【琴浪家】
「肝試し行こうぜ」
平日の夜。
夜中の呼び出しを受けて訪ねた僕に、扉の前で待っていた琴浪はスーツ姿のまま告げた。
僕の記憶が間違いでなければ、明日も仕事だと聞いている。
普段から碌に眠れていない琴浪にとっては、今は貴重な時間の筈だった。
睡眠を置いてでも優先するべき用事であれば納得もするが、肝試しである。
許可のない敷地に勝手に入り込むのは、琴浪が最も嫌悪する行為ではなかっただろうか。
訝しさから黙り込んだままの僕に、琴浪はうんざりしたような顔で繰り返した。
「肝試し行こうぜ」
「…………それは僕がついていく必要があるんですか」
「ない」
いつぞやと同じことを尋ねてしまったが、琴浪からの返事はあの時とは異なる断言だった。
故に、きっと必要はあることなのだろうと思った。
そして、同時に気づいた。
「あの」
琴浪はもう、僕なんて見えていないかのようにスマホの画面を眺めている。
何やら操作を終えて興味もなさそうにスマホが背広のポケットにしまわれる間に、僕は三度、彼の足元を確かめた。
「生肉はどこですか?」
せっかくのお出かけだというのに、生肉の姿が一切見えなかった。
琴浪が肝試しに行くのだから、生肉がついてきていないのはおかしな話だ。
留守番をしていろと言っても聞くような肉ではない筈だし、もしや、体調でも悪いのだろうか。
素直な心配から扉へと目を向ける。
問いかけに答えはなく、視線を琴浪へと戻しても、彼と目が合うことはなかった。
琴浪は、あまり人から目を逸らすことはない。
三村さんがやってきた時も、マンションで変な格好をして儀式をしていた人たちを前にした時も、冷蔵庫の中に生首が現れた時も、ただじっと推し量るように見つめていた。
今は違う。琴浪は使い込まれた革靴の爪先を眺めたまま、やる気なく扉に背を傾けていた。
「肝試し行こうぜ」
変わらない温度の言葉が繰り返される。
次いで、作ったように素っ気ない声が続いた。
「行かねえなら帰っていいぞ」
「行きます」
僕の予感が正しいのなら、目的地には生肉がいる筈だ。
どうして僕が呼ばれたのかは分からない。ただ、ついていく必要があることだけは確かだった。
今度は余計なことを尋ねずに頷いた僕に、琴浪はアパート前に停まったタクシーを片手で示して歩き出す。
会話もなく錆びた階段を降りて、共にタクシーへ乗り込んだ。
アプリで呼び出した際に行き先は既に指定したらしい。
琴浪は終始無言だった。
運転手さんも深夜で疲れているのか最低限の会話だけで、それに遠慮がちに答える僕の声だけがやけに響いていた。
走り始めてしばらく。
気まずさから窓の外を眺めるだけになっていた僕は、外を流れる見覚えのある町並みに、自分の予感が正しかったのだと察した。
肝試しに行こうぜ、と琴浪は言った。
あの日の呉宮と同じように。
だから、行き着く先があの日と同じであることに、僕は特に強い疑問は抱かなかった。
辿り着いた其処は、もはや家としての形を保っていなかった。
まともに残っているのは一番奥の壁のみ。
あとは屋根を支える垂木や壁の太い柱などで、かろうじてそこが家だったと分かる残骸だけが広がっていた。
床には瓦礫と焼けて折れた柱が折り重なっている。
ひどい有様だというのに近隣の建物には一切の損傷がないせいで、かなり気味の悪い異物感があった。
真っ黒の崩れた家屋の中で、『琴浪』と刻まれた表札だけがやけに綺麗に残っている。
僕は隣に立つ琴浪を見ることも出来ないまま、もう一度、詰まりそうになる息を無理に吐き出すようにして尋ねた。
「……生肉はどこですか?」
「書斎」
慎重に尋ねた僕の気遣いごと叩き切るような声音だったが、苛立ちや怒りは微塵も聞き取れなかった。
琴浪は歪に焼け残った柱を無言で眺めたあと、正面ではなく、家の横へと回るようにして足を進めた。
欠伸を噛み殺しながら進む琴浪の後を追って、焼け跡の瓦礫を跨いで進む。
どう見ても玄関ではない場所から入ってしまったことに対して妙な居心地の悪さを感じたが、次の瞬間には、そんなくだらないことを気にかけている余裕はなくなった。
