5-3 信濃 佐久前山集落1
ざああああと木々が風に揺れる。
その間からちらちらとこぼれているのは、前山集落に灯る篝火と松明の明かりだ。
乱取り上等の武田軍は、容赦なく集落を蹂躙し、日が暮れたからだろう、そのままそこに本陣を敷いた。
かなり深くまでの侵攻だ。本気で佐久を獲ってしまえそうな勢いだ。
だが、彼らが狙うのは城ではなく村や小さめの町だけだった。
蓄えているものを根こそぎ奪い、若い女や子供も攫って行くのだという。
武田といえば武田信玄。甲斐の猛将。武勇の誉れ高い武田軍……それってどこの軍の事だよと、突き詰めて聞きたくなる無法っぷりだ。
……いや、本当はわかっている。戦で負けるとは、こういう事なのだ。
強めの