次郎三郎1(第一次海野平の戦いの直前)
父が討ち死にした時、母の一部も死んだ。
真っ青になった母の顔が、やがて作り物のように表情を失くすのを、次郎三郎は何もできずに見ているしかなかった。
父は討ち死にしたのではなく、殺されたのだ。それを知ったのは、漏れ聞こえてくる噂からだ。
真偽を母に確かめた時の、遠くを見る目つきが忘れられない。
海野で戦働きができる男子の数は限られていて、父はその中の代表格だった。
父の弟である新之助叔父と、遠江から入り婿できた源九郎殿、あとは御正室三輪御前の一族の何人か。
病弱な若殿を嫡男から外すことになった場合、次の候補は父あるいは源九郎殿のはずだった。
すべてが変わったのは、海野の殿が倒れた後だ。
若殿が今更ながらに、大勢の側室や妾を迎えたと聞いた。
次郎三郎が知るのは口さがない噂だけだが、父はとある方々にとって「邪魔」になったのだそうだ。
何も言わない母の表情を見れば、あながちそれが嘘でもないのがわかる。
父が死んでから、母は用心深くなった。
俺たち兄弟を、太平寺城には近づけなくなった。
昏い表情の母に直接理由を問うことはできなかったが、父が死んですぐに叔父に嫁ぐようにと命じられたと聞いて、察した。
次の邪魔者は叔父上だ。
確信を持ってそう問いかけた時、母は何も言わず、叔父は淡く苦笑した。
そうしているうちに、源九郎殿に子供が生まれ、しかも男子が二人だった。
知らせを受け取った時の母は、何かを強く決意したような顔をしていた。
今思えば、その時に二人からしっかりと話を聞き、引き留めておけばよかったのだ。
そうすれば、母が太平寺城で囚われの身となる事はなく、叔父上も……
母は次郎三郎ら兄弟を城に残し、単身で太平寺城に居を移した。
やがて村上が攻めてきて、我ら兄弟が迎えを詐称する連中に太平寺城まで連れて来られて。
信じたくはなかったが、海野は武田に乗っ取られる寸前なのだと知った。
元服もまだの次郎三郎には、物を言う権利はない。
太平寺城に来たのに、母とも滅多に会えない時間が過ぎ、弟たちとともに奥殿の深くに留め置かれた。
移動が許されているのは、居室と厠とを往復する時だけ。
次郎三郎は城内の兵たちに過剰なほど警戒されていた。
元服もまだの、一門衆の嫡男を?
その状況に疑問を持たない者たちに、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
兵の多くは幼いころからの顔見知りなのに、次郎三郎に槍を突きつけ、荒い口調でおとなしくしていろと威嚇する。
兵らの中に混じった見知らぬ者たちが甲斐衆だと気づいた時、太平寺城の勢力図が大きく塗り替わっているのを察した。
ここは海野の主城だ。それは間違いない。
だがもはや、城内で最も権力をもつのは、奥の畳敷きの間で横になっている、でっぷりと腹の大きな女だった。
若殿の御子を身ごもった女は、まだ若かった。
次郎三郎と十も変わらぬ、あでやかな美女だ。
小県の山奥ではついぞ見かける事のない派手な着物に、おしろいをはたいた真っ白な肌。
ふっくらした唇には、いつも真っ赤な紅が引かれ、大きな目を縁取るまつ毛は常に物憂げに揺れている。
喋り方もおっとりと京訛り。吐息混じりのかすれた声を、大人たちは色っぽいと言う。
お尚の方と呼ばれるその女は、対面した時にはいつも、じっともの言いたげにこちらを見てくる。
その目つきが恐ろしいと、弟たちは言う。
次郎三郎は怖いというより、ぞわりと背筋に悪寒を覚える。
話しかけてくる京訛りの口調が、一生苦手になりそうだった。
「奥には絶対に近づいてはなりません」
滅多に会えない母が、聞き取れないほどの小声で注意をする。
弟たちは理解できない様子で、久々に会う母に甘えたそうにしていたが、次郎三郎は母のその表情に嫌な予感を覚えた。
「……母上」
「急ぎこの城から落ちる手筈を整えています。今、源九郎殿の甥御さまが軍を率いて来ておられるそうです。おそらく太平寺城にいらっしゃるでしょうから、その中に素早く入り込むのです」
「母上!」
次郎三郎は、どこか焦点のあっていない母の目を覗き込んだ。
「何をなさるおつもりですか」
ぐっと握った母の腕は、記憶の中にあるものよりも痩せていた。
ぼんやりとこちらに巡らされた双眸には、うっすらと涙の膜が張っている。
母は、父が死んだときにすら泣かなかった。
強い人だと知っている。覚悟を持った人だと知っている。
そんな母が、兄弟を見下ろして目を潤ませている。
これが今生の別れになるのかもしれない。
そんな予感に、ぎゅうとみぞおちのあたりが固くなった。
……いや、駄目だ。父に続いて、母まで失うわけにはいかない。
もう一度、両手に力を込めた。
まだ母の背は抜けないが、次郎三郎は真田の嫡男だ。
もう元服をしていてもよい年齢に差し掛かり、叔父と母とを娶せるという話がなければ後を継いでいてもおかしくはなかった。
「母上、聞いてください」
その腕の細さに切ないものを感じながら、はっきりした口調で言った。
「松姫さまとその御子らをお救いし、今川軍と合流せねばなりません」
母は、はっとしたように次郎三郎に焦点をあわせた。
その血の気の失せた顔に力強く頷きを返し、こちらの様子をうかがっているように見える奥殿の武士らに、ちらりと目を向けた。
思いついたことを言葉にするには、今の刻限は都合がよかった。
周囲は夜で、室内にいる次郎三郎らの口元まではうかがい知ることができない。
小声で囁けば、こちらを見張っている者たちのもとまで声は届かない。
「城の外にいる村上軍の動きが妙なのです」
「……」
「今川軍が、千曲川の対岸まで来ているのだと思います」
母の目が迷うように薄闇の中を動いた。
次郎三郎だけではなく、三兄弟のそれぞれの顔にじっと目をこらしている。
「戦が起こるのであれば、好機です」
厳重な監視下の今は、何も手を打てない。
だが城の外で戦が起これば、奥殿とはいえ混乱するだろう。
何かできるとすれば、その間だ。
「松姫様と御子らを、安全な場所にお隠しせねばなりません」
もし今川軍が太平寺城の中まで来てくれるのならいいが、村上に追い払われることも考えなければならない。
ドーンドーンドーン
遠くからかすかに陣太鼓の音が聞こえてくる。
下の弟がパッと顔を上げ、外を見て、泣きそうな表情になった。
父が死んだときのことを思い出したのだろう。
次郎三郎も、真ん中の弟、四郎もそうだ。母とてきっと同じ。
ぎゅっと、懐にひそませた懐剣を握りしめた。
―――父上、どうか見ていてください
次郎三郎は心の中でそう呟いてから、この先のことを手早く皆に話した。
何もかもが上手くいけば、皆で再び会うことができるだろう。
だがしかし、今生の別れになる可能性も大いにあった。
母の細い手が、三兄弟をまとめて抱きしめる。
もっとずっと幼い頃以来のその抱擁に、奥歯を噛みしめ腕を回し返した。
すいません、一話に入りませんでしたぁ




