木之内透のとある一日
玄関扉を開けて出勤のために踏み出したその時、木之内透は電信柱に母親がぶら下がっているのを見た。
母はあの日と同じ桃色の綺麗なドレスを着て、どす黒い顔で電信柱に垂れ下がっている。
自死を選ぶ人間は大抵は靴を脱ぐと言うが、母の足元には綺麗に磨かれた赤いパンプスが毒々しく光っていた。いつもと何も変わらない。
長い長い耳鳴りと胃からこみ上げる苦みを堪えつつ、透は静かに足を進めた。
ぶら下がる母親を見ないように、うつむきながら道を歩く。胸に抱えたタオルちゃんがきゃあきゃあと笑っていて、透は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
タオルちゃんを守らなければならない。そのためにはお金が必要だった。タオルちゃんの食事はその辺の砂と泥で十分だが、それでも園芸店で買うような良い土を与えると本当に喜ぶのだ。
愛しい我が子には出来る限り喜んでほしい。だから、透は金を稼がなければならない。子供を養うのは親の使命だからだ。
母は、娘とそろいの服を着て散歩に行くのが夢だったそうだ。
透が母のお腹にいた頃、性別が分かる前にそろえられたベビー用品は、全てが女の子を想定したものだった。私の元に来る子供は絶対に女の子に決まっているのだから、と信じて、父が止めるのも聞かずにとびきりに良い品をそろえたのだそうだ。
うちはお母さんもおばあちゃんもひいおばあちゃんもみんな女の子しか産んでいないから、私もそうに決まっているの。だからこの子は絶対に女の子。私もお母さんがしてくれたみたいに、子供を世界一幸せなお姫様にしてあげるの。この子が幸せになるためなら私、なんだってしてあげたいわ。
性別が分かった後に何が起きたのか、父は一度も語らなかった。
透もわざわざ聞いたりはしなかったが、母の態度から察することは出来た。母はいつも優しかったけれど、一度だって『透』を見ることはなかった。
透は時折、己の名づけの意味を考える時がある。
小さい頃は中性的な顔をしていたこともあり、よく女の子に間違われた。母はいつも自分を透ちゃんと呼んだ。優しい声は、関心のなさから来るものだった。母は透に何もつらい思いをさせたことはない。ただ時折、しまい込んだ女児用の一式を前に、部屋で何時間もぼんやりとしているだけだ。
透は、女の子でも、男の子でも使える名前だそうだ。
妹が生まれた時、透は自分がまるっきり透明になったような気がした。
第一子を出産後、母は妹を授かるまでに長い期間が空いてしまった。それは父が第二子をもうけることに積極的ではなかったという事情もあるし、母の体力的な問題も、木ノ内家の経済的な懸念もあった。
だが、結果として母は二人目を出産し、そして、それは母に似てかわいい女の子だった。本当に、かわいい妹だった。透から見ても。
母は泣いて喜び、何度も感謝を述べた。
もうだめかと思った。もう間に合わないかと思った。よかった。よかった。ありがとう、私にこの子を授けてくれて、本当にありがとう。
部屋の隅で埃を被ることもなく手入れをされていた様々なかわいらしいデザインのベビー用品がようやく陽の目を見ることとなった。それは更には倍に増えた。母が自身の両親に事情を話して、援助をしてもらっていたそうだ。
透の存在は、彼が妹をかわいがる時にだけ母の目に映った。
こんなにかわいい女の子が世界にいるなんて信じられない、という感動を共有する時だけ、母の世界には透が存在する。こんなに素敵なお兄ちゃんがいるなんて██ちゃんは幸せ者ねえ、と母が優しく微笑む度に、透はようやく息が出来る。
母は透を『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。自然なことだろう。透は実際に兄になったのだから。
妹の名前には母の字が入っているが、透には思い出せない。思い出そうとすると頭がとても痛くなり、気づいたら一日が終わってしまう。
透は妹の面倒見るために努力を費やした。なんて素晴らしいお兄ちゃん、と言われる為だけに全てのリソースを割いた。透は母が好きだったからだ。母は望みもしない存在にすら不足ない愛情を注ぐ程に優しく、娘とそろいの服を着たいと願っても笑われない程に美しかった。
だから、透が妹を死なせたのはわざとではない。この先の一生、妹の面倒を見る素晴らしい兄でいることを、透は心から望んでいた。
単に、その能力が透にはなかったというだけだ。素晴らしい兄を成し遂げる為に過度なパフォーマンスを試みた結果、透はしくじった。最悪の形で。