家だ。
家があった。
僕が以前に訪ねた時と何も変わらない、『コトナミさんの家』が、目の前に広がっていた。
明かりに乏しいリビングで、僕らは絨毯の上に立っていた。
目の前にはローテーブルと、落ち着いた色合いのソファが置かれている。
埃はかぶっていたが、火事があった形跡などは一切見当たらなかった。
僕は先ほどまでと異なる居心地の悪さ――つまりは、今すぐ此処から逃げ出したいという純粋な恐怖と焦燥感を抱えたまま、周囲をぎこちなく見回す。
振り返ると奥にはオープンキッチンがあり、その手前に、クロスのかかったアンティーク調のテーブルと、それに合わせたデザインの椅子が四脚並んでいる。
そのテーブルに、紙袋が置かれていた。
少しくたびれた皺だらけの紙袋を視界に入れた瞬間、それが何のために存在するものなのか理解する。
『家族』を入れるためのものだ。
いらない家族を送るのなら、納めるのに相応しいのは棺桶ではなく、紙袋しかないのだ。
そういうことだった。
理解したくもないものを強制的に把握させられるのは、正直に言って気味が悪い。
僕は嫌な汗をかくのを止められないまま、隣に立つ琴浪に呼びかけた。
「書斎って……何処なんですか」
「二階だな」
他に言いたいことはいくらでもあったが、この状況でわざわざ口にする気にはなれなかった。
一刻も早く此処から出たい。
そのためにはきっと、生肉を見つけないとならない。
震える声で問いかけた僕に、琴浪は殊更にやる気のない声で呟いた後、テーブルの上の紙袋をひっくり返した。
「え」
あまりにも滑らかな動作だったので、止める暇もなかった。
ただ呆然と見守るしかなかった僕の目の前で、空っぽだったはずの紙袋から、ごとりと何かが落っこちる。
僕は最初、巨大な黒い糸の塊だと思った。
そして、すぐにそれが、黒髪の女の子の頭だと気づいた。
女の子の首は、心底驚いた様子で琴浪を見上げていた。
はくはくと唇が動いている。
何か伝えようとしているようだが、喉から先が肺と繋がっていないせいか、発声は出来ていなかった。
「喋れなくてよかったな」
琴浪はそれだけ言うと、僕の手に女の子の首を渡して、さっさとリビングから廊下へと通じる扉を開けた。
女の子には申し訳ないが、正直に言って受け取りたくはなかった。
かといって、避けて落っことすのも申し訳がない。
結果として、ぎこちなく、顔面を外側に向けて彼女の首を支えることになった。
耳の辺りを手のひらで押さえて持つ形だ。
ちょうど、バスケットボールのパスを出す直前みたいな格好である。
これが正しい持ち方かは一切分からなかったが、現状の僕に出せる一番よい判断がこれだった。
この子は誰なのだろうか。
生肉がいなくなったことと、何か関係があるのだろうか。
聞きたいことは山ほどあったが、前を行く琴浪の背には答えてくれる気配は微塵もなかった。
廊下へ出た琴浪はよどみない足取りで階段へと向かう。自分の家なのだから、間取りは把握していて当然だろう。
家の中はあまりにも普通だった。
不気味な物音もしなければおどろおどろしい血痕などもなく、積もった埃さえ無視すれば、家の住人が帰ってきそうな雰囲気すら漂っている。
あまりに平穏で平常で、だからこそ限りなくおかしかった。
だって。
望くんがいなかった。
あんなにもはっきりと存在していた筈なのに、足音ひとつ聞こえてこなかった。
琴浪の後を追って階段を上がりながら、僕は耐えきれなくなって彼の背に呼びかける。
「琴浪」
「なんだ」
「あの、居ないですよね」
「何が?」
「いや、だから、その……望くんが」
「最初から居ないだろ」
言ってから、琴浪は間髪入れずに舌打ちをした。
続いて、あーあ、と呟く声が聞こえる。
「やっちまったな」
極めて軽い調子の言葉に、計り知れない程の絶望が含まれているのが分かった。
琴浪はストレスの逃げ場を探すように、がりがりと頭を掻きながら階段を上がっていく。
二階の廊下から見える部屋は、ひとつだけ、扉が細く開いていた。
書斎だという言葉の通り、隙間からは本棚が覗いている。
