第7章 王位継承者争い-2
ヴァルターの執務室には、重厚な木製の机を囲むようにヴァルターと側近たちが座している。その中央で、ルクスは静かにコースターほどの大きさの紙片を取り出した。
「見せた方が早い。これを見ろ。」
彼が差し出した紙片には、極めて精緻な魔法陣が描かれていた。ヴァルターは一瞥した瞬間、思わず息を呑む。
「……なんと精緻な魔法陣......。この大きさで、これほど複雑な構造のものは見たことがありません。」
ヴァルターの言葉に、ルクスは無言のまま顎を引き、机の上に紙片を置いた。
「これは、俺と師匠が開発した、光魔法リソグラフィ技術、それによって可能になった超小型魔法陣だ。これがすべての技術の基盤となる。」
彼の指が魔法陣をなぞる。その動きは慎重で、まるで過去の研究の日々を思い返しているかのようだった。
「レーダーと蒸気機関については、すでに簡単な試作を森の家で済ませている。だが、エルヴァインを納得させるためには、大規模な試作が必要だ。宰相殿、その予算と設備をなんとかできるか。」
ルクスの問いに、ヴァルターは腕を組み、しばし沈黙した後、静かに口を開く。
「……そういうことでしたら、エルヴァインとの取引よりも前に、取り込んでおきたいところがあります。」
「どこだ?」とルクスが問いかける。
「王立工学研究院。今のところ中立の、土魔法使いの派閥です。」
その名を聞き、側近の一人が小さく頷く。王立工学研究院は、王国の治水や都市計画を担う要であり、その影響力は計り知れない。
「彼らを味方につけることができれば、研究を具体化するための拠点を得るだけでなく、即位後の都市の発展にも大きく貢献する。彼らの支持を確保できるかどうかは、王位継承後の政権運営にも直結する問題です。今のところ、彼らはどの派閥にも属さず、様子見を決め込んでいる。」
ヴァルターは慎重な口調で続ける。
「なんとか彼らの協力を取り付けたい。」
ルクスは眉をひそめた。「取りまとめているのは誰だ?」
ヴァルターは少し間を置き、懐かしげな口調で言った。
「……ガイゼル・ロートレック。非常に変わった男です。」
「どういうことだ?」
「実は、彼は私の魔術学院時代の同期です。性格はまるで違うのに、なぜか妙に馬の合う男でした。」
ヴァルターの言葉に、側近たちの間に小さな驚きが走る。
「二人で、この国を技術革新で変えていこうと夜通し語り合ったこともありました。それもあってか、今でも彼とはある程度の交流があります。」
「優秀な男なのか?」ルクスが淡々と問う。
「非常に。彼の魔力量は凄まじく、一人で大規模な土砂災害を鎮めることができるほどです。それでも二九歳で王立工学研究院の院長に就任したのは異例中の異例。」
ヴァルターは微笑しながら続けた。
「……彼が昔から求めてやまないもの、それは——」
彼は机の上の地図を指で軽く叩く。
「権力者によらない単位の統一と、それに基づく正確な地図。」
ルクスはその言葉を反芻するように、目を細めた。
「単位の統一……か。」
「そうです。彼は、計測基準が地方・国・時代ごとに異なることを忌々しく思っていました。技術の発展には標準化が必要不可欠だと。どうです、あなたの味方にするのにぴったりの男ではありませんか?」
「……面白いな。」
ルクスは静かに呟くと、紙片の魔法陣を再び手に取った。
「彼と会う機会を作ってくれ。」
*
ヴァルターは多忙な政務の合間を縫ってサンクタス城を離れ、自ら王都の一角に広がる王立工学研究院へと向かった。そこは、魔法と工学の最先端を担う研究機関であり、アルヴェオン王国の都市計画やインフラ整備の中心地でもあった。
ヴァルターがその部屋の扉を叩くのは、彼が昨年院長に就任してから初めてのことだった。
研究院の奥深く、無数の地図や測量機器に囲まれた執務室。その中央に立つ男——ガイゼル・ロートレックは、その多忙さゆえだろう、伸びたまま、跳ねたままになった黒髪の中から覗く、青く鋭い三白眼でヴァルターを迎えた。
「久しぶりじゃないか、ヴァルター。」
低く響く声には、かつての親しみがわずかに滲んでいる。しかし、その瞳は鋭く、警戒心を隠そうともしない。
ヴァルターは微かに微笑し、静かに切り出した。
「相変わらずですね。院長就任の際には伺えなくてすみませんでした。ちょうど、国外で......。」
ガイゼルは手を振ってその話を遮り、本題を促す。
「......優秀なあなたなら、薄々要件を察しているでしょう。......この腐った国の王にしたい王子がいます。昔の誼で会ってもらえませんか。それで、もしあなたが気に入ったら、力を貸してください。」
ガイゼルはしばし沈黙した後、口を開く。
「……ヴァルター。昔のことは、もういいのか?」