誰か他の人のせいにならないかと願った。信号無視をしたトラックが突っ込んできたり、かわいい妹を付け狙う不審者によって殺されてしまったり、宇宙から突然化け物が襲ってきたりしていないかと本気で思った。透のせいだった。
妹と繋いでいた手を上手く離してやれなかったから、頭をぶつける前に庇ってやれなかったから、倒れた後にすぐに助けを呼べなかったから、言いつけを無視して家の外に出たから、妹が行きたいとねだったのだから妹のせいにはできたかもしれないが、それをするべき相手は透が泣きながら大人を呼びに行っている間に冷たくなっていた。
こんなことなら歩けるようになんてならなければよかったのに。
ずっとベッドで眠っているかわいい子でいつづければよかったのに。
母の顔を覚えていない。声も覚えていない。
ただ、カーブミラーにぶら下がっている母だけは鮮明に覚えている。父は透に大学を出るまでの費用は必ず出すと言った。そんなことに何の意味があるのかは分からなかったが、透が死ねば父は一人になってしまうのだから、大学を出て、就職をして、自分でお金を稼いでいきていかねばならないと思った。
今も何の意味があるのかは分かっていない。ただ、透が一人で生きていることが父にとっての安心材料になるのなら、たとえ一度も実家に帰ることはなくなったとしても、二度と顔を合わせることはなくとも、金を稼いで生活を続けなければならなかった。
透は職場につくとタオルちゃんをロッカーに詰めて、仕事着に着替えた。透は朝から晩まで、とある工場で働いている。
工場は単純作業の連続だが、正確性と速度が求められる。求められる基準に満たないとすぐに怒号が飛んでくるが、言われた通りの作業を黙々と続けるのは案外透には向いている作業のようだった。
今日も臨時で入った他所の人間が、ラインのリーダーに別の場所へと飛ばされている。ダメだと認定されると次々に弾きだされていくのだ。透はまだ、与えられた役割から外されたことはない。
タオルちゃんを養うためにアルバイトを転々としたが、一番よい給金をもらえるのが此処だった。何か特殊な商品を出荷しているらしいが、詳しくは知らない。
透にとって重要なのは、タオルちゃんに一番いい食事を用意することだけだからだ。この子を世界で一番幸せな子供にする。そのためだったら、なんだって出来る。
なんだって出来るので、透は今、とある廃屋の解体作業に来ている。
出勤した際に、ラインのリーダーに呼び出されて与えられた仕事だ。もしや、仕事ぶりが悪くて自分も飛ばされるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
普段の三倍は貰える仕事だがある程度の危険は伴う、とリーダーは語った。
なんでも、半年ほど前に潰れたとある宗教団体の施設を、透が務める工場の会社が買い取ったらしい。千葉県の██にある、神社を模した屋敷だそうだが、解体して材料にするのでその作業を手伝ってほしい、というのが用件だった。
現場までは会社の車で向かうし、帰りの交通費も出すと言われたので、透は少し迷ったあとに頷いた。
神社――だったものは、そこかしこに虫食いのような跡があった。黒く小さな斑点があちこちに無数に残っていて、柱は腐ってしまって、くの字に傾いている。
百年もほったらかされていたように見えたが、半年前までは普通に使われていたそうだ。団体の設立時に建てられたあべこべの作りをした神社もどきだったというが、ひどい腐食のせいで外観はろくに想像もできなかった。
「元々、ここ十年くらいは不祥事か何かで信者も減って活動範囲も狭まってたんだけどさ、なんだか半年前に幹部連中が突然姿を消したらしくてな。ご神体も潰れてひどい有様でよ、使い物にならねえまんま放置されてたから買い取ったんだと」
解体専門の業者だという中年の男はいかつい見目に似合わず噂好きらしく、逞しい腕に解体用具を抱えながら軽い調子で語った。
「お前、星母教って知ってるか? 此処がその本部だったんだが、全く、どうやったらこんなザマになるんだろうな」
透は顔を上げた。
ちょうど、本殿の上から腐り落ちたのだろう女千木を支給された黒布で拾い上げ、包み込んでいる時だった。
どろりと歪んだ、嫌な感触が布越しに伝わってくる。
それなりの危険が伴う仕事だと、ラインリーダーは言っていた。
実際、十五分前に別の工場から呼ばれたらしい男が一人、奇声を上げて倒れたのも見た。恐らくだが、何かに素手で触ったのだろう。
「……どうしてこうなったのか、とか、その、分かってないんですか?」
「さあねえ。俺たちにはそんなん知らされねえかんね。怪しい方法で信者を集めてたっていうから、何か盛大にトチってお陀仏したんだろうさ」
