風景が、モノクロだがしかしそれでも精緻に写し取られていた。
「写真、というものだ。」
ルクスが静かに答えた。
「光魔法の技術を応用して、瞬時に光景を焼き付ける。」
「ほう……」
興味を示しながら、別の商人が問う。
「大変興味深い。しかし、これが、我々とどう関係が?」
ルクスが続ける。
「これは、フロステンで産出する闇石と光石を使用したものだ。」
商人たちはざわめいた。
「今まで、ランプの原料にしかならなかったものが——新しい商品になる。」
ヴァルターは、手に持った梟のペンをくるりと回し、鋭い目を商人たちに向けた。
「これだけではありませんよ。」
続いて、部屋の隅に控えていた工学研究員が前に出る。彼は、部屋の端に置かれていた布を一枚剥がした。そこから現れたのは、北部では見慣れた織機——ただし、それは、どこか異様だった。
「ただの織機ではないのですか?」
商人の一人が訝しげに尋ねる。研究員は何も言わず、機械の横に取り付けられたスイッチを押した。
ギィィン……
静寂を破るように、織機が動き出す。人の手を介さず、縦糸が上下し、横糸が風魔法によって勢いよく通される。
機械仕掛けの魔法織機——それが、目の前で布を紡ぎ出していく。
「なっ……!」
「これは……!」
商人たちの目が驚愕に見開かれる。
「まだ、紡績に慣れている職人たちによる調整が必要ですが、大幅な効率改善になるでしょう。」
ヴァルターの言葉に、商人たちは息を呑んだ。
「言うまでもないが、莫大な利益を生むだろう。」
ルクスは淡々と告げる。
部屋に響くのは、機械の規則的な動作音と、商人たちの高鳴る鼓動だけだった。
*
商人たちは顔を見合わせ、低く囁き合った。
「……これほどの技術革新、どこかに先を越されるわけにはいかん。」
「だが、イザリス様の意向に逆らえば——」
「しかし、今のイザリス様は......」
沈黙が落ちた。
ルクスが、ゆっくりと彼らを見渡す。
「何か、知っているのか?」
商人の一人が、覚悟を決めたように詰めた息を吐いた。
「……私たちは、イザリス様に定期的に呼ばれ、商業の相談を受けています。何か困ったことはないか、フロステン領のため自分が役に立てることはないか、と。我々にも慈悲深い、素晴らしい方だった。」
「ですが、ここ二年ほど——」
「彼女の言動が、以前とは違うのです。」
「以前は、穏やかで、誠実な方だった。」
「けれど……最近のイザリス様は、どこか”人が変わった”ようで……」
「まるで、誰かに——操られているかのように。」
ルクスの瞳が鋭く光る。
ヴァルターは、手元の梟のペンを軽く回しながら、静かに呟いた。
「……なるほど。」
ルクスが、低く囁く。
「誰かが……イザリスを操っている?」
「可能性はあります。」
ヴァルターは頷く。
商人たちは、沈黙の後に、口を開いた。
「我々は、ルクス王子につきます。」
「商人は、利益のあるほうにつく。これを見たものは誰でもこうするでしょう。」
「イザリス様が本来のご意志ではないのなら……我々は、真に北部を発展させる道を選ぶ。」
ルクスは、静かに目を伏せる。
ヴァルターは、淡く微笑んだ。
「では——北部の争いの幕を、開けるとしましょう。」
*
灰色の雲が低く垂れ込め、王宮の屋根を濡らす雨が静かに音を立てていた。
秋の雨は、冷たく、重い。
サンクタス城の一室。窓の外に目をやると、庭園の木々がしっとりと雨に濡れ、落ち葉が水たまりの上に浮かんでいる。
「……第一王女殿下は“操られている”可能性が高いですね。」
ヴァルターが低く呟いた。
机の上には、フロステン領の商人たちから得た情報が並べられている。
——“イザリス様は、まるで別人のようでした。”
——“あの優しい王女が、人を切り捨てるなど……”
——“我々の言葉が、まるで届いていないのです。”
ルクスは椅子の背にもたれ、冷えた紅茶のカップを指でなぞる。
「精神操作か……?」
彼は、微かに目を細めた。
闇魔法による精神操作は、一度かかれば、そう簡単に解けるものではない。
