第7章 王位継承者争い-3
アルヴェオン歴一四〇年、春。
ヴァルター・カイムは、サンクタス城の数ある応接室の一つ、「海の間」にルクスと共に入る前に、一度深く息を吐いた。
(さて、どう出る?)
宰相として数多くの交渉の場を経験してきたが、今日は特に慎重に立ち回るべき場だった。
第三王子・カイオス・アルヴェオン。
東部エルヴァイン領を統べる"海の魔女"ヴァレリア・エル・ノクスと王との息子。
十四歳にして水魔法を極め、東の海軍都市セリオスで育った王子。
サンクタス城にはほとんど顔を見せず、母の庇護のもと育った彼が、ルクスが正式に王位継承権のある王子として発表されると、突如ルクスとの会談を求めてきた。
それが何を意味するのか。
しかし、こちらとしてもカイオス王子との接触は、願ったり叶ったりである。カイオス一派にとって喉から手が出るほど欲しい技術を、こちらは有し、取引を持ち掛ける機会を手ぐすね引いて待っていたのだから。
ヴァルターは、自身の手元にある梟を象ったペンを軽くなで、慎重に思考を巡らせた。
*
扉を開けると、まず目に入ったのは、燃えるような赤い髪、珊瑚の海のような翠の瞳。
どことなくルクスに似ている少年——それが第一印象だった。
カイオスは椅子に深く腰掛け、静かにこちらを見つめている。その隣には、海軍の老獪な参謀、シグリッド・トレヴィス提督が控えていた。
(これは、簡単には話を進められなさそうだ。)
ヴァルターは、冷静に席につき、ルクスもまた表情を変えずにカイオスを見据える。
「おは......にお......にかかります、あ......上。」
カイオスの唇が、わずかに動いた。
だが、その声はほとんど聞こえなかった。
——掠れたような、息の混ざった、か細い声。
まるで喉が塞がれているかのような声音だった。
*
「ルクス王子殿下、こうして初めてお会いできたことを光栄に存じます。」
トレヴィス提督が、表面上は穏やかに微笑みながら言った。
「殿下は光属性だとか!いやいや私、浅学でして……光魔法というものは、戦場では一体どのように役立つものなのでしょう?」
その声には、光魔法に対する侮りがどうしようもなく乗せられていた。
「光は敵のすべてを照らし出す。」
ルクスは、無表情で答えた。
「ですが、敵を沈める力にはなりませんな。」
トレヴィスが皮肉げに笑う。
「そして、軍事の世界では、目に見えぬものこそが脅威。霧の中、影の中、そして水の底……。さて、“光”などというものが何の役に立つというのです?」
「……光は、霧の向こう側を照らすことができる。」
「霧の向こう側?」
トレヴィスが眉をひそめる。
「そう。波長を調整した光の反射を使えば、敵の位置を特定することが可能になる。」
トレヴィスは、呆れたように笑った。
「ははは、そんな夢物語、聞いたこともありませんな!いやはや、どんな物語に出てくるのか、お教えいただいても?」
(交渉の余地なしか……。せっかくの準備も、今回は無駄になるか)
ヴァルターは、静かにペンを指で転がしながら、会話を見守った。
その時——侍女が新しい紅茶を運んできた。
トレヴィスは無造作にカップを手に取り、口をつける。
ルクスもまた、ゆっくりと手を伸ばした。
だが——
その瞬間。
奥に座るカイオスの瞳が、大きく見開かれた。
わずかに震える指先。
そして、ほとんど聞こえない掠れた声で、微かに唇が動いた。
「——。」
彼の視線がルクスへと向けられ、わずかに首を横に振った。提督は、その様子に気付かない。
ヴァルターは、即座にその意味を理解した。
(毒か。)
ルクスは、何事もなかったように紅茶を持ち上げ——
そのままテーブルの上に戻した。
