8-2 信濃 小県 太平寺城2
「……今川……じぶ?」
静まり返ったその場に、子供の声がやけに大きく聞こえた。
治部ってのは治部大輔のことだぞ。……どうしよう、「いまかわじぶ」って名前だと思われていたら。
海野衆は探していた子供の居場所に気づいてそちらを見たが、空気を読んで全員がその場で膝を折った。
孫九郎は、唖然とした表情の少年を振り返った。
適度に日焼けをした健康的な肌色で、かといって農民の子というわけではなく、身なりもそこそこいい感じの武家の子だ。
追われていた、というのは何かをしたからか。あるいは逃げたことそのものが問題なのか。
「真田の子か」
孫九郎が問うと、身を隠そうと丸まっていた背中がピンと伸びた。
上げた顔をよくよく見れば、そこはかとなく新之助殿に似た面差しをしている。
「も、申し訳ございませぬ! その子どもはお尚の方の打ち掛けに火をつけ逃げ出すという悪戯をしでかしまして」
追っ手の男が、顔を上げないまま声を張った。
お尚の方というのは? ……ああ、身ごもったという武田殿の妹「辰殿」のことか。身重の女性の衣に火をつけたのか? それはちょっとどうなんだ。
咎める目で見下ろすと、むっつりと唇を引き結び、睨み返してきた。
これだけ大勢の視線にさらされても、怯えるでもなく臆するでもない。
「……それで?」
孫九郎は重なった視線を外さず問いかけた。
「お方さまはたいそうお怒りで、すぐにも連れ戻すようにと……」
「つまり、命に障るようなことにはならなかったのか」
少年の顔がひどく悔しそうで、なるほど、この子なりに決意を込めた行動だったのだと知れた。
殺す気だったのか? それが武田に御家を乗っ取られないためにだというなら、短絡的ではあるが肝は据わっている。
「申し訳ないのですが、その子の身柄を引き渡して頂けぬでしょうか」
今川勢の前で膝をついている者たちがそう言った瞬間、少年は逃げ出そうとした。
とっさにその腕をつかんだのは、一番近い位置にいた南だ。
あまりにも勢いよく動いたので、引き留めた際にも振りがついて、背の高い南に引っ張られて両足が浮いた。
孫九郎よりいくらか年上なので、それなりに身体も大きい。南がとっさに両足を踏ん張らなければ、そのまま二人して転んでいただろう。
「離せっ!」
少年が暴れても、南は微動だにしない。
だが扱いかねて閉口したように孫九郎に助けを求めてきた。
「離せぇぇぇぇぇっ」
「名は」
「真田次郎三郎様にございます」
答えたのは弥太郎だ。
やはり真田の子だった。柔和な雰囲気の新之助殿とは違い、気性はかなり荒そうだ。
必死になって逃れようとしているその様子を観察していると、南が盛大に顔をしかめた。かなり強く脛を蹴られたようだ。
視線で許しを求められたので頷き返すと、南は少年を捕まえていた手を離した。
その瞬間、勢いよく放り投げられた形の次郎三郎が、土の上にもんどりうって転がる。
どこかをぶつけたのか動きが止まって、その隙に手際よく地面に押さえつけられた。
「……おお、助かります。暴れ者故に手を焼いておりまして」
先程、この子の身柄を要求してきた男が、安堵した様子で言った。
「観念しろよ小僧、今度という今度は折檻では済まぬぞ!」
……折檻? 相手は仮にも海野一族に連なる家の子ではないのか?
「次郎三郎」
孫九郎は、いまだ諦めず暴れる少年に声を掛けた。
舌か唇かを噛んだらしく、口角から血が伝い、真っ赤に充血した目で睨みあげられた。
「……やろうとしたことはわかるが、悪手だ」
たとえば腹の子が流れたとしても、お尚の方が死んだとしても、海野が武田の血を入れようと思えば代わりを呼べばよいだけだ。
「あの、その者をこちらに」
おもねるような声を無視して、孫九郎は次郎三郎の様子を観察した。
顔にあるのは青痣か。そこそこの身分の子らしく身ぎれいにはしているが、むき出しになった手足に擦り傷や打ち付けたような痕がある。
気性の荒さからも、いわれのない体罰を諾々と受け容れる子には見えないが、扱いは良くないようだ。
「新之助殿は村上殿の首を取ろうと襲い掛かり、捕らえられた。もう戻っては来ぬ」
耳はちゃんと聞こえているようで、次郎三郎は耐えがたいという風に唸った。
こちらを射殺しかねない目で睨んできて、その強さに感心していると、切れ上がった目からボロりと大粒の涙がこぼれた。
魂がすりつぶされるような唸り声をあげて、押さえつける南をなおも跳ねのけようとしている。
孫九郎は少し考えてから、次郎三郎との距離を詰めた。
南が、押さえつける手に力を込めたようで、暴れていた動きが少し収まる。
数歩ほど離れた距離で立ち止まり、その場で屈むと、頬を涙と泥で汚した少年の荒い息遣いが聞こえた。
「望みは」
試そうとしたわけではない。だが、見どころのあるこの子ならば、海野の後継者となり得るのではないかと思ったのだ。
もしここで、海野の行く末を語られたのなら、孫九郎はその思いを汲んで当主のすげ替えを考えたかもしれない。
「父と叔父を殺した女の首」
だがしかし、次郎三郎の答えは違った。
はっきりとした大きな声が、誤解しようもない憎悪を込めてそう言った。
「……このっ」
海野衆の武士が、目を吊り上げて次郎三郎に駆け寄ってこようとしたが、孫九郎が何かをするまでもなく、その動きは今川の兵らによって遮られた。
「そうか」
ここで武田や村上の名は出て来ず、「女」と言い切った慧眼に、孫九郎は頷きを返した。
「……ならばついて参れ。途中で口を挟まぬという条件を飲むのなら、ことの行く末を見せてやろう」
ギリ、と奥歯を噛みしめる音がした。
約束など守る気はなさそうだし、なんならこちらにまで噛みついてきそうだ。
だが孫九郎は、この手のタイプの扱いに慣れていた。
「因果応報だ」
小さな声でそう囁き、首だけ持ち上げてこちらを睨んでいる少年の頭をポンポンと叩いた。