しかし、もしその影響がイザリスにも及んでいるなら——
「光魔法を試したい。」
ヴァルターが、顎に手を当てて思案する。
「……会談を申し込みましょう。」
ルクスは静かに頷いた。
*
イザリス王女への面会は、表面上は快く受け入れられた。日付の調整がなされ、それを待つばかりだったある日。
宰相の執務室の扉が勢いよく開かれる。
「緊急報告!」
衛兵の一人が駆け込んできた。
「——第一王女イザリス様が、王印を奪い、手勢を連れてフロステン領へ向かった模様!」
ルクスとヴァルターは、同時に顔を上げる。
「……王印を?」
「まさか、奪われたのか?」
王印——それは、アルヴェオン王国の正統な支配者を示すもの。
王が命じるすべての命令に、その印が必要となる。
「病の王のもとに仕えていた近衛兵たちを、イザリス様が直接制圧された模様……!」
ヴァルターが、ゆっくりと目を閉じた。
「……王印が奪われたとなれば、猶予はありません。」
衛兵がひれ伏す。
「さらに、王命により、ルクス王子殿下を王国軍の総司令官に任命し、王印奪還の任務を託すとのこと……!」
ルクスは、琥珀色の瞳を静かに閉じ、立ち上がった。
窓の外では、冷たい雨が絶え間なく降り続けていた。
*
寒気が肌を刺し、吐く息が白く凍る。
夜霧が立ち込めるリアス式海岸。断崖絶壁に囲まれた入り江は、冷たく凍りついた静寂に包まれていた。
その闇を裂くように、海上に黒い影が現れる。
ルクスとカイオスの率いる蒸気船の艦隊だった。船の甲板には、火魔法使いたちが控え、彼らの掌には橙色の炎が灯っている。レーダーの見えない光が霧の向こうを探り、砦の配置を正確に映し出す。
「——着岸する。」
カイオスの静かな号令が響く。蒸気船が氷壁の砦の麓へと滑り込むと同時に、火魔法使いたちが一斉に火を放った。
「撃て!!」
砦の防壁に沿って吹き荒れる風魔法の障壁が、炎の奔流に触れた瞬間——
轟ッッ!!!
激しい爆炎が砦の壁を焼き尽くし、氷の壁が爆ぜるように弾けた。砦の上から風魔法使いたちが応戦しようとするが、炎の魔力を込めた矢が次々と飛び交い、彼らの魔法ごと飲み込んでいく。
「突入!」
カイオスが叫ぶと同時に、炎魔法使いたちが砦の内部へと雪崩れ込んだ。
氷壁の砦は、徐々にその牙を折られていく。
*
戦いの音が次第に静まり、砦は完全に陥落した。
最後に残された、砦の貴賓室の扉を押し開ける。ルクスとヴァルターが中へと足を踏み入れると、そこに——
王印を抱え、薄着でうずくまる黒髪の女性の姿があった。大きな窓の外では、冷たい雨がいつの間にか雪へと変わり、白く降りしきっている。
だが、彼女の漆黒の目は、何も映していなかった。
「……イザリス姉上?」
ルクスがそっと声をかける。イザリスは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、理性の光はなく——
虚ろな闇が広がっていた。
ヴァルターがわずかに眉をひそめる。
「やはり、精神操作が……。」
ルクスは無言で手をかざす。彼の掌から、淡く穏やかな光が静かに広がった。それは、夜明け前の微光のように、柔らかく優しい輝きだった。
光の波がイザリスを包み込む。
その瞬間——
彼女の瞳が、かすかに揺らいだ。
「……あ……」
イザリスの瞳に、光が戻る。
——次の瞬間、彼女の身体が脱力し、そのまま崩れ落ちた。手の中の王印が、ころりと絨毯に転がる。
ルクスがそっと彼女を支え、小さく息を吐くと、彼女を寝台に横たえた。
王女は、ようやく“呪縛”から解放されたのだ。
*
イザリスが目を覚ましたとの報せを受け、ルクスとヴァルターは貴賓室の扉を静かに押し開けた。
部屋の中には暖炉の火が揺らめき、柔らかな毛布に包まれた王女が、ぼんやりと天井を見つめていた。青白い顔にかすかな疲れの影を滲ませながらも、彼女の雪のような美貌は損なわれることなく、どこか儚げな気配すら漂わせている。
ルクスは一歩踏み出し、静かに口を開いた。