本棚と、それから、そう、あの、何かが這い出てくるのが見える。
「…………」
僕はその存在を、正しく形容する言葉を持たなかった。
無理に喩えるなら、一抱えほどある大きな水風船に、人の皮を貼り付けたような形をしている。
血管の浮いた柔らかい肉の塊は、舐めるようにして床を這っていた。
抱えている女の子の首が悲鳴をあげているのが、なんとなく分かる。
なんなら僕だって叫びたかった。
そうしなかったのは、出来なかったのは、単に息を吸うのも吐くのも忘れていたからだ。
凍り付いた空気の中で、肉で出来たようなナメクジと、琴浪だけが平然としている――ように見える。
書斎の前で足を止めた琴浪は、少なくとも僕らのように恐怖からそうしている訳ではない様子だった。
ただ、ある種の苛立ちを示すように、あるいは不快感を払うように、爪を立てて頭を掻いている。
しばらくのあと、心底うんざりした様子で溜息を落とした琴浪は、ぐにゃぐにゃのそれを軽く足で跨ぐと、書斎へと足を踏み入れた。
そうして、丸っきり空き巣みたいな勢いで室内をひっくり返してから、何の興味もなさそうに、あるいは、全ての感情を置いてきたかのような顔で出てきた。
何をしたのかは分かる。
他に何かが居ないかを確かめたのだ。
僕はじっと立ち尽くしたまま、柔らかく伸びた肉の塊が自分の隣を這い進んでいく気配を、視界に入れないように確かめていた。
生肉は何処か、と尋ねた僕に、琴浪は『書斎』だと答えた。
けれども、琴浪が漁った書斎から出てきたのは、あの得体の知れない、何とも呼べない存在だけである。
他には何も居ない。
つまりは、そういうことだった。
「おい、いつまで間抜け面晒してんだ」
今度は恐怖とは違う理由から立ち尽くすしかなくなった僕に、書斎を出た琴浪が軽く蹴りを入れる。
驚いて首を落とすところだったが、なんとか堪えた。
ふと見下ろせば、女の子は涙を零している。
目を塞いであげれば良かったかもしれない、と麻痺した思考の端でぼんやりと思った。
「お前、そのガキ連れて出ろ。そこの部屋に身体あっから、拾ってけよ」
そのガキ、というのは僕が抱えている女の子のことだろう。
ようやく息をするのを許された気がして、急いた気持ちで息を吸い、そのせいで咳き込みながら答える。
「出ろって言われても……ど、どこから出れば良いんですか」
「玄関に決まってんだろ。お前はひとんち来て窓からお暇すんのかよ。イカれてんのか」
僕の視界が正常であるなら、琴浪は焼け跡の窓に当たる部分から侵入していた気がしたが、そんなことを気にしている場合ではない。
僕は女の子の首を抱えたまま、何処か縋るような気持ちで尋ねた。
「いや、でも、その……琴浪は一緒に出ないんですか」
「は? 俺が出て行ったら誰がこの家閉めるんだよ」
「……閉める必要があるんですか」
「ある」
確かめるまでもなく、嘘だと分かった。
別にそんな必要は何処にもない。その必要があるのなら、琴浪はもっと早く此処に来て、そして二度と戻っては来なかった筈だからだ。
もしかすると状況を踏まえて、たった今から必要性が生じたのかもしれないが、どちらにせよ、僕にとってはそんな必要性は無いも同然だった。
僕は女の子の首を片側に抱え直すと、琴浪の右手首を掴んで強く引いた。
「一旦出ましょう。よくないですよ、此処」
「んなこた十年前から知ってる。だから閉めてやろうって言ってんだろ」
吐き捨てた琴浪は、何もかもに疲れた顔をしていた。
ぐにゃぐにゃの肉の塊だけが、まるで空気を読まずに歩いている。
琴浪の足元に来ることもなく、逃げ出すでもなく、何をするでもなく、ただ壁に沿って進み、ぶつかり、進路を変えていく。
ダンゴムシみたいだった。
何も考えず、ただ刺激に反応して動いているだけの存在だ。
あれに足し算の問題を出したところで、永久に答えが返ってくることはないのだろう。
汗を拭うことも忘れたまま、僕はある種の確信を持って尋ねる。
「あれを生肉に戻す方法、あるんでしょう」
「あるかもしれないが、俺は知らないな」
「じゃあ、知ってる人を探しましょう」
返ってきたのは笑い声だった。