その瞬間、カイオスの表情に安堵の色が浮かぶ。
ヴァルターは、その様子を静かに見届けながら、心の中でひとつの結論を出した。
(カイオス王子本人には……付け入る隙がある。)
*
「では、本日はここまでといたしましょう。」
日が傾き始める時限、ヴァルターが締めくくると、トレヴィスは表面上は満足そうに微笑んだ。
「殿下とお話できたことは大変有意義でした。今後の関係に期待しております。」
(よく言う。)
ヴァルターは内心で皮肉げに思いながら、立ち上がった。
ルクスとカイオスが握手を交わす。
その時——
カイオスが、ルクスの手に小さな紙片を忍ばせた。
たった一瞬の出来事だったが、ヴァルターの視線はそれを見逃さない。
ルクスが手を引くと同時に、カイオスは何もなかったように微笑む。
「また、お会いしましょう。」
ヴァルターは、そう言いながらルクスがそっとポケットにメモを滑り込ませるのを確認した。
(……なるほど。)
最初の交渉は表面上、決裂した。
だが、本当の話し合いはこれからのようだ。
*
城の窓越しに、細く冷たい風が吹き込んだ。
まだ冬の名残を感じさせる夜。だが、遠くの庭園からは、春の花の香りが微かに漂ってくる。
月の光が、長く伸びた影を廊下に落としていた。
その影の中に、第三王子カイオス・アルヴェオンは静かに立っていた。
彼は一度、小さく息を吸い込むと、扉にそっと手をかけた。
ギィ……
軋む音が、静寂の中に響く。
部屋の中は薄暗く、窓から差し込む月光が、長く伸びた影をテーブルに落としていた。
重厚な椅子に腰掛けていたのは、異母兄——ルクス・アルヴェオン。
その傍らには、宰相ヴァルター・カイムが控えていた。
カイオスは、わずかに視線を落とし、一礼する。
「……提督が……申し……あり……んでした。」
喉に絡みつくような違和感。
言葉を発するたびに、声帯が押し潰されるような感覚がつきまとう。
掠れ、擦れた声は、まるで霧のように薄く消えてしまいそうだった。
ルクスは、静かに首を振る。
「気にしていない。」
それだけ言うと、懐から一本の羽根ペンと羊皮紙を取り出し、そっと差し出した。
カイオスは、一瞬だけ驚いたように目を見開く。
ルクスは、ゆっくりと目を細め、静かに頷いた。
廊下の外で、春風がわずかに揺れた。
*
カイオスは、ゆっくりと、だが確実に言葉を綴った。
——“海軍は王位を求め、争う兄弟に毒を盛っています。”
——“私は、それに反対したため、王都に行く際に母によって声を奪われました。”
——“他の兄弟たちは、毒を警戒しており対策がありますが”
——“孤立しているルクス兄上は危険です。”
書き終えたカイオスは、紙を静かにテーブルに滑らせた。
ルクスは、それを無言で読み、しばらく沈黙した。
「……それで?」
ルクスは、紙から視線を上げ、じっとカイオスを見た。
「俺に、危険だから王位争いから降りろと?」
カイオスは、ゆっくりと頷く。
だが——
「それは無理な相談だ。」
ルクスの声は、ひどく静かだった。
*
「カイオス。お前自身の目的は何だ?」
ルクスは、指先で軽くテーブルを叩いた。
「王位が欲しい?それとも……エルヴァイン領の......海軍の力になりたい?」
カイオスは、目を見開いた。
(——何を言おうとしている?)
ルクスは、カイオスに向かって語りかけた。
「海軍の増強がしたいのであれば、俺への支持と引き換えに『レーダー技術』と『蒸気船の構想』を提供してやる。……霧と闇を見通し、風を必要としない船の技術だ。」
カイオスは、思わずルクスを見つめ、言われた言葉を反芻した。
(レーダー技術……? 蒸気船……とは?)
——“そんな技術が存在すると、証拠を示すことができますか?”
