10-9 駿河 清水湊6
眩い日差しが海面を照り返す。
漂ってくる熱気が肌を焼き、じわりと汗がにじむ。
昨晩の豪雨が嘘のように、真夏の様相を帯びた日だった。
瀬名の当主は今頃何を考えているだろう。
孫九郎の首を取れば今川のすべてを手に入れることができると、想像逞しく武者震いしているだろうか。
いや、そんな大事にする気はなくて、状況のあまりにも早い推移に震え上がっているかもしれない。
承菊は日差しが高く昇る前に、兵を動かした。
駿府は国のほぼ中央に位置し、国境とはそれなりに距離があるので、常駐している兵の数は少ない。
だが賤機山城を含め複数の城があり、見た目ほどには手薄ではなかった。
それらがすべて敵に回れは、かなり困ったことになるが、そんな心配はしていない。
というのも、意図的に異なる派閥を配置しているからだ。
孫九郎は高い所を飛んでいる猛禽を目で追った。
きわめて近い場所で戦が起ころうとしているのに、この奇妙な静けさを「平和だ」と感じていた。
この期に及んで、血が流れずに済むと思っていたわけではない。
ただ清水湊周辺があまりにも平穏で、血なまぐさい現実が遠い事のように思えたのだ。
「御屋形様の号令で、二千の兵が駿府及び清水湊に集まってきております。堀越家及び遠方の国人衆抜きでの数ですから、まだ五百は増えそうです」
藤次郎が書き付けを見ながらそう言って、ようやく安堵したように息を吐いた。
瀬名の兵は五百だ。庵原のように同調する者がどれぐらいいるにせよ、二千五百の兵よりは数で劣るはずだ。
更にはこちらの指し手は承菊だ。今から味方が大量に離反する事でもない限り、勝ちは固い。
あとは……その万全の体制が整うまでの時間が勝負か。
孫九郎が瀬名側なら、今こそが攻め時、敵が集結する前に討とうとするだろう。
つまりは、今日の日が暮れるまでこの平和が続けば、騒動は終わりだ。
「駿府に戻るのは明日だな」
この天気が明日も続いてくれればいいのだが。
気を抜くのはまだ早いが、そもそも瀬名が跳ねた程度では内乱とまでも言えないだろう。
「申し上げます。佐吉が挨拶に参っております」
陣屋の二階から見下ろす湊には、数隻の小型の船が横付けされている。雨が上がった今のうちにと、沖に見える大型の商船に荷を運んでいる。
ここから見える範囲だと、米俵が多い気がする。
大型の船だと風向きによってはすぐに沖に出ることができないので、万が一を考えてのことだろうか。
やがて廊下をすり足で近づいてくる音がした。
武士の荒々しいものではなく、忍びの音もなくといった風でもない。
顔を上げると、丁度孫九郎の視界に入らない襖の影に男が控えるのが分かった。
見えているのは膝先だけだが、武士の身なりではない。
「佐吉か」
この時代の身分差を考えれば、忍びではなく商人であったとしても、佐吉のこの態度は正しい。
遠慮しなくともよいと孫九郎が言ったとしても、そもそも同じ室内にいる事だけでも、非礼だと顔を顰める者もいるのだ。
「構わぬから入れ」
「御前失礼いたします」
佐吉の、聞きようによっては気弱にも感じる柔らかな声。
敷居をまたいですぐのところで再び両手を付き、額を床に押し当てた。
「どうした。清水に用でもあったか?」
本当はわかっている。
この善良そうな男は、もはや今川家の御用商人だと言ってもいい。孫九郎が必要な時に必要なものを用立てるために、呼べばすぐ駆けつけることができる距離にいるのだ。
だが同時に、佐吉は忍びだ。この男の方から、わざわざ「挨拶」に来たというのなら、孫九郎の耳に入れておくべき何かがあるのだろう。
「大変申し訳ございませぬ」
佐吉は一通り話し終え、床に顔を向けたまま更に頭を低くした。
「米の動きが怪しいとは思うていたのです。報告が遅くなり、このような」
佐吉は商人目線で、今回の件の予兆を捕えていたという。
瀬名家がやけに兵糧や武器を集めていた。それは通常、戦準備だと判断して良い動きだ。
武家がどこかと戦をしようとした場合、どうしても兵糧や炭や塩、武具などをそろえなくてはならず、つまり商人には筒抜けになるのだ。
孫九郎は頭を下げ続けている佐吉を見下ろし、軽く顎をさすった。
「そちが見過ごしたのには理由があるだろう。瀬名が伊豆に参戦するという噂があったからか?」
「……いえ」
佐吉はしばらく、言おうか言うまいか迷う風に口ごもった。
「あくまでも噂でございますが……兵糧を買う銭が足らぬと」
「いやそんな事はないだろう、少なくとも今集めている五百を食わせるぐらいはあるはずだ」
瀬名の自領だけではなく、今川直轄領にまで手を付けていたのだから、ため込む余地は十分にあったはずだ。
だが、孫九郎の脳裏に別の考えが過った。
もしかすると、五百ではない? 実はもっと多くの兵を集めている、あるいはそうしようとしていた?
……いや違う。
頭の中のもやもやとしたものが、次第にはっきりとした形になってくる。
漠然とした不安が言語化できるまでになるには、それほどの時間はかからなかった。
まさか。いや、十分にあり得る。
たとえば本当に五百の兵すら贖うことができないのであれば、もとより本気で戦う気などなかったのではないか?
「佐吉」
「はい」
「礼を言う」
急に立ち上がった孫九郎に、皆が驚いた表情をする。
構わず数歩の距離を詰め、平伏したままの佐吉の肩に手を置いた。
きっとまだ間に合うはずだ。佐吉が遠回しに伝えてきたのも、そう思ったからだろう。
「兵糧は江浦へ運べ。任せて良いか?」
「……はい」
佐吉は言いたいことが伝わってほっとしたように、肩から力を抜いた。
江浦は伊豆ですぅ