喉の奥から引きずり出したみたいな笑い声が、静まりかえった廊下に響く。
片腕に抱えた女の子が逃げ出しかねない仕草で身動いだが、彼女が転がり落ちるよりも、琴浪が落ち着く方が少しだけ早かった。
「良い友達だよ、お前」
疲れ切った顔で笑みを消した琴浪は、視線を送る僕の手を振り払うと、何処かへと電話をかけ始めた。
どうやら、知っている人間に連絡を取ってくれるつもりのようだ。
その顔には疲労の色は残っているが、先程までのような、全てを投げ出してしまうような無気力な暗さはない。
僕はひとまず、そっと安堵の息を零した。
きっと、琴浪はこうなることを見越して僕を連れてきたのだ。
そうでなければ、この家にわざわざ僕を連れてくる理由などない。
更に正確に言うのなら、必要なのは僕ではなくて、琴浪以外の他者だ。
琴浪は自分の他に『誰か』を連れていくことで、面倒になって全てを投げ出そうとする精神のストッパーとした。
自分がこの家に戻ってくればどういう精神状態になるのか、琴浪には自覚があったに違いない。
それならそうと説明をしてくれればいいのだが、そんな説明を受けた上で僕がこの場で適切に振る舞えたかと言えばそうではない、というのも、彼にはお見通しだったのだろう。
最悪、僕と女の子だけは家から出すことが出来るとも思っていたから、結果として良く転がっただけで、本当は自分がどうなろうと興味もなかったのかもしれない。
「は? 出ねえ」
琴浪はややキレつつ、とてもじゃないが普通とは言えない回数のかけ直しをした。
十数回ほどのかけ直しを経て、何処かの誰かと通話が繋がる。
端的すぎてあらゆる説明をすっ飛ばしていた琴浪は、それでも話は通じたらしく、なんとも渋い顔をして電話を切った。
そうして、なんとも雑な足取りで一番手前の部屋へと入り、部屋着らしきパーカーを着た女の子の身体を引きずり出してきた。
自分の口から小さな悲鳴が漏れるのを、僕は何処か他人事のように聞く。
琴浪はやっぱり何も興味の無い顔で僕の腕から首をかっさらうと、雑な仕草で女の子の身体にそれをくっつけた。
どうして適切な位置できちんとくっついたのかは、僕にはよく分からない。思わず目をつむってしまったからだ。
いろいろと衝撃が強かったのだろう。首が繋がった少女は、ぐったりと意識を失っていた。
大丈夫だろうか、と不安になる僕の前で、琴浪が少女を背に背負う。
二人分の重みを受けた階段は、琴浪の足が踏みしめるたびに軋んだ音を立てた。
「ったく、どいつもこいつも常識がねえのか。ひとんちに不法侵入しやがって」
「……入りたくて入った訳ではないんじゃないですか」
どうして少女がこの家に居たのかは分からないが、勝手に焼け跡の家に入るような人には見えなかった。
それどころか、家でずっと本でも読んでいそうな、なんとも大人しそうで気弱そうな顔をしている。
自分の意思で不法侵入を働くような性格をしているとはとても思えなかった。
呉宮が入るつもりもなかったのに僕の後についてきていたように、彼女もただ家に呼び寄せられただけ、ということはないだろうか。
そう思って、別に、擁護のつもりではないが口にした僕に、琴浪は玄関の鍵を開きながら吐き捨てた。
「此処は入るつもりもない奴を呼べるほど強くない。クソみてえなお遊びだろうと何だろうと『入ってもいいかな』くらいには思ってないとならない。他人の家に無断で入るってことに心理的ハードルがあるような奴はそもそも呼ばれねえんだよ。
ご近所全部仲良しさんな地域ならともかく、この辺ではどうしたって他人の家は不可侵のテリトリーだろ。無断で入っていいと頭の片隅でも思っている時点で、そいつには常識が無い」
「………………」
残念ながら不法侵入の前科がある僕には、まともな反論は出来なかった。
こいつ何処のガキだよ、とぼやく琴浪の声を聞きながら、僕は気まずい思いを抱えたまま玄関扉を出た。
扉を閉める直前、ふっと後ろ髪を引かれるように振り返る。
流動体の肉は、ゆったりと行き場を探すように、あるいは単に重みに負けているかのように、階段をゆっくりと下っていた。




