第7章 王位継承者争い-4
アルヴェオン王国歴一四〇年、夏の盛り。
夜更けのサンクタス城の一室には、緊張感が漂っていた。
窓の外では、夏の夜風が遠くの森を揺らしている。だが、部屋の中の空気はむしろ、暑苦しく湿っていた。燃えるような暑さ——それはまるで、第一王子イグニス・アルヴェオンの炎を思い出させるようだった。
「北方フロステンは……しばらくこちらに手を出せないでしょう。」
ヴァルターは、蝋燭の火が揺れる中、指で地図をなぞった。
「東方エルヴァインの海軍が蒸気船とレーダーを開発していることを大々的に宣伝しました。少し頭の回る風魔法使いであれば、容易には動かないでしょう。」
カイオスが頷く。
「我々は石炭を十分に確保しています。石炭と火魔法を併用した蒸気機関の実用化が進めば、風に頼る必要はない。ただ、まだ実用化には今しばらくかかりそうです。」
部屋の片隅では、壁にかけられた大きな魔法灯が、じりじりと熱を発していた。暑さがさらに部屋の空気を重くする。
「となると、次は……」
ルクスが静かに口を開くと、会議室の空気が一層張り詰めた。
「イグニス兄上だ。」
その名が発せられた途端、夏の夜の熱気が、より密度を増したように感じられた。
カイオスが険しい表情を見せる。
「我々の海軍であれば、ラディアス領と火魔法使いたちを叩くのは容易です。貴族たちや背後のロマス帝国も、ルクス兄上もまた王妃の子であることを利用してうまく立ち回れば、交渉の余地はある。しかし……イグニス兄上は、たとえラディアス軍が負けようとも決して我々に従おうとはしないでしょう。」
ヴァルターは静かに頷いた。
「カイオス殿下の仰る通りです。」
イグニス・アルヴェオン——アルヴェオン王国の第一王子。
アルヴェオン王国最強と謳われる炎魔法の使い手。
炎のように激しく、己の武力こそが王の証明であると信じて疑わない男。
(ならば——)
「……ルクス王子殿下。」
ヴァルターは、長い沈黙を破るようにゆっくりと口を開いた。
「イグニス王子を、”力で”ねじ伏せていただけますか。」
ルクスは、その琥珀色の瞳でヴァルターを見据えた。
「俺が……兄上と直接戦うのか。」
「そうです。それしか、彼を納得させる手段はありません。」
窓の外では、遠く雷鳴が響いた。
湿った空気に、嵐の前の気配が満ちる。
その雷光が、一瞬だけルクスの瞳に映り込んだ。
*
俺——イグニス・アルヴェオンの炎は、全てを焼き尽くす。
弱者、愚者、敵——そのすべてを灰に変える。
この国に生まれた者ならば知っている。アルヴェオン王国の王位は、炎と共にあった。
そして、俺こそが、次の炎を象徴する者。
「最強である者こそ、王にふさわしい。」
それは、幼い頃から周りに教え込まれた真理だった。
だから、俺はその言葉を疑ったことがない。
俺は、この国の誰よりも強い。
この国の王になるのは、俺以外にありえない。
——なのに。
俺の双子の弟が、王位に手を挙げたと聞いた。
光属性の王子、ルクス。
幼い頃に病弱だったせいで、療養という名目でどこかに隠されていた男。
光魔法? そんなもの、一体何の役に立つ?
炎のように燃やすことも、水のように流し去ることもできない、ただの飾りにすぎない。それなのに王位を望むなど、愚の骨頂だ。
「……弟君が帰ってきたそうですね。」
目の前で、侍女のミレイユが紅茶を注ぐ。
美しい女だ。だが、他の女のように俺に媚びず、控えめだが芯のある物言いで、俺が何か間違ったことをすれば叱る、まるで家庭教師だった。遠ざけようと思うこともあったが、なぜかそれができず、今もこうして側においているのだった。
俺は紅茶の湯気を払うように大袈裟に手を振る。
「弟? ああ、そんなものがいたな。」
「そんなもの、ですか?」
ミレイユは落ち着いた口調で言った。
俺がどんな態度をとっても、彼女は変わらない。
「......殿下の中では、弟君は取るに足らない存在なのですね。」
「当然だ。弱い奴をどうして気に掛ける必要がある?」
「……イグニス殿下。」
ミレイユは、俺の視線を避けずにじっと見つめてくる。
「本当に、あなたはそれでいいのですか?」
「どういう意味だ?」
「力とは、剣や魔法の強さだけではありません。」
「またその話か。」
俺は苛立たしげに腕を組んだ。
「お前は昔から、俺に”世界を学べ”だの”他者を知れ”だの言っていたな。」
「ええ。」
「必要ない。最強の力があれば、誰も俺に刃向かえない。」
ミレイユはため息をついた。
「……あなたはまだ、“負けた先にあるもの”を知らないのです。」
「ふざけるな。」
俺が負ける?
