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春暁記  作者: 槐
断章

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次郎三郎5(9-1)

「あっ、兄上!」

 四郎と信介の笑顔を見たのは、いつ振りだろうか。

 はじけるようなその笑い声に、泣きそうになった。

 長兄だ、もう大きいのだと、自らをずっと律してきた。その壁はあっけなく崩れ落ち、すぐには言葉も出なかった。

 泣かなかったぞ。そこは死守した。

 だが母は気づいたようで、何度も小さく頷き返してくれた。

「……御無事で何よりでございます」

「おお、そなたも無事でしたか。よかった」

 松姫様はいまだやつれ顔色が悪かったが、次郎三郎に安堵したような笑顔を向けてきた。

 身分的には主家の姫だが、母にとっての義妹、父にとっての従妹……つまり血統的には近しい親族だ。

気にかけて大切に思うのは当たり前。

 だが、あたりまえのはずのそんな事を、多くが忘れてしまっている。いやむしろ、血が近いことこそが争いの理由になる世の中だ。

「あのあとどうされておりましたか? 恐ろしい目に遭うているのではと、気がかりでした」

「奥の丸にいらした天野殿が、我らを保護してくだされた。なかなかできた御方じゃ」

 次郎三郎は、のほほんとした中年武将の特徴的な面立ちを思い出し、なかなか母の言う「出来た御方」という言葉と結びつかなかったが、見た目と実情の乖離について思うところもあったので、「そうですか」と頷いておいた。

「兄上! お勝様が釣りにお誘い下されました! 参りましょう! さあ!」

 四郎の声は、語尾がいちいち跳ね上がるほど楽しげで、もうすっかり普段通りの快活さを取り戻していた。

 釣りの誘いなら次郎三郎も受けた。

 支度をするからその間に母と弟たちの顔を見て参れと、ありがたい心遣いを頂き、一時お側を離れたのだ。

「今川の殿から、小姓にならぬかとお誘いを受けました。母上はどう思われますか」

「……なんと」

「四郎らについては、松姫様のお側で若君方にお仕えすればよいと」

 松姫様は、源九郎殿の奥方として遠江に行かれるそうだ。源九郎殿は今川の殿の叔父であり、いわく「任せたい仕事はいくらでもある」のだとか。

 その揺るぎない、まっすぐな信頼関係を目の当たりにして、次郎三郎の胸に過るのは羨望と悔恨だ。

 海野一族に、せめてこの半分でも互いへの思いやりがあれば、話はまったく違うものになっていただろう。年少の次郎三郎にできたことなどたいしてないだろうが、それでも、叔父を失わずに済む道はあったはずだ。

