【留石 蛍】
目を覚ました時、僕はしばらくの間、自分が誰かも思い出せなかった。
ただひどく苦しくて、全身が燃えるように痛かった。
見える限りの身体は全て無事だったので、精神的なショックによるもののようだった。
幸いにも病院だったので、適切な処置が施された。
のだと思う。
恐らく。
退院するまでの記憶は、あまり残っていなかった。
覚えているのは、母さんが泣いていて、妹がなんだかやけに緊張した顔をしていたことくらいだ。
母さんは僕の意識が回復したことを泣きながら喜んで、次に僕の受けていた仕打ちを悲しんで、最後に僕がこれまでの被害を隠していたことを怒った。
泣いても泣いても涙が止まらないみたいで、僕じゃなくて、母さんの方が倒れてしまいそうな程だった。
でも、母さんは怒りはしたけれど、『どうして隠していたの』とは一言も口にはしなかった。
僕の思いなど、母さんにはすぐに分かったからだろう。
毎日睡眠時間を削ってまで働いて家を支えている母さんに、余計な心労をかけたくはなかった。
ただでさえ、僕らがいるせいで母さんは大変な思いをしているのに。
全部分かっているのだろう母さんは泣きながら怒って、悲しんで、そして、いつまでも謝っていた。
ごめんね、と。
別に何も悪くはないのに。
二年前に父さんが自損事故で死んでから、僕らは家族三人、小さなアパートで暮らしている。
父さんの親戚とは折り合いが悪いし、母さんには頼れる身内はいなかった。
一時期は父方の祖父母の家に世話になっていたこともあるが、同居を始めて半年もしない内に、僕と妹が耐え切れなくなった。
祖父母にとっては母さんは敵で、好きなだけ虐め抜いて良い相手だと思っているようだった。
父さんが事故を起こしたのも、こんな碌でもない女と結婚したせいだと常に言っていた。
母さんは毎日へとへとになるまで働いて、家では何かするたびに祖父母に頭を下げていて、どんどん疲れて、どこか知らない女の人になっていくみたいに、顔つきも変わっていっていた。
このままだと母さんまで死んでしまうかもしれない。妹と二人で怖くなって、母さんを説得して家を出て、アパートに引っ越した。
カーテンで部屋を区切らないとならないような間取りだったけど、祖父母がいないというだけで何処よりも息がしやすかった。
高校はそのアパートから一番近い場所を選んだ。
幸いにも勉強は得意と言えなくもなかったし、入学自体に特に苦労はなかった。
僕が呉宮に目をつけられたのは、高校入学から半年後のことだった。
選ばれた理由は極めてシンプルで、単に僕が地味でつまらない、友達もうまく作れないでいる人間だったからだ。
クラスの片隅で空気と化している僕とは違って、呉宮は学年中、どころか学校中の人気者だった。
スポーツも勉強も出来て、背も高くて顔も良い。誰が見てもカースト上位の人間だった。
そんな人間が、地味で気弱そうな、周囲に馴染めていない人間を面白おかしく弄っていたところで、誰も止めるわけが無かった。
強く拒否しなかったのは、呉宮を遠ざけたとなったら、僕の扱いは空気どころではなくなるからだ。
まあ、結果として辿り着く扱いの結末は変わらなかったのだが。
これは後で聞いた話だっだが、呉宮は高校受験に失敗していたそうだ。
僕が通う学校は、呉宮の望む高校よりも数段下とされている。
呉宮にとっては、この環境で自分が周囲より優れているのは当然の話であって、こんな無価値な場所にいるような人間のことは好きにして良い、と本気で思っているようだった。
通常『いじめ』とされるようなことは一通りやられて、僕は極めて普遍的な、羅列したらいっそ陳腐であるようなポピュラーな『いじめ』とかいうやつが、流行り廃りもなく受け継がれてきた理由を思い知った。
集団生活の中で人を傷つけるための最適解なのだ。効率よく、分かりやすく、ついでに面白おかしく『死ね』と伝えられる方法は、もう確立しているのだ。
だから、目新しいことは何一つされなかった。情報として並べれば『ああ、よくあるやつね』で済む方法だけで、死にたくなるには充分だったからだ。
肝試しに行く話が出たのは、二年に上がった頃だ。
その家に入った人間が、どうやら本当に死んだらしいという噂を聞いてのことだった。
これで本当に死んだらウケるよな、と笑う呉宮に、僕はいつものように曖昧な笑みを返した。
本当に死んだら、と考えたことは何度かある。
僕が死んだら、きっと母さんと妹は悲しむだろう。
葬式にもお金がかかってしまうし、迷惑もかかるだろう。
祖父母はまた嫌味を言いにきて、母さんがまた責められるかもしれない。
でもきっと、僕がいなくなったら、食い扶持が一人減るわけで、母さんの負担は減るだろう。
それは、もしかしたら良いことなのかもしれない。