そんなもの、あり得ない。
ミレイユはそれ以上は何も言わなかった。
*
夏の太陽が、焼けつくように地面を照らしていた。
風はほとんどなく、空気は熱を含んで重たい。
中庭の石畳も、陽炎が揺らめくほどに熱せられている。
そんな中庭の中心に、俺ーーイグニス・アルヴェオンはぼうっと立っていた。俺は、この季節をこうして肌で感じるのが好きだったのだ。
「初めまして、兄上。」
突然かけられたその声に、俺は振り返る。
陽射しを浴びながら、ゆっくりと歩み寄ってくる金髪の青年。
俺と同じ顔を持つ、だが決して俺とは似ていない——双子の弟。
ルクス・アルヴェオン。
彼の琥珀色の瞳が、燃え盛る俺の赤い目を静かに映している。
まるで、俺の炎すら吸収するような冷たい輝きで。
「……なんだ?」
俺が低く問いかけると、ルクスはにやりと笑った。
その笑みが、無性に腹立たしい。
「殿下の軍では、私とカイオスの軍に勝てません。王位を諦めていただけませんか?」
——その瞬間、俺の眉がピクリと動く。
「……何だと?」
「殿下の軍も確かにお強い。ですが、海ではどうでしょう。」
ルクスは軽く肩をすくめる。まるで俺をからかうように。
俺は思わず息を呑んだ。
こいつ……本気で俺を挑発しに来たのか?
「領軍の勝敗は関係ない。」
俺は奴を睨みつける。
「俺が一番強いのだから、それが全てだ。」
「へえ。……でしたら、私との一対一での決闘はいかがですか?」
ルクスの目が、鋭く細められた。
「魔道具なしで、実力のみで。」
中庭の空気が、一瞬凍りついた。
熱を持つ風さえ、今だけは吹き抜けるのを忘れたかのように。
「戦って負けた方は、継承者争いから降りることにいたしましょう。」
……は?
俺は数秒、言葉の意味を理解できなかった。
だが——
「ふっ……はははははっ!!!」
思わず、大声で笑った。
この王宮で、こんな馬鹿げたことを言う奴がいるとは。
「お前が、俺に勝てるとでも?」
「わかりません。試してみたいのです。」
ルクスの態度は、一切揺らがない。
俺の笑いが、徐々に収まっていく。
そして——俺はゆっくりと拳を握りしめた。
「……いいだろう。乗ってやる。」
周りの側近たちがざわめくが、どうでもいい。
俺が勝つのだから。
こうして、俺とルクスの戦いが決まった。
(くだらん。俺が負けるはずがない。)
そう、俺は信じて疑わなかった。
*
夏の空が燃えているようだった。
真上から照りつける太陽が、決闘場の白い石畳を灼き、熱気が揺らめく。
息を吸うだけで肺が熱くなり、肌に纏わりつく汗が止まらない。
(だが、俺の炎に比べれば、これくらいの暑さは涼しいもんだ。)
対峙する弟、ルクス・アルヴェオン。
王に捨てられたはずの弟が、今こうして俺の前に立っている。
「始め!」
審判の声が響く。
次の瞬間——
「焼き尽くせ!!」
俺は、決闘場全域を覆い尽くす業火を解き放った。
轟音とともに巻き上がる灼熱の炎柱。
大地が裂けるような爆音が響き、空すら赤く染め上げる。
(呆気ない。いつも通り、これで終わりだ。)
炎の壁が辺りを包み込み、決闘場は燃え盛る地獄と化した。
どこへ逃げようが無駄。
光魔法ごときで、この熱量をどうにかできるはずがない。
だが——
炎が晴れた時、そこにいたのは。
「……何?」
無傷のルクス。
「どうして……?」
焦げ跡一つない立ち姿。
衣服すら燃えていない。
「あなたの炎は確かに強力です、兄上。」
ルクスが冷ややかに笑う。
「ですが、熱は結局のところ分子の運動エネルギー。俺はそれを光子に与えて、赤外線として場外へと放出しました。」
俺の背筋に冷たい戦慄が走る。
——あいつは何を言っている?