カイオスが筆を走らせると、ルクスは微かに笑い、椅子から立ち上がった。
「言葉だけでは納得できないのは当然だ。ついてこい。」
そう言うと、ルクスは静かに立ち上がり、夜の王宮の中庭へと歩き出した。
カイオスは訝しみながらも、それに従う。
*
夜空には雲一つなく、満月の光が石畳を優しく照らしている。
王宮の中庭には、かつて王族が遊ぶために造られた池がある。
今では誰も使うことなく、静かに水をたたえているだけだった。
今夜は風もなく、水面は鏡のように澄み切っていた。
ルクスは池の端に立つと、黒い布に包まれた何かを取り出し、ゆっくりと布を剥がす。
そこに現れたのは、手のひらから少しはみ出す程度の小さな船の模型だった。
だが、それはただの玩具ではなかった。帆も櫂もないその船には、魔導の細工が施されていた。
「……こん……小さ……のが......?」
カイオスはまだ信じられないというような疑いの眼差しを向ける。
ルクスは無言で、船を池に浮かべると、側面に刻まれた魔法陣を指でなぞった。
次の瞬間、船が静かに動き出す。
スチームの音がかすかに響き、船の後方から白い蒸気が立ち昇った。
そして、帆もないのに、船はゆっくりと水面を進んでいく。
「これは、光魔法を利用したレーダーを搭載した小型蒸気船だ。」
ルクスの声が、静かな夜気の中に響く。
「火魔法によるエンジンで駆動し、光魔法で闇や霧の中でも障害物を察知する。これが量産できれば、お前たちの艦隊は霧の海でも自由に動けるようになる。」
カイオスは無言で水面を見つめていた。
船はゆっくりと池の中央まで進んで止まると、前方にかすかな光の波が広がった。
水面に映る月の光がわずかに揺らぎ、そこに何かの輪郭が映し出される。
この池を縁取る複雑な辺縁の地図——闇の中では見えないはずのものが、船の魔法によって鮮明に浮かび上がり、船の移動に伴ってリアルタイムに更新していく。
(……これが、霧と闇の向こう側を見る力……。)
カイオスは息を呑んだ。
これが実用化されれば、海軍は霧に阻まれることなく、自由に航行できる。
敵の動きを先んじて察知し、奇襲を防ぎ、確実な制海権を手に入れることができる。
これは、軍事の歴史を変える技術だった。
*
実証を終え、三人は再び会談の部屋に戻る。
カイオスは席につくやいなや、震える手でペンを取り、羊皮紙に素早く書き込んだ。
——“この技術は、海軍の在り方を変える価値がある。”
——“母の意向を聞いてみようと思う。”
——“そのために、兄上はどうして王座を欲するかを聞きたい”
ルクスは、淡く微笑んだ。
「俺の目的は、教団を倒すことだ。」
「そのためには、王になる必要がある。」
カイオスは、筆を止めた。
ルクスの言葉には、一点の迷いもなかった。
その迷いのなさに、憧れと......同時に恐ろしさを感じる。
*
「母に聞きたい、か.....。」
ルクスは、少し声を低くした。
「お前は俺とは真逆だな。ずっと母親に支配されて生きてきたんだろう。」
カイオスの指先が、わずかに震えた。
「声を奪われ、道具にされ、今も何かの言い訳と逃げ道を探しているな?」
ルクスの目は、まっすぐにカイオスを射抜いていた。
「……奪われたままにするのはやめろ。」
「自分で学び、考え、行動して掴み取るんだ。」
カイオスは、何も言えなかった。
だが、胸の奥で、何かが疼くのを感じた。
母の判断に従うしかないと思っていた。
自分は傀儡でいいのだと思っていた。
でも——
(本当に、そうなのか?)
カイオスは、震える手で次の言葉を書き込んだ。
——”母と、交渉させてくれ。交渉材料が欲しい。”
*
エルヴァイン領都セリオスは、春爛漫を迎えていた。
波が岸壁に砕け、潮騒が遠く響く。
海風はまだ少し冷たいが、街路には桜の花びらが舞い、薄桃色の絨毯を描いていた。
カイオスは、ゆっくりと宮殿の階段を上っていった。
城壁の上では、水魔法を操る兵士たちが鋭い視線を向けてくる。
警戒されているわけではない。ただ、そこにあるのは「庇護された王子」への監視の目。
(まだ、僕は”子供”のままか。)
この都市では、彼は海軍の実権を持たない名ばかりの王子に過ぎなかった。
母——ヴァレリアがすべてを統治するこの地で、彼はただ守られるだけの存在。
だが——
(僕は、変わっていきたい。)
潮風に舞う桜の花びらが、彼の足元にひらりと落ちた。
カイオスは懐にしまった文書をそっと握る。
ルクスの提案が書かれた紙。
彼は、女王の部屋の前に立ち、静かに深呼吸を一つ。
潮の香りが肺を満たす。
そして、決意とともに扉を押し開いた。
*
浅瀬の海の中を再現したような、青い光のゆらめく部屋の奥。窓辺に立つ、一人の女性がいた。
ヴァレリア・エル・ノクス。
海軍を統率し、この国の海を支配する女。
王と子供をもうけた後も、エルヴァイン領と海軍を支配し続ける女傑。
波のようにうねる豊かな赤い髪を長く束ね、息子と同じ珊瑚の海のような翠の瞳を持つ。
彼女は微動だにせず、その瞳で静かにカイオスを見つめた。
「……王都から帰って来たのね。」
掠れた、女性にしては低い声が青い部屋に反響する。まるで、海の洞窟の中に二人で閉じ込められているようだ。
カイオスは無意識に背筋を伸ばした。
母の前では、いつも体がこわばる。
(母は、僕の何を見ているのだろう?)
