琴浪誠也のとある一日
琴浪誠也が勤める会社は、副業を推奨している。
食っていける給料を出す気などないと言っているも同然であり、実際、琴浪は恐ろしい程に安い家賃と何を食っているのかも定かではない食費とあらゆる消耗品を極限にまで減らした結果として生活を成り立たせている。
そこに臨時収入として、彼が登録している霊媒サービスからのバイト代が加わる。▇藤▇▇平はこのサイトを『U×er Eatsでもした方がまだ実入りがいい』と断言した上で琴浪に紹介した。
金銭面では利がなくとも、悪霊となった弟と同じ領域に足を踏み入れ続けるには最良のバイトだったためである。
結果として、琴浪は想定よりも遙かに深くあらゆる境界線を踏み荒らし尽くしたので、わざわざ面倒な手順を踏むサイトに登録し続けるメリットはあまりなかったのだが、それでも彼は、全てが解決した後にも登録を解除することはなかった。
そうして、解除しなかったために、彼は今、赤く塗られた御堂の中で、男女の性行為を眺める羽目になっている。
簡潔に説明するのなら、教祖代行のバイト中である。
最近潰れたとある新興宗教の信者が、新しく活動を始めていた別団体に取り込まれたのだが、不幸な事故によって教祖が不在になった。
緊急で代わりが必要なので、一日教祖をやってほしい、というのが依頼である。
記念すべき第一回の儀式の日に教祖がいないのは困るのだそうだ。しかし、選ばれた筈の教祖を騙って何か罰でも当たったらたまったものではないと、幹部の誰もやりたがらなかった。
そのため、代わりの人材が選定されるまでアルバイトに代わりをやらせることにした。今は教祖もタイミーさんが務める時代である。
琴浪は折り重なった男女がリズミカルに動く様を、死んだ顔で眺めていた。
彼の目はいついかなる時も死んでいるが、今日は殊更に光を宿していなかった。早く帰りたいと思っている。心から願っている。祈ってすらいる。
時給八千円でなかったら引き受けなかっただろうし、引き受けた結果、時給で二万は貰わないと割に合わないと思っている。現在、二万五千四百円分の時間が経過していた。
その回の性行為が終わったらみんなで祝杯を挙げる。この酒がまた、非常に不味い。苦くて酸っぱい。この世で一番不味い酒である。
神の子を宿すのが目的だそうだ。教祖はその見届け人であり、特別なお力を持つ教祖様が場に立ち会うことで必ずや神力を持った子供が生まれるのだ。つまりは神の妊活である。
琴浪は死んだ目で五時間ほどそれを見守り、これだけやって四万円にしかならないとか気でも狂ってんのかボケカス死ねと思いつつ場を離れた。
一方その頃。生肉は暇をしていた。
バイトの内容を聞いた琴浪が、生肉を連れていくのをよしとしなかったためである。彼は単に元の魂が琴浪▇であるだけの別個の存在ではあるが、何が楽しくて弟の同素体に知らぬおっさんとおばさんの性行為を見せねばならぬのかと、バイト内容を聞いた琴浪は生肉に留守番を命じた。
暇である。生肉の生活においての楽しみは基本的に琴浪の側にしか生じないため、琴浪の不在時には、生肉はたのしくゆかいなお肉から、ただのお肉になる。フローリングに寝っ転がり、力なく四肢を垂らすただの肉の塊だ。
早く帰ってこないかなあ、と思う。眠ることのない生肉にとって、一日はとても長い。
普段の琴浪は、顔色の悪い死んだ目をしたサラリーマンである。血行不良によって青隈が酷く、生気の無い目は淀んだ視線を宙に向けている。不健康が人間の皮を被って動いているような有様だ。
本日の琴浪は教祖代行であるからして、身なりを綺麗に整えられていた。美容院も予定に組み込まれていた上に、顔色の悪さを誤魔化すために軽く化粧まで施されている。
健康を装い体裁を整えると、琴浪はそれなりに見られる顔をしているのだが、本人からすればどうでもよい話だった。面がよかろうと悪かろうと人間はみな行き着く先は同じだし、面の良し悪しより、運の良し悪しの方が彼にとっては余程重要だった。
琴浪は運が悪い。運が悪いので教祖のバイトを断り損ねたし、運が悪いので退席のタイミングを逃し続けたし、運が悪いので家族は全員死んだ。
しかして運が悪くなければ、運良く弟に恵まれることもなかった訳だ──が、恵まれ望まれた素敵な弟は悪霊と化したため、口が裂けてもこれを幸運などとは呼べなかった。
顔色の良い死んだ目をした教祖様は、その日七組の男女の性行為を見守ったのち、その辺を亡霊のように徘徊し、意味もなくスカイツリーに登り、これまた意味なくその辺でタピオカを購入した。
嘘だ。意味はある。
知らん男女の性行為を脳裏から追い出すのに、琴浪は二時間二十三分と3タピを要した。
一方その頃。生肉はやはり暇をしていた。
コトナミさんのお家がなくなって以来、天井には何もぶら下がらなくなってしまった。
琴浪は全ての境界線をめちゃくちゃにしたため、彼の周りでは軽度から重度の怪奇現象が起こるが、それも前ほど頻繁ではない。
よって今現在、琴浪の家にいるのは生肉と、何処かに隠れた胡麻だけだった。
胡麻はあまり、生肉とは遊んでくれない。暗がりに潜み、時折這い出ては明かりあるものを潰そうとするだけである。
蛍くん来ないかなあ、と生肉は思った。一度寝返りも打った。ぺち、とフローリングが鳴る。
生肉は蛍が好きだ。琴浪に飯を食わせてくれるから好きだ。別に、食わせるのは生肉でなくとも良い。何かしらの飯を与えて琴浪の命を繋いでくれるのであれば、それだけでいくら感謝してもしたりない程だ。
暇だなあ、と302回思ったところで、聞き慣れた足音がして、生肉は飛び上がった。玄関を走りまわるうちに扉が開く。
帰宅した琴浪は何かを片手にしていた。
すわお酒かと威嚇に入った生肉だったが、彼が手にしていたのはタピオカだった。
生肉は知らぬ事実だが、これは4タピ目のタピオカである。琴浪にしては記録的なまでのカロリー摂取であった。
琴浪が自主的に酒以外の飲み物を飲んでいる。嬉しかったので、生肉はたぴたぴと走った。
琴浪の顔は変わらず死んでいた。揺れる肉を見ると思い出したくもない光景を思い出しそうになり、しかし生肉を見て思い出すのはあまりに最悪なのでどうにか記憶を消す方法を考えた結果、酒を買いに走るか深刻に悩んでいたためである。
結果として、彼は脱いだ靴を履くことが出来なかったため、玄関で座り込んだままタピり続けた。
靴を脱ぐと履くことが出来ない──場合がある。靴を履くと言うのは人体に外出の許可を与えることであり、許可というのは時折強制と同義であり、外を歩くという行為そのものに吐き気と頭痛を覚えることが人間にはままあるため、頭痛と吐き気の予測をした脳があらかじめ苦痛を避けたがるのだ。
靴の語源は苦痛から来ているのかもしれない、と琴浪は時折真剣に考えている。が、すぐに忘れる。
忘却とは人間許された一番の幸福だ。
琴浪は浴びるようにタピり、玄関で死んだように眠り、次の日には全てを忘却した。仕事も忘れた。行かなかった。電話も無視した。
ラスト一日の有給が勝手に使われたので、翌々日には渋々出勤した。