「イザリス姉上、初めまして。」
その言葉に、王女はゆっくりと視線を向ける。
「……あなたの異母弟、ルクス・アルヴェオンです。」
彼の名を聞いた瞬間、イザリスの瞳に微かな動揺が浮かんだ。
「……聞いたことがあります……。赤ん坊のときに辺境へ追いやられたと……。」
彼女は目を細める。
「ずっと、気になっていました……。でも……すみません、どうして私はここにいるのですか? なぜあなたが……?」
ルクスは黙って椅子を引き、イザリスの枕元に腰を下ろした。
「姉上は、このサンクタス城で王から王印を奪い、王位を求めてフロステンに籠城していました。」
「……え?」
イザリスは困惑したように首を振る。
「私……王位など……望んでいません。そんなこと、考えたことも……。」
彼女の手が震える。まるで何かを振り払うかのように、額を押さえた。
「でも確かに、王にならなければならないと……。そして、光魔法を根絶しなければならないと……。なぜ……?」
ルクスはヴァルターと視線を交わす。
光魔法の根絶——それは、教団の思想そのもの。
「……姉上は洗脳されていた可能性があります。」
イザリスの瞳に、混乱の色が広がる。
「洗脳……? 闇魔法を使われた記憶なんて……。」
ルクスは彼女の言葉を待つ。
「……わかりません。記憶がある頃は、いつも通り孤児院へ行き、退役軍人を慰問し……。何も変わらない毎日でした。」
ふと、冷たい風が窓の隙間から吹き込む。
*
戦の余韻がまだ残るフロステンの砦に、冷たい雨が降り続く。砦の石壁を濡らす雨は、夜が更けるにつれ、静かに雪へと変わり始めていた。
撤収の準備が進められる中、北部の貴族たちは安堵の表情を浮かべていた。
「王女殿下は、王位を望まれないのですね?」
ルクスがそれを肯定すると、貴族たちは深く息をつき、迷いなく膝を折った。
「ルクス王子殿下に忠誠を誓います。」
もともと王権に執着していなかった彼らは、むしろ王位争いから遠ざかることができたことで、ほっとしているようだった。
そんな折、イザリスの護衛を務める騎士が、控えめにルクスとヴァルターに声をかけた。
「殿下——イザリス王女殿下が、“ひとつだけ闇魔法について心当たりがある”と仰せです。」
ルクスとヴァルターは互いに視線を交わし、静かに頷いた。イザリスがようやく、何かを思い出したのかもしれない。
夕食後、彼女の部屋を訪ねることを決めた。
*
暖炉の火が静かに揺れる食堂で、ルクスは手元のカップに視線を落とした。ぬるくなった紅茶を一口飲み干し、席を立つ。ヴァルターも同じく立ち上がり、二人は廊下へと足を向けた。
そのときだった——
「ご報告いたします! 王女殿下が……倒れられ、息がありません!」
廊下を駆けてきた兵士の叫びが、砦の冷たい空気を引き裂いた。
ルクスの足が止まる。
「……何?」
ヴァルターも息を詰まらせた。
「王女殿下は夕食を召し上がり、リンゴを口にされた瞬間に——」
説明を聞く間も惜しく、ルクスとヴァルターは足を速めた。砦の貴賓室へと急ぐ二人の耳には、凍てつく夜の静寂しか聞こえなかった。
*
貴賓室の扉が乱暴に開かれる。
そこには——
冷たい石の床に横たわるイザリスの姿があった。
美しい黒髪を広げ、静かに眠るように横たわる王女。その頬にはまだ血の気があり、長い睫毛は微かに震えているようにも見えた。
だが、医師の言葉は無情だった。
「……おそらく即死でした。」
ヴァルターが苦々しく歯を食いしばる。
ルクスは、拳を握りしめたまま動かない。
床には倒れた銀の果物皿、半分かじられたリンゴ——
毒殺——口封じされたのだ。
「っ……!」
ルクスは、拳を振り上げ、思い切り壁に叩きつけた。ゴンッ——鈍い音が響く。騎士たちが驚いたように振り返った。
(また、奪われた——)
ようやく取り戻した、優しい姉を。
彼女の未来を。
闇が、再び奪った。
「……許さない。」
ルクスの琥珀色の瞳が、深く燃え上がる。
教団——
次こそ、決して逃がさない。