「では、次はこちらの番ですね。」
瞬間、閃光が一条走る。
バチンッ!!
手にしていた杖が砕けた。
「——っ!!?」
反射的に剣を抜く——
が、それも次の瞬間には柄の部分から真っ二つに断たれた。
「なっ……!」
ルクスの指先に収束する光。
——光でできた刃物?
「光魔法は、ただ眩しいだけではありませんよ。」
俺は、初めて理解した。
——こいつは、本気で俺を倒しにきたのだ。
「クソが……!」
怒りが込み上げる。
(だったら、全力で叩き潰すまで!)
両手に炎の槍を生み出し、一気に投げ放つ!
「これでどうだ!!!」
炎の槍が決闘場を埋め尽くし、避け場はないはず——
だが。
「——消えろ。」
ルクスがわずかに手を振る。
ルクスを囲う俺の炎が、消えた。
「なに……!?」
俺の炎が、赤外線の帯となって、場外へと逃げていく。
「俺が熱を制御する限り、兄上の炎は俺には届きません。」
ふざけるな。
(俺の炎が、こんな光の小細工に負けるものか!)
次の瞬間、光が俺の頬をかすめた。
「ぐっ……!」
焼けるような熱が、皮膚を焦がす。
「……まだやりますか?」
ルクスが淡々と言う。
俺は歯を食いしばる。
(降伏なんて、するはずがない。)
「……なら、少し“調整”を加えます。」
ルクスが指を動かした瞬間——
視界が、闇に包まれた。
「っ……なに、を……!?」
光が消えたわけじゃない。
見えているのに、見えない。
俺の目に届く可視光が、すべて赤外線に変えられている。
(クソッ、何も見えねえ!!)
さらに——
「……感じますか?」
何かが、俺の身体をじわじわと温め始める。
(俺の炎じゃない……?)
外部から、俺の身体だけを温める赤外線。
まるで獲物をじわじわと弱らせるかのように。
「もう、やめておいたほうがいいのでは?」
ルクスの声が、どこからか聞こえる。
(クソッ……どこだ!!)
見えない。
(このままじゃ……!)
俺は、魔力を振り絞って、全方向に向けて炎を放つ。
「うおおおおお!!!」
だが——
「おわりですか?」
冷静なルクスの声に、膝が、崩れる。
決闘場の静寂の中、ただ俺の息だけが響く。
「……これが、俺の光魔法です。」
ルクスが、静かに言った。
俺は、歯を食いしばる。
——完全に、無力だった。
「負けを......認める」
*
サンクタス城の南翼、白亜の回廊を進みながら、ヴァルターはわずかに息を吐いた。
(まさか、あそこまでの完封になるとは思わなかった。一体、幾つの隠し球を持っているのか......)
イグニスとの戦闘をことも投げに終えたルクスは隣を歩いているが、彼の表情は硬い。
(しかし、次の工程もまた、問題だ......)