「何の話です?」
「......かつて、あれほど王族を憎んでいただろう。」
ヴァルターは微笑を崩さず、静かに答えた。
「いいえ。忘れたわけではありません。」
彼は、ゆっくりと部屋を見渡した。机の上には、新しい都市計画図や、測量結果を記した巻物が広げられている。かつて彼とガイゼルが語り合った「技術で国を変える未来」が、ここに確かに息づいていた。
「私が選んだのは、捨てられた王子。」
その言葉に、ガイゼルの眉がわずかに動く。
「……ふぅん?」
ヴァルターは、懐から紙束を取り出し、机の上に広げた。
「この論文、見覚えがありますか?」
ガイゼルはそれを手に取り、表紙を一読した瞬間、瞳に鋭い光を宿した。
「……これは……!懐かしいな。」
『王権の構造と国家経済の発展』。
それは、ヴァルターが学生時代に、王権神授説を讃えるふりをして、王がいかに形式的で、王国の発展に不要なものか、その不満を書き連ねた論文だった。ガイゼルはこの論文を読んで、笑い転げたものだ。
「彼は、この論文の意味を完全に理解していました。それどころか、自ら提案までしてきた。」
ヴァルターは続ける。
「『傀儡になるから力をよこせ』と。」
ガイゼルの唇がわずかに歪む。
「捨てられた王子と、王族に裏切られた宰相……。確かに、面白い組み合わせだ。」
彼は一度目を閉じ、そして静かに息を吐いた。
「……会ってみてもいいぜ。その王子に。」
こうして、ルクス・アルヴェオンとガイゼル・ロートレックが対面する日が決定された。
*
ヴァルターの見守る中、ルクスとガイゼルが初めて相対した。
研究院の院長室。四方の壁には、地図、測量図、都市計画案が隙間なく張り巡らされ、その中央の巨大な机には、何層にも積み重ねられた巻物と書類が無造作に並ぶ。窓から差し込む夕陽が、乱雑ながらも知性の宿るその空間を淡く染めていた。
ガイゼルは腕を組み、鋭い視線でルクスを見据える。
「正直なところな……」
彼は椅子の背にもたれながら、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「他の派閥からも、技術協力と引き換えに『自分が王位についたら好きに単位系を決めて良い』とは言われてるんだよ。まぁ、つまり金のかからない望みなら叶えてやるから都合よく動けってことだろうが……。」
ガイゼルはゆっくりと手元の羽ペンを回しながら続ける。
「でも、そうじゃねえんだよなぁ。」
淡々としたその言葉には、譲れぬ信念があった。
「さて、それでお前はどう出る?」
ルクスは、その問いを静かに受け止める。そして、ゆっくりと論文の束を取り出し、ガイゼルの前に差し出した。
「そうだな……あなたみたいな人には、言葉を尽くすより、これを読んでもらった方が早い。」
ガイゼルは興味深そうに目を細め、手元の論文をめくる。
「俺と、俺の師匠であるアストリア・フェルナがまとめた研究成果だ。発表はしていない。」
それを聞いた瞬間、ガイゼルの指がわずかに止まる。
「俺と師匠も、権力者が変わるたびに単位が変わってきたことには散々苦労した。本によって採用する単位が違うのは、本当に手間だ。時間の単位についてはほぼロマス歴に基づいているからいい。だが、長さや重さの単位はどうだ?時の権力者の腕だの、王冠の重さだのと、変更されることが多すぎた。お前もそう思っているんだろう。」
ルクスは机上の論文を軽く指で叩き、その先にある地図に目をやった。
「この論文で採用しているのは、師匠曰く『宇宙で普遍的な値から定義した単位』だそうだ。光の速さ、万有引力定数、あとはプランク定数という全く新しい定数——。この測定には相当苦労したらしいが、それは俺の生まれる前の話だ。」
「……宇宙で普遍的な値、だと......。」
ガイゼルは呟き、論文をめくる手を止める。
「もし俺が王になったら、この単位系を採用しよう。王や権力者に左右されない、時代に依存しない絶対的な単位。あなたなら、これをどう思う?」
ルクスは淡々と言葉を紡ぐ。
「そして——光魔法を使ったレーダー技術を使えば、これまでの三角測量をもっと簡素化かつ大規模化できる。お望みの、正確な地図に大いに貢献するだろう。」
「……待て待て。」
ガイゼルが手を上げ、僅かに苛立たしげに息をついた。
「情報量が多すぎる。まずはこれを読んで理解する時間が必要だ。それと——単位と地図の話も。」
彼は深く息を吸い、論文の束を手元に置き直す。
「情報の漏洩はしないと誓う。だから、明日また来い。」
そして、ヴァルターに一瞥をくれた後、ルクスを真っ直ぐに見つめる。
「——ヴァルター抜きで。長くなりそうだからな。」
ルクスはその言葉に、微かに口角を上げた。
「承知した。」