とにかく。
僕は肝試しに行くことになった。
断るだけの勇気を持ち合わせていなかったのだ。
家でも学校でも、曖昧に笑ってなあなあで誤魔化して生きているのだから、当然の話だとも言えた。
平気なふりをすることで平気になろうとして、結局は失敗している。
聞いたところによると、空き家となっている一軒家は以前、殺人事件が起こった家だった。
その近隣ではかなり有名な話で、連れ子だった息子が、弟と実母と養父を殺した、らしい。
詳細はあまり出てこなかった。どうやら、詳しく話すと呪われるんだそうだ。
家を取り壊そうとしても呪われるんだそうだ。
たまに、誰もいないのに扉が開いているらしい。
呪いの家だ。間違いなく。
話しただけでも呪われるような家に入るだなんて、きっとただでは済まないだろう。
随分と悪質な遊びだった。遊びで済ませられる範疇に留めておかないといけないのは、呉宮にも分かっていたんだろう。
いや。もしくは本当に遊びだったのかもしれない。
蟻の巣に水を入れてみるような、蜻蛉の羽を毟ってみるような、猫をガスバーナーで炙ってみるような、そういう、抵抗されない相手をいたぶるだけの遊び。
呉宮にとっては、僕はとっくに羽虫以下の生き物になっていた。それだけの話だ。
そういう訳で、僕は蝋燭を片手に空き家に『お邪魔します』と不法侵入をしたし、
真っ暗な部屋の中を散々迷ったし、
いつまで経っても外には出られなかったし、
そこかしこで笑い声がしていて、
僕はなんだか分からないままそれを追って、
なんだかとても疲れてしまって、
ごめんなさいと言いながら横になって、
いいよと言われて、
何が良いかは分からなかったけれど蝋燭が倒れていくのだけは見えて、
眼鏡の男の子は笑っていて、テーブルクロスが燃えていて、笑っていて、やたらと燃え広がってしまって、ごめんなさいと繰り返して、いいよと言われて、全く何も良くなかった気がしたのだけれど、とても煩くて、叫び声がして、すぐに何も分からなくなって、笑っていて、笑っていて、
最後は確か、
『お邪魔しました』と言った気がする。
だって。
お邪魔してしまったし。
お暇しなければならなかったし。
多分。
そういえば、なぜ蝋燭を買おうと思ったのか、よく思い出せなかった。
それに、呉宮がどうしてわざわざついてきたのかも。
* * *
「は? なんだお前、生意気に上達してやがるな」
台所に立った僕に、琴浪は心底嫌そうに感想を述べた。
僕はこれまで、料理をしたことはなかった。
家では掃除が僕の仕事で、それもアルバイトを始めたから、そのお金の分を払ってるんだし、と妹がほとんど済ませてしまっていた。
琴浪に弁当を持っていくにあたって、僕は妹に教えを受けた。
私が作ろうか?とも言われたけど、断った。
弁当を作るというのはあくまで第一段階で、結局は僕が生肉を調理出来るようにならないといけないからだ。
いや、別に、全くいけなくないし、そうする理由も本当のところはないのだけれど、せっかくだから、僕がそうしたかった。
妹は、休学中の僕がわざわざ何処に出掛けているのか、特に聞くことはなかった。
母さんには新しいバイトを探そうとしてると思われていて、心配しながら「無理しないでね」と度々言われているのだが、妹の方はどうやら何かを察しているらしい。
僕が入院している間に何かがあったらしいが、何も切り出そうとはしないので、詳しくは聞かないことにしている。
ただ何も言わず、いつも通り学校にでも行くみたいに家を出て、僕は琴浪の住むアパートを訪ねている。
生肉が喜んで僕を出迎えるので、琴浪は追い返すのを早々に諦めたようだった。
僕には生肉を見ることが出来るし、触れるし、食材として扱うことも出来る。
ただ、電気のついたこの部屋は、至って普通の部屋に見えた。天井にも何もぶら下がっていないし、胡麻も死んでいないし、冷蔵庫も風呂場も至って普通だ。なんか、ベランダに吊り革が増えているけれど。
基本、僕以外の人にも同じように見えている筈だ。
そういえば、三村さんは元気にしているのだろうか。聞いてみたけれど、「知らん」としか返ってこなかった。
それもそうか。三村さんはただ、一方的にやってきただけだものな。
四つ足の生の肉である生肉は、とちとちてちてちと嬉しそうに琴浪の周りを回っている。
琴浪がご飯を食べているのが嬉しいのだ。
晩御飯と称してサラダ油を舐めたり、買ってきたはずの弁当を結局無視して寝たり、カロリーメイトを開けるだけの作業に三十分もかかって結局食べないまま出勤したりしないで済んでいるから。
ちなみに、今日は肉うどんにした。
おかわりもしていたので、生肉はとても嬉しそうにしていた。
僕はまだ何も聞けないでいる。




