10-8 駿河 清水湊5
承菊の有能さについては、疑問の余地はない。
庵原家自体が、今川家中においては微妙な立ち位置だ。更には僧侶という身分も、その若さも、有象無象のやかまし屋どもを相手にかなり苦労したと思う。
そんな中、伊豆の戦略の八割がたを担い、北条からの攻めに二年間耐えきって見せた。
有能な男なのだ。「超」がつくほどに。
それを否定できる者はいないだろう。
だが……そう、承菊について語るなら、その文頭に「だが」や「しかし」がつく。
それは、承菊が庵原の出であることだけが原因ではない。
「……だ、大丈夫でしょうか」
誰もが同じことを思っていただろう。実は孫九郎もだ。
皆が辛抱している中、真っ先に不安に耐えかねたのは土井だった。
孫九郎は無言のまま、「まあ大丈夫だろう……多分」と、胸の内で呟いた。
長い付き合いなので、過たずそれを読み取った土井らが顔から血の気を引かせる。
「こちらも何か手を打った方がよいのでは」
いまだ降り続く大雨の向こうを透かし見るようにして、藤次郎もまた心配そうな口ぶりで言う。
「……いや」
今夜はどうせ何もできない。
豪雨の闇夜という、十人中九人が外に出たがらないような悪天候だ。軍が動くには足場が悪すぎる。
孫九郎は、嬉々として清水湊から去っていった僧形を思い浮かべながら、アレにつきあう松之助殿が気の毒でならなかった。
相当具合が悪そうだったのに、腹黒僧侶に豪雨の中連れ出されてしまったのだ。
承菊のやろうとしている事を止めるつもりはないが、松之助殿は引き留めてやるべきだった。
承菊には忍び衆を付けた。その追加の指令に、松之助殿レスキューの指示も出しておこう。
翌朝、豪雨が嘘のように上がった。
打って変わって天気は快晴。
ぺかっと照り輝く雲ひとつない空に、承菊の執念を見た気がした。
「……夕べお菊殿がいらしていたとか」
朝日が眩く差す客間に来て、こっそりそんな事を言いに来たのは、里殿だ。
一瞬誰の事かわからなかった。
そういえば承菊の亡き母親は興津家の出だったと思い出したのは、数秒置いてからだ。
「お菊」という柄かと噴き出しそうになったが……そういえば孫九郎は「お勝」だ。
人の事は言えないと神妙な表情を作って、「庵原にも飛び火した」と告げておく。
「巻き込まれるやもしれぬから、興津家も支度をしたほうがよい」
里殿は険しい表情で「まあ」と呟き、二年前の事を思い出したのだろう、ぎゅっと唇を引き締めた。
「心配致すな。念のためだ」
本当の内乱になるのであれば、瀬名庵原が真っ先に狙うのは政事の中枢である駿府、あるいは物資豊富な清水湊だ。
今は孫九郎が清水湊に滞在中なだけに、ここの危険は倍増している。
雨も上がったし、早めに今川館に戻るべきだろうか。
あるいは、今が一番、帰還するには危険かもしれない。
「陣屋に兵を集めます。かき集めれば百はおります。興津の里から呼び寄せれば倍にはなります」
里殿が決意を込めた表情でそう言って、小柄な夫、善之助に頷きかける。
善之助もまた険しい表情で頷きを返し、孫九郎に向かって丁寧に頭を下げてから部屋を出て行った。
「必ずや御無事に今川館までお連れ致します」
「……すまぬな」
夕べの温かい夕餉を思い出し、料理をする母の手に再び槍を握らせるのかと気が滅入ってきた。
「なんの」
返ってきた笑みは、心強いほどに明るかった。
「わたくしも武家の女にございますれば」
きっと二年前も、最後までこの表情で配下の者たちを導いたのだろう。
雨雲はどこにも見えないが、梅雨時期なだけにまたいつ天候が崩れるかわからない。
孫九郎の身を一番手固く守れるのは、やはり今川館の兵と合流することだろう。
桃源院様のもとへ行ったのはお忍びだったので、随員は五十人ほどだ。
瀬名と庵原の兵がまとめて襲い掛かってくれば、孫九郎はもとよりその側付きや護衛、興津衆らも多大な被害を負うだろう。
幸いにも今川館まで目と鼻の先なので、奴らの姿が見えないうちに動けば接敵することなく戻れるだろう。
地の利があるのはお互い様だから、伏兵の罠に落ちるという事もないだろうし……
「佐吉が清水におります」
寸前までは絶対どこか違う場所にいた弥太郎が、耳元で囁いてきた。
今更驚くこともなくその顔を見上げて、弥太郎のその唐突な出現よりも、佐吉がタイムリーにこの場にいる事の方を不思議に思った。
いや、商人が湊にいるのはおかしなことではない。
たまたまこの状況に巻き込まれたわけでは絶対にないと思うが。
「女子供は商船にのせ、沖に出るというのはどうかと申し出ております」
佐吉の船は大きいので、清水にいる非戦闘員を積んで安全圏まで離れているというのは悪くない話だ。
いやそれよりも、その者たちを駿府に送り届けてくれると助かる。
孫九郎も安全のためにそうしたほうがいい? うん? どの口がそんな事を言っているんだ? 土井か?
じろりと睨むと、土井ははっとしたように背筋を伸ばし、次いでしおしおと項垂れた。
思い出したか、馬鹿野郎。
また桶を恋人のように抱きしめて過ごすのは絶対に嫌だからな!