「次郎三郎」

 浮かないその表情に何を思ったか、母は諭すような声色で口を開いた。

「小県に未練があるのなら、そう申し出なさい。他の道も示して下さるでしょう」

 未練? 確かに郷里だという思いはある。

 だが同時に、多くの大切なものを奪っていった土地だ。

「わたくしたちへの心配や、救ってもらった恩義だけでお仕えするのは、かえって失礼に当たります」

「……母上」

「わたくしたちの行く末にも気を配って下さるのですね。お優しい御方です」

 ふと、「釣り!」と大きな声で仰って、目を輝かせた幼げな顔を思い出す。

 驚くべき手腕であっという間に海野平の問題に介入した今川の殿は、実際はまだ次郎三郎よりも年下で、あどけない表情をなさる御方でもある。

「数え十二だとのことです」

「まことですか? 遠目に拝見したのですけれども、信介と変わらぬ年頃に……」

「お身体が小さい事を気になさっておいでのようよ」

「……まあ」

 松姫様の楽しげな口調に、母もまた嬉しそうに相槌を打つ。

 楽しそうなところ申し訳ないが、もっと声を潜めたほうが……そう言おうとしたところで、双子の赤子が同じ呼吸で泣き始めた。

 乳母を含めた女たち三人が、慌ただしく席を立つ。

 残された真田三兄弟は互いに顔を見合わせた。

 泣く子に待てとも言えず、結局相談事の答えは出なかったが、何よりも母と松姫様が明るく楽しそうになさっている事に心から安堵した。

「兄上」

 三つ年下の四郎が、更に三つ下の末の弟と同じ幼子のような目で見上げてくる。

「釣り!」

 末っ子信介の強請る声は、四半刻前に聞いた今川の殿の口調と全く同じだった。


「ぐぬぬぬ」

 何とも表現しようもない顔で餌が無くなった針先を睨んでいるのが、本当に噂の駿河の竜なのだろうか。

「兄上、もう一度!」

 そういって、ひときわ大きなミミズをつまんで眉を垂らしているのは、今川の殿の弟君だそうだ。

 どうして釣りにそこまで苦労しているのかわからない次郎三郎は、ひょいっと手首をひねって次の獲物を釣り上げた。

「待て次郎三郎、何匹目だ?」

 不機嫌そうにそんな事を言われて、最初のうちは肝が冷えたが、すぐに気にするのはやめた。

「……さあ、十五匹? いや十八?」

「ぐう」

 悔しそうに歯噛みし、足を踏み鳴らす様は、数え十二というには首を傾げたくなるが、まあ年相応だ。

「次こそは絶対に釣る!」

「その意気です!」

 拍手でもしかねない熱心さで応援しているのは幸松様だけで、同じように釣り糸を垂れている他の子供たちは普通にくすくすと笑っている。

 それだけで、彼らが気の置けない仲なのだと伝わってきた。

「次郎三郎、コツがあるのだろう?」

「コツですか? 魚がいる場所にそっと針を投げて、こう………くいっと」

「くいっとではわからぬ! 餌は深く沈めるのか? 浅くが良いか? 食ったらすぐ引くのか? 一呼吸待つのか?」

「ええっと」

 接していてわかるのは、非常に細かく頭で考える御方だという事だ。

 次郎三郎の進言を素直に「うんうん」と聞き、言ったとおりにやろうとしているのはわかるのだが、どうしてもどこかで失敗してしまう。実は不器用か?

「ああああっ」

 残念ながら今回もまた獲物を逃し、竿を引いた瞬間にそれを察知した幸松様が頭を抱えて悲鳴をあげた。

「幸松! 大きな声を出すな! 魚が逃げるだろう」

「すみませんっ」

「幸松も釣れ。今夜は皆に魚を振舞うのだ」

 きっと幸松様は、今川の殿よりも多く釣ることを控えている。

 だが今川の殿は、そんな気遣いは不要と言外に告げている。

 一生懸命に竿先に意識を集中させ、唇を尖らせている様は、まるっきり普通の子供と変わらなかった。

 むしろ同じ年頃の他の子よりも、鈍くさく……いや、こんなことを言ったら幸松様に切り殺されそうだ。

 こっそり魚籠の中身を隠そうとしている四郎に目配せした。

 周囲に劣ることよりも、それを気遣われる方を気にされる御方だ。隠すのはやめておいた方がいい。

「あ、釣れました」

「あああああっ」

 次郎三郎が大きめの一匹を引き上げると同時に、またも獲物を逃した今川の殿は「ぐぬぬ」と呻き、幸松様が悲鳴をあげる。

 次郎三郎は、自身の唇が知らずほころんでいる事に気づき、下を向いた。

「お楽しみのところ失礼いたします」

 今川の殿の側付き、三浦様が半笑いの表情で声を掛けてきた。

「しばし待て、この一投が……」

「軍議の用意が整いました」

「もう少し」

「また逢坂様に叱られますよ」

 どんなに幼い子供に見えたとしても、この御方は名門今川家の主だ。駿河遠江の二か国と、三河の半分を勢力圏に置いている、おそらく今の日ノ本でも屈指の大名だ。

 今でもありありと目に浮かぶのは、太平寺城ですべてを掌握していた姿。

 小県の国人衆を畏怖させ、ぐうの音も出ないほどに圧倒した。

 ここにいる誰もがそれをわかっていて、同時に気軽に釣り下手を笑える雰囲気があるのは驚くべきことだ。

「あ」

 今川の殿が竿を引いた瞬間、掛かっていると察知したのは数名。

 小さな身体が引っ張られてぐらりと身体が傾き滑った。

 大勢が腰を浮かせる中、次郎三郎は無意識のうちに、その腕をつかみ引き留めていた。

 次郎三郎が右側、幸松様が左側から。川に突っ込む寸前、ギリギリのところだった。

「あ、危ないではないですか! 気を付けてください‼」

 駆け寄ってきた三浦様に叱られるが、今川の殿の目は、流れていく竿を未練たっぷりに追っている。

「だいじない」

「だいじがあっては困ります」

「竿が流れた」

「誰かに拾わせます」

「最後のあれは惜しかった。大物そうだった」

「そうですねぇ」

 笑ってはいけない。

 三浦様の、不器用な弟にむけるような表情から、次郎三郎はそっと視線を逸らせた。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 信介6歳と変わらぬ お勝様10歳… ま、まぁ幼少期の栄養失調がね、うん、影響してるだけでこれから挽回できるさ、きっと、多分、恐らく、もしかしたら。
[一言] 今話も面白かったです。 毎回ワクワクしながら読める小説、ありがたいです。
[一言] 最後にほのぼのしてくれた、とてもうれしい。
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