決闘でイグニスを下した。次はロマス帝国の血をひく当事者である王妃の支持を取り付けなければならない——そうすればオルディス領はルクスに従わざるを得ない。そのために二人は、王妃の待つ部屋に向かっていた。
これは政治的な交渉である。そのはずだ。
だが、ルクスにとっては、それ以上の意味を持つだろう。
——「産みの母」との再会。自我が芽生えてから、初めての接触になるという。
ヴァルターはちらりとルクスの横顔を盗み見る。
彼の瞳は何も読み取らせないように、琥珀色に冷えていた。
(さて……これが、どんな結末を迎えるか。)
そう考えているうちに、その扉が開かれる。
*
夜の王宮は、昼間の熱を孕んでなお、重く沈黙していた。
開け放たれた窓からは、生ぬるい風が入り込み、薄く揺れる白いカーテンを通して、夜の微光が広間を照らす。
夜更けとはいえ、暑さはひかず、空気は湿り気を帯び、花の香りすらも重たく感じる。
ルクスは、ゆっくりと広間に足を踏み入れた。
大きな窓辺——そこに佇む女の姿があった。
王妃アリアーネ。
金色の髪を夜風に揺らしながら、彼女はそっと振り返る。
美しかったはずのその横顔には、深い疲労の色が刻まれていた。
彼女は、静かに目を伏せると、ゆっくりと膝を折り、優雅に頭を垂れた。
「ルクス王子殿下……。」
その声は、静かでありながら、どこか力を失っていた。
「イグニスが敗れた今……南部は……ルクス王子殿下を支持することをお約束いたします。」
ルクスは表情を変えずに、じっと王妃を見下ろした。
「イグニスは、遠方で十分な監視のもと、療養させることにいたします。」
続けられた王妃の言葉に、ルクスは目を細める。
「どうぞ、お許しを。」
「それは、イグニスの命乞いをしているのか。」
発されたルクスの声は冷たい。
「俺はイグニスを殺すつもりはない。それとも......用無しになったから、俺のように捨てるということか。」
王妃の肩が、わずかに揺れた。
それでも彼女は顔を上げず、静かに言葉を紡ぐ。
「ルクス王子殿下……大変申し訳ございません。」
「このような形で敗れ、顔に傷を負ったイグニスを、不名誉であると殺そうとする南部の貴族もいるのです。」
「このような形で遠ざけることでしか、守ることができません……かつてのあなたのように。」
ルクスの胸の奥で、何かが軋んだ。
彼女の声は淡々としていた。まるで、当たり前のことを話すかのように。
(かつての俺のように——?)
目の前の王妃は、俺を捨てた女だった。そう思っていた。
それなのに、今になってそんな言葉を口にするのか?
ルクスは、感傷を振り払うように深く息をつく。
「……王妃殿下を代表として南部の支持を受け入れる。イグニスの療養も認めよう」
王妃は再び頭を垂れた。
「ご温情に感謝いたします。」
ルクスは、無言で王妃の横を通り過ぎる。
窓の外に広がる宮廷庭園の池が、月光を映して揺れている。
——貴族たちに振り回される王族。
この女も、その息子も、結局は貴族たちの道具なのか。
(……俺も、やがてそうなるのだろうか。)
湿った夜風が、ルクスの外套を揺らした。
*
西の空が茜色に染まり、遠くで夏の虫が最後の鳴き声を響かせる。
夏の終わりを告げる涼やかな風が、静かに吹き抜けていった。
「……ここが、イグニス殿下の新しいお住まいです。」
侍従長の冷淡な声が響く。
扉が開かれると、広がるのは石造りの静かな部屋。
王宮中心の喧騒から遠ざけられた、まるで時間の止まったような場所だった。
イグニスは無言のまま、足を踏み入れる。
背後で、扉が重々しく閉まる音が響いた。
「療養」という名目での幽閉。
「戦いに敗れ、顔に火傷を負った第一王子」に、王都を歩く自由などなかった。
ふっと、乾いた笑いが漏れる。
「……負けたやつに、相応しい場所ってわけか。」
「そう思いますか?」
静かな声が、部屋に満ちた夕闇の中に響いた。
イグニスは驚いて振り向いた。
そこにはミレイユが立っていた。
「……お前、なんでここにいる。」
「当然です。あなたが行く場所なら、私もついていきます。」
彼女は、淡々と言った。
イグニスは苦笑する。
「……俺はもう、“王”にはなれないぞ。」
「ええ、知っています。」
「なら、俺についてくる意味なんか——」
「——あなたが、”イグニス様”である限り。」
ミレイユの瞳は、揺るぎなく彼を映していた。
「私は、あなたを見捨てません。」
一瞬だけ、イグニスの喉が詰まる。
胸の奥で、得体の知れない感情が軋んだ。
(こいつ……本当に、変わらないな。)
「……馬鹿だな。」
「ええ。よく言われます。」
イグニスは、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと沈んでいく。
「……戦うことしか知らなかった。“最強”であれば、それでいいと思ってた。」
「でも……すべて、失った。俺を褒めそやしていた奴らは、みんな去っていった。」
燃え尽きたような目で、彼は天井を仰ぐ。
「お前は……俺を、見捨てないのか?」
「見捨てません。殿下に教えてあげないといけないことが、まだまだありそうですから。」
ミレイユは、穏やかに微笑む。
イグニスは小さく息を吐いた。
「……バカが。」
その顔には、ほんのわずかに、穏やかなものが宿っていた。
遠くで虫の声が途切れ、夏の夕暮れが静かに包み込んでいった。