こうして、王立工学研究院のトップとの本格的な交渉が始まろうとしていた。
*
翌日、王立工学研究院の執務室。
ルクスが指定された時間に訪れると、そこには目の下に濃いクマをつくったガイゼルの姿があった。机の上には、昨夜渡した論文の束が広げられ、何度も読み返した痕跡が見て取れる。
ガイゼルはルクスを一瞥すると、疲れたように額を押さえ、深く息を吐いた。
「全部読んだ。一晩かかった、この俺が。しかも、まだ理解し難いところがある。」
そう言いながら、彼は手元の論文を指で叩く。
「お前たちの理論は、俺の知識を超えている部分が多い。だが、一つだけ確信を持てたことがある。」
ガイゼルは、ルクスを真っ直ぐに見つめた。
「工学技術者として、お前に協力しないという選択肢は、あり得ない。目の前に鮭を置かれた熊のような気持ちだ。」
ルクスはわずかに口角を上げる。
「なら、話は早い。」
「だが——」
ガイゼルは腕を組み、鋭い目でルクスを見据えた。
「お前に、一つだけ追加の条件がある。」
「……聞こう。」
「ヴァルターのことだ。」
その予想外の名に、ルクスの琥珀色の目に戸惑った色が浮かぶ。ガイゼルはゆっくりと視線を外し、遠い記憶を掘り起こすように語り出した。
「ヴァルターは、もともと西方ルヴェランの大領主カイム侯爵の子だった。知っていたか?」
「……いや。」
「そうだろうな。お前が生まれる少し前、大規模な粛清が行われた。王に対する謀反の罪で、領主以下、成人していた一族は全員処刑された。ヴァルターはまだ子供だったから見逃されたがな。」
ガイゼルの指が、机の上を軽く叩く。
「王は、謀反などやっていないと必死に訴える領主に耳を貸さなかった......後になって分かったことだが、それはロマス帝国の工作員によるでっち上げだったんだよ。」
ルクスの眉が僅かに動く。
「ロマスは、王国に対するルヴェランの影響力を危惧し、その地力を削ぐために策を弄した。そして、狙い通りルヴェランの力は大きく低下した。今、王位継承争いに関われない程度にはな。」
ガイゼルは静かに続ける。
「冤罪が明るみに出た後、ヴァルターは貴族に戻され、十五歳で魔術学院に入学した。そして、俺たちは出会った。」
彼は苦笑する。
「あいつは表面上、人当たりのいい青年だったよ。優秀な成績で学業をこなし、王権神授説を称える論文を書いていたが……それを読んだ俺には分かった。あいつが王族を憎んでいるってな。」
ガイゼルの指が机を軽く叩く音が、静寂に響く。
「俺と土魔法の授業でペアになった時、俺が王族と貴族に対する呪詛を吐いた。そしたら、あいつが小声で同意してきた。そこから、俺たちは親友になったさ。」
ルクスはじっとガイゼルの言葉を聞いていた。
「それからヴァルターは死に物狂いで努力して宰相に上り詰めた。時に裏切られながらも、それでも自分の夢を叶えるためにな。俺もこの地位につくまで、正直相当助けてもらったよ。あいつは認めないがな。今回の話、ハナから断るつもりなんかなかった。金も軍もだせないが、技術ならどこにも負けないつもりだ。」
ガイゼルはルクスを真っ直ぐに見つめる。
「お前は、ヴァルターの夢を知った上で協力しているんだろう?」
「……ああ。」
「なら、頼むから——ヴァルターを裏切るな。」
その言葉は、真剣な願いだった。
「それが、俺がお前を支持する唯一の条件だ。」
ルクスはしばし沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「分かった。約束しよう。」
その短い言葉に、ガイゼルは深く息を吐き、静かに頷いた。
*
去ろうとするルクスを引き止めて散々質問を浴びせ、夕方にようやく解放した後。工学研究院の院長室には、再び静寂が訪れた。
ガイゼルは、乱雑な机の上の論文をもう一度手に取り、ペンの端で軽く叩いた。
「……俺の研究院は、あいつを支持する。」
ゆっくりと、しかし確かな決意を持って呟く。
「だが——」
彼は、疲れたように椅子の背にもたれ、窓の外を見上げる。
「……あいつの本質は、王というより研究者だろう。」
淡い夕陽が、研究院の石造りの窓枠を朱色に染めていた。
「はたして、王としては——どうなんだろうな。」
誰にも届かぬ、独り言が静かに空間に溶けていった。
技術的なあとがき:アストリアが研究を始めて最初にぶつかった壁が、地球の単位系との違いでした。基準となるものがないなかで、普遍定数の最初の数桁とオーダーを覚えていたので、それから地球の単位系がアルヴェオンの単位系の何倍に相当するか算出したわけです。プランク定数の測定にはミリカンの方法を使いましたが、電池から作らなければならず、大変苦労しました。計算も大変だったそうです。ルクスが生まれる前の話です。