「そうですか……」
今日は少し風が強い。
ぎい、ぎい、と悲鳴のように鳴いている本殿を見上げながら、透は静かに、一人の男を思い出していた。
***
「いやあ、お礼なんていらないのに、なんだかすみませんね」
「タオルちゃんが無事に一歳の誕生日を迎えられたのは、琴浪くんのおかげだから」
「いらないんですけどね、本当に。すみませんね」
数日後。居酒屋にて。
謝礼封筒に包んだお金を差し出された琴浪は、それからも三回ほど「いらないんですけどね」と挟んだ後、愛想笑いを浮かべたまま透から封筒を受け取った。
タオルちゃんがペットホテルに奪われてしまった一件を解決してくれた琴浪には、いつか正式に礼をしなければならないと考えていた。けれども日々を生きるのに精いっぱいな透に大した礼が用意できる筈もない。
いつか用意が出来たら、と思っている内に時が経ってしまっていたが、今回の臨時収入がそれに相応しいだろう、と透は琴浪を訪ねた。
星母教の人間が忽然と姿を消したというならば、きっとタオルちゃんが狙われる心配ももうない。
突如として訪ねた透に、琴浪は特に隠すこともなく心底迷惑そうな顔をしたが、それでも職場の先輩であったからか、門前払いを食らわせるようなことはなかった。
ただ、家には上げたくなかったらしい。十五分待ってくれと告げた彼は、簡単な着替えを済ませると、何度か「留守番してろ」と室内に繰り返し、透を連れて駅の近くの居酒屋へと向かった。
席に着き、封筒を受け取ったのちに迷うことなくハイボールを頼んだ琴浪は、下戸の透には何をすすめるでもなく、一人でグラスを傾けた。
「そういや、社長が先輩のことを心配してましたよ。亡くなってたりしないだろうねって」
「え」
「どうですかねえって言っときましたけど。どうします? 死んでることにします?」
「え……っと」
透の分のウーロン茶と、きゅうりが届いた。
対面の琴浪は、無気力にきゅうりを摘まんでいる。
「……その方がいいと思う?」
「知りませんよ。先輩が決めたらいいんじゃないですか」
「えっと…………」
琴浪が苦行のような顔で咀嚼を終えた頃に、二杯目のハイボールが届いた。
透が何も言えないままでいても、沈黙が落ちることはない。店内は程よい喧噪で、そこにタオルちゃんのきゃいきゃいと笑う声が混じっている。
タオルちゃんは楽しい場所が好きだった。透と二人きりで部屋に籠っているよりも、きっと色々なところに沢山出かけたいのだろう。妹のように。
「……………じゃあ、死んだことにしておいてください」
喧噪に混じる程度の小声で呟くと、琴浪は少し意外そうに軽く眉を上げた。暗く澱んだ目が透をしばらく眺めて、無言のままグラスに口をつける。
同じタイミングで透もウーロン茶を口にしながら、頭の片隅で思った。思えば、自分は彼の前で、自分で何かを決めたことがない。
「いいですよ。聞かれたらそう言い張っておきます」
「……調べられたり、するかな」
「しないでしょう。社員が新しく入りましたから、雑用はそっちの彼ですし」
「来たんだ……うちに……」
「なんかずっとサングラスかけてますよ」
「……どうして?」
「かけたいからじゃないですか」
「そっか…………」
そういうこともあるか、と透は納得することにした。もう離れてしまった職場のことだ。気にかけていても仕方がないだろう。
それから、琴浪が何杯か追加し、一度トイレに向かい、帰ってきてから言い訳のようにご飯ものを頼み、透がウーロン茶をようやく飲み終わった頃、対面の彼はふとしたように呟いた。
「最後に一個だけ聞いていいすか」
「うん」
「なんで『タオルちゃん』なんですか」
「え? 好きだったから」
好きだったからだ。タオルが一番。透がお小遣いを貯めて、妹のために何を買おうか悩んで、きっと最上の贈り物ではないが似合うだろうと選んだものがタオルだった。かわいいくまちゃんのついたふわふわのタオルは、ふにゃふにゃのかわいい妹にぴったりだった。触り心地のよいものを与えるといつも本当に嬉しそうにする。
妹の手が最も選んだのは、母が贈った高級な品よりも、透の贈ったタオルだった。
「妹が好きだったからだよ」
どうしてそんなことを聞かれるのか、透にはよく分からなかった。分からなかったから特に説明もしなかった。答えはそれだけで十分に決まっているからだ。
琴浪は特に問いを重ねるでもなく、無言のまま十五秒ほど天井を見上げたあと、静かにテーブル下の伝票を手に取った。
ちなみに。
別れ際に透が「お屋敷を壊したのって琴浪くん?」と問いを返した時にも、彼は全く同じ反応で聞かなかったことにした。
次話で再度完結です




