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春暁記  作者: 槐
信濃編

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36/301

5-3 信濃 佐久前山集落1

 ざああああと木々が風に揺れる。

 その間からちらちらとこぼれているのは、前山集落に灯る篝火と松明の明かりだ。

 乱取り上等の武田軍は、容赦なく集落を蹂躙し、日が暮れたからだろう、そのままそこに本陣を敷いた。

 かなり深くまでの侵攻だ。本気で佐久を獲ってしまえそうな勢いだ。

 だが、彼らが狙うのは城ではなく村や小さめの町だけだった。

 蓄えているものを根こそぎ奪い、若い女や子供も攫って行くのだという。

 武田といえば武田信玄。甲斐の猛将。武勇の誉れ高い武田軍……それってどこの軍の事だよと、突き詰めて聞きたくなる無法っぷりだ。

 ……いや、本当はわかっている。戦で負けるとは、こういう事なのだ。

 強めの風が吹く。

 さざ波のような葉擦れの音が、四方八方から押し寄せてくる。

 大きく息を吸って吐いた。

 肺に満ちるのは、雨あがりの湿った土と草の匂いだ。

 だが、その向こうからかすかに伝わってくる血なまぐささ……いつからこれを、「ああそうか」と流せるようになったのだろう。

「……はじまったか」

 何か音が聞こえたわけでも、松明の明かりが慌ただしく揺れたわけではない。

 だがあたりまえのように、そうと察した。


 今川軍が予定の場所に到着した時、すでに集落は燃えていた。

 中央通りに大きな建屋が複数並ぶ、かなりの規模の集落だったのに。

 近づく前に、鼻が曲がりそうな臭いがした。血と臓物と脂の混じりあった臭い。更には、たんぱく質が焦げるなんとも言えない臭いだ。

 とてもではないが深呼吸する気になれず、浅く息を吐いた。

 既に戦いは始まっている。

 海野と佐久衆の連合軍が、夜襲をかけたのだ。

 ここが敵地だとわかっていた武田軍も、ある程度は反撃を予想していたのだろう。見たところ、それほど大きな混乱が起こっている様子はない。

 奇襲も、待ち構えられていたら奇襲にはならない。

 二千と五百では勝負にもならないと、余裕があるようにすら見える。

 確かに、この兵差ならばそうだろう。

「幸松」

 孫九郎が発したのは、葉擦れの音にもまぎれそうなほど小さな声だ。

 だがそれを受けて、ぴくりと大きな身体が揺れた。

 暗すぎて誰がどこにいるのかわからないが、子供たちを見分けるのは容易だ。

 小さな影は一塊になって、おそらく幸松なのだろう少年を守るように取り巻いている。

 この子たちを後方にやらなかったのは、今からの戦いが安全だと思ったからではない。

 見せたかった。

 戦はきれいなものではないという事を。無残に散る未来もあるのだと、想像してみて欲しかった。

「しっかり目に焼き付けておけ」

 子供だからと、見ないでいる事は許されない。


 天野殿の合図で、今川軍が鬨の声もなく攻撃を開始した。

 残念ながら弓兵は連れてきていないので、初手は長槍部隊の強襲だ。文字通り尻を突かれた形になって、今度こそ武田に動揺が走った。

「三番陣形!」

 天野殿の怒声に合わせて、槍部隊が動く。

 おおこれはなかなか見事。

 暗がりでわかるほどに整然と並ぶ穂先が、ブルドーザーのように横一列に斜面を下っていく。

 ちなみに、戦場での槍の使い方は「突き刺す」ではない。むしろ「叩く」だ。

 敵を刺してしまえば抜くのに手間取り隙ができてしまう。薙刀のように振り、長い柄の部分で叩くのがメインの戦法になる。

 斜面の高い位置からの攻撃は、敵の尻よりも頭蓋骨に甚大な被害を上げていった。

 だがさすがは武田。持ち直すのも早かった。見ていてわかるほどに、攻め切れていない。

 足場はこちらの方が圧倒的に有利な場所なので、あとは立ち回りだろうが……

「四番陣形!」

 天野殿の再びの号令が、若干遠くなった場所から聞こえた。

 今度はくさび型? いや、先頭に負担が多いんじゃないのか?

 今川本陣から見下ろす孫九郎の目で実際に把握できたのは、ここまでだった。

 夜なので、たとえ村中から火の手が上がっているとしても、戦況のすべては見てとれない。だが挟撃がきれいに決まり、大幅に武田兵の数は減らせたと思う。

 あとは敵に攻め込ませない事。

 天野殿はどちらかというと堅い防御の方に定評があるから、兵数という物量で有利になれば負けはしないはず。


 やがて武田は、じりじりと兵を退き始めた。

 目に見えての敗走でないから、後方からの追撃ができない。

 あと五百兵が多ければ、三方から封じ込める事ができたか? 例えば今川軍を二手に分けて……いや、殲滅まで行こうと思えば、こちらの被害も多くなるだろう、これでよかったのだ。

 天野殿には、無理に追わなくてもいいと言ったのだが、少し本陣と距離が開いてしまった。

 ひやりとしたのは、武田の騎馬隊が天野殿の背後に回ろうとしたことだ。

 二木は戦線を上げ、本陣を前山集落まで下ろした。

 暗がりから出てきた子供の集団を、武田騎馬隊は、海野軍や佐久衆の者たちはどう思っただろう。

「くしまあぁぁぁっ!」

 ものすごく遠くからそんな叫び声が聞こえた。

 飛んできた長弓の矢は子供たちに到達する前にすべて落とされた。

 武田軍を率いているのは、どうやらご当主直々らしい。あの血の気の多さには困っている者も多そうだな。

「おのれ卑怯者! 夜討ちをかけるなど……」

 ああ……うん。遠くから何か言っているけど気にしないように。

 奇襲されるって、警戒してたよね? 最初の海野佐久軍は待ち構えていたように見えた。

 今川軍が迫っているって気づいていなかっただけだよね?

 優位を過信しすぎたな。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新時間も夜襲に合わせたみたいでありがとうございます。 次の更新は未明ですか。
[気になる点] たぶん信虎は、軍を率いてるのが上総介パパだと思って、奇襲という手を使ってくるとは思って無かったのでしょうね 上総介パパ、奇襲よりも正面突破してきそうだから [一言] ところで、信虎は…
[気になる点] 初陣初対面の幸松相手に叫んでるはずはないから───海野の軍神・福島助也が武田信虎の本陣にカチコミしてないですか?
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