1-4 遠江 掛川城1
孫九郎は一面に水が張られた水田にみとれた。太陽を照り返し、まるで巨大な鏡のように、青空を映し出している。
二か月前に来たときには、一面の蓮華畑だった。
湿り気を帯びた風に目を細め、もうすぐ田植えの季節だと唇をほころばせる。
戦国時代についての知識はなかったが、一般的な農業についてはある程度知っている。
専門ではないので、遺伝子云々の話になると手も足も出ないが、人工授粉の方法やらマメ科の雑草を植えるといい事などは知っている。優性遺伝の法則についても、多少は言える事がある。
それらは当初、周囲より優位に立てるほどの知識ではないと思っていた。
だがこういう立場に立ってみると、そうとも言えない。
この時代の農業は、かなり感覚的なものが多い。それは先人の知恵であり、馬鹿にできるものではないが、それにちょっとの知識を加えると大いに化ける。
たった二年で、遠江の水田は見違えるような景色になった。
きっちり等間隔、苗も少数。稲の刈り入れ後に蓮華の種をまく。
たいして複雑でもないそれらの指示が、六年前から福島家の領地で試行錯誤され、今では遠江全域に、そのうち駿河にも広がるだろう。
「今年は蜂蜜がたくさん採れそうとの事ですよ!」
「危ないから、巣箱には近づくんじゃないぞ……まさか行ったのか?」
こちらもテスト段階だが、養蜂にチャレンジしている。
こんな時代だから防護服などはなく、竹籠に紗の布をかぶせたものでマスクの代わりにしてみたり、手袋を作らせたり。こちらも試行錯誤しているが、農業より割とすぐに結果が出てきているのでやりがいもある。
蓮華畑が増えたので、良い蜜がとれるのだろう。
「刺されなかったか?」
甘味の少ないこの時代、子供にとって蜂蜜は麻薬のようなものだ。
言い聞かせて我慢できる類のものではないので、苦笑しながらそう問うと、幸松は少し気まずそうな表情をしながらも頷いた。
「美味かったろう」
「はいっ」
米作に養蜂、更には綿花と茶葉の栽培。
農業で国を富ませるのは、楽しくて良い。
「いかほどでお売り頂けるでしょうか」
最近では方々の商人も目を付け始めていて、今川館には頻繁に堺から商人がやってくる。
孫九郎は、揉み手をしそうな佐吉の表情を横目で見て、「いずれな」と返した。
忍びであるこの男の事だから、どこで何を作っているのかなどバレバレなのだろうが、逆を言えば優先権を得るために情報が漏れないようにもしてくれる。
駿府に日向屋の支店を出した佐吉は、もはや忍びで得る銭より多く商売で稼いでいるだろう。
今回遠江まで祝いの品を運ぶ名目で同行しているが、きっと目当てはその蜂蜜だ。
あの強い甘みは、大量の銭を積んでも欲しがる者は多い。
孫九郎はそれをただ流通させるのではなく、たとえば谷に差し入れしている女中の実家のようなところに、菓子などに加工させて更に付加価値をあげようと目論んでいる。
蜂蜜だけではなく、蜜蝋で蝋燭やハンドクリームも作れるし。
今川館でさえ手荒れがひどい女中が多いから、きっと需要はあるはず。
「お勝殿は商売人ですな」
佐吉がいくらか渋い表情でそう言うと、もはや孫九郎の周辺は慣れたもの、多少のそう言った発言にも動じないが、幸松は違った。
侮辱されたように感じたのだろう、ムッとしたようにその唇がへの字に歪む。
「そう言われると嬉しい」
その怒りが爆発しないうちに、孫九郎は笑って言った。
「今川を食い物にされるのは勘弁だ」
むしろ商人に「商売人」と言われるぐらいでないと。あいつらは親しくしている相手からでも、平気でうまい所をさらっていくからな。
孫九郎は、不服そうな幸松の背中をポンポンと叩いた。
「見よ、美しい眺めだ。ここにもうじき稲を植える。秋には一面に穂を垂れるだろう。この景色を守るために我らはいるのだ」
「……っ、はい!」
だからつまらない事で感情を乱すなと言いたかったのだが、幸松は別のものに気を取られた様子でシャキンと背筋を伸ばした。
「父上です」
「……ぅ!」
いやむしろ、何故気づく。
孫九郎の目には、幸松や土井に見えているであろうものがさっぱりわからない。
だが確かに、遠くから呼ばれている気配がする。
その声が次第に大きくなり、小指の先ほどのサイズになって、ようやく幸松が言う通り父だとわかった。
「お勝ぅぅっ!」
いや、お勝でいいんだけれども。
相変わらずの大音声に、孫九郎だけではなく、周囲の者たち皆が苦笑をのみこんだ。
掛川城、北奥。
かつて朝比奈殿の奥方が住んでいた場所には、今は幸松の妹とその母親がいる。
ここはそれよりもっと奥、朝比奈殿ご本人が長い間いた居室らしい。
父は滅多に帰らないので、現在は主に幸松が使っているとか。
元服もまだなのに? とほんの少し感じた疑問は、幸松の側付き全員に改めて挨拶を受けておおよそ事情を察した。
その顔ぶれが、一新していたのだ。
今川館で会う時には、せいぜいひとりしか連れて来ないので、ここまで総入れ替えしている事に気づかなかった。
かつては馬廻りの集団で構成されていた。
今はどうなのかわからないが、少なくとも幼少期に側にいた連中は一人もいない。
母親とうまくいっていないのか? あるいは父の意向か?
何かがあったのは確かだが、孫九郎が聞いていいものかわからず、結局じっとその側付きたちを見つめただけだ。
やがて用を済ませた父が戻ってきた。
その気になれば静かに歩けるはずなのに、相変わらずドスドスと荒い足音が遠くからでも聞こえる。
孫九郎は立ち上がり、下座に座ろうとする父の隣に先に座を占める。
困ったように垂れた目を見上げて、ニコリと微笑んだ。
「改めまして、御無事で何よりです」
相変わらず父は一年の大半を前線で過ごす。
「甲斐方面に変わりはありませんか?」
「……うむ」
孫九郎はすでに福島の家を離れている。義理の親子というつながりは形式上なくなり、残るは実の祖父と孫という関係性だけだ。
親子であっても、もはや孫九郎のほうが身分が高く、すでに公式の場では上座で頭を下げられる立場なのだが、ここはあくまでも私的な場所だ。
父も少し迷った風ではあったが、孫九郎が変わらずニコニコとしているので「ふう」と息を吐いた。
「その方も変わらずか? 風邪などひいておらぬか?」
「ええ、はい。ずいぶん丈夫になりました」
前に顔を合わせたのは、年始だった。
孫九郎は今川館に缶詰めだったし、父は前線に張り付いていた。
互いに言葉を交わすのは半年ぶりだし、こうやって親しい距離でいる事も一年以上なかった。
「源九郎叔父上に御子が生まれたと聞きました」
「……うむ」
一瞬ほころんだ表情が、渋いものを食べたかのように顰められる。
父は非常にわかりやすいので、孫九郎が知らない何かがあるのだとすぐに察しがついた。
ここで聞き出すべきか。
そう思って更に口を開こうとしたその時。
廊下を走る、とてとてと軽い足音がした。