いつものように、都合のいい”操り人形”として見ているのか。
それとも——
彼は、何も言わずに懐から文書を取り出し、机の上に置いた。
ヴァレリアは、一瞥し、書類を開く。
——「光魔法による遠方の索敵技術」
——「帆と櫂を使用しない大型船の構想」
その瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。
(釣れた……!)
カイオスは、そっとペンを取り、羊皮紙に書きつけた。
——“光魔法を利用したレーダーがあれば、北方の複雑な地形を把握できる。”
——“蒸気船の導入により、風に頼らず航行が可能になり、風魔法使いから制海権を確立できる。”
ヴァレリアは、しばらく無言で羊皮紙を見つめた。
あまりに長い沈黙に耐えきれず、カイオスの手が、わずかに震え始めた頃。
彼女は紙から目を離し、目を細めてゆっくりとカイオスを見つめて言った。
「……お前が、これを考えたの?」
カイオスは、小さく首を横に振った。
そして、羊皮紙にさらさらと記す。
——“ルクス王子派の技術です。我々が彼らにつけば、提供される予定です。僕は、これに乗るべきだと思う。”
——“試作を預かっています。どうかご覧になっていただけませんか?"
ヴァレリアは、カイオスが差し出した羊皮紙を指でなぞる。
風に舞う紙の端が、春の潮風を受けてわずかに揺れた。
「……試作、ね。昨日から港で話題になっているアレのことね。」
ゆっくりと立ち上がると、ヴァレリアはカイオスを一瞥し、手を振った。
「案内しなさい。」
カイオスは息を整え、静かに頷いた。
執務室を出ると、春の陽光が穏やかに降り注ぐ港の街が広がっていた。
白い帆を張った交易船が並ぶ中、中型ながら、一隻だけ異彩を放つ船が停泊している。
それは、従来の帆船とはまるで異なる姿だった。
帆の代わりに、甲板の中央には大きな煙突がそびえ立ち、黒い煙がゆっくりと立ち昇っている。
船尾には、魔法陣の刻まれた巨大な金属製の円盤——蒸気機関の動力を受けて回転する推進装置が据えられていた。
ヴァレリアは足を止め、眉をひそめた。
「本当に……帆がない。」
カイオスは無言で先に進み、タラップを渡って甲板へと上がる。
ヴァレリアもため息をつきながら、その後に続いた。
カイオスの合図で蒸気機関が動き出すと、低く響く振動が船全体に伝わる。
ゆっくりと舵を取ると、従来の帆船よりもはるかに滑らかに港を離れ、海の上を進み始めた。
「……本当に、風を待たずに動くのね。」
ヴァレリアは腕を組み、波の上を走る船を見渡す。
帆の代わりに、魔石を使った蒸気機関が動力となり、推進力を生み出している。
カイオスは静かに指を動かし、羊皮紙に書き込んだ。
——“これが、ルクス王子派が開発した蒸気機関、それを搭載した船です。”
——“さらに、霧や闇の海でも正確に敵の位置を探る技術も実装されています。”
そう記してから、カイオスは操舵室に向かった。そこにあったのは、光魔法を利用したレーダー装置だった。
カイオスが装置の電源をつけると、魔道具の表面に淡い光の波が広がり、周囲の地形や障害物が視覚的に映し出される。
ヴァレリアはそれをじっと見つめた。
「……霧の向こう側まで見える、ということ?」
カイオスは頷き、さらに羊皮紙に記す。
——“視界がゼロでも、陸地、もしくは敵の艦隊を捕捉できます。”
ヴァレリアは、しばらく無言でそれを眺めていた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……これは、海軍の歴史を変えるわ。」
カイオスはまっすぐに彼女を見つめ、筆を走らせる。
——“兄上は、この技術と引き換えに、我々を味方につけようとしています。”
——“僕にとっては、この技術は王位より価値があると思う。”
ヴァレリアは目を細め、再びレーダーの光を見つめた。
遠く、水平線の向こうに浮かぶ交易船の影が、波の干渉を受けることなく、はっきりと映し出されている。
それは、確かに”未来の戦術”だった。
ヴァレリアの指が、船上で潮風になびく用羊紙をなぞる。
甲板上に沈黙が流れる。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……お前が私と交渉するなんてね。」
ヴァレリアは、軽く目を細めた。
「寝言を言っている赤ん坊かと思っていたのに......」
カイオスは、驚いたように母を見た。
(“赤ん坊”……?)
彼女は、ふっと笑う。
「そう、ずっと、お前は”私の掌の真珠”だった。」
「私の作った殻の中で、期待に応えるように学び、何も疑わずに生きてきたと思ってた。」
「でも——」
彼女はゆっくりと立ち上がり、カイオスの頬に手を伸ばす。
「……こんな顔をするようになったのね。」
(“こんな顔”?)
カイオスは、無意識に母の翠の瞳を覗き込む。
その中に映っていたのは——
幼い頃の”従順な息子”ではなく、“意思を持つ一人の王子”。
「いいわ。」
ヴァレリアは、静かに言った。
「お前に、我々の未来を託す。王にならなくとも、我が領を高みに導いて見せなさい」
「そのために——お前の声を、返すわ。」
ヴァレリアは、カイオスの喉元に指を滑らせた。
彼は、一瞬、体を強張らせる。
しかしーー予想に反して、温かな魔力がふわりと喉を包んだ。
「……っ!」
喉の奥から、何かが解き放たれるような感覚。
カイオスは、思わず唇を開く。
「……」
彼は、試すように声を出そうとした。
「……あ……」
かすれながらも——確かに、音が出た。
(声……僕の声だ。)
ヴァレリアは、それを見て、静かに微笑んだ。
「ルクス王子のもとに、行きなさい。」
「私は、お前の”決断”を信じるわ。」
カイオスは、震える喉で、言葉を発した。
「……ありがとう、母上。」
*
春の王都ミナス。
街を包む穏やかな風が、木々の若葉をそっと揺らしていた。
陽射しは柔らかく、石畳の道に映る影はまだ淡い。
カイオスは、サンクタス城の正門をくぐり、ゆっくりと歩みを進めた。
王都を取り囲むようにそびえる城壁の向こうでは、市場の賑わいが微かに聞こえる。
しかし、彼の心は決して穏やかではなかった。
歩みを止めることなく、まっすぐに向かったのは、かつては閉ざされていた一室。
ルクスの執務室。
扉の前で一度深く息を吸い込み、ノックをする。
「入れ。」
扉を押し開けると、そこには見慣れた宰相ヴァルター。
そして、重厚な椅子に深く腰掛ける金髪の青年——ルクス・アルヴェオンがいた。
琥珀色の瞳は冷静に、そして静かに彼を見据えている。
ルクスが静かに口を開いた。
「帰って来たか、カイオス。」
春の風が窓から流れ込み、白いカーテンを揺らした。
カイオスは軽く息を整え、喉を鳴らす。
「——はい。」
ヴァルターが驚いたように目を見開く。
「……おや?」
ルクスも、僅かに目を細めた。
「声を取り戻したのか。」
カイオスは、迷いなく頷く。
「母上が……僕に任せると。」
ルクスは目を伏せ、一瞬、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「そうか。」
カイオスは、静かに歩み寄り、ルクスの前で片膝をついた。
「あの技術と引き換えに、僕の派閥は、兄上の元に下ります。」
そう言ったあと、一瞬だけ間を置き、彼は顔を上げる。
琥珀色の瞳を真っ直ぐに見据え、鋭く告げる。
「ですが——兄上が、本当にこの国の王座に相応しいのか。それは、僕が側で見極めます。」
ルクスは、一瞬目を閉じ、そして、ふっと微笑んだ。
「……いいだろう。その目で、確かめるといい。」
窓の外では、春の風がすみれの花びらを舞い上げ、遠くの空へと運んでいった。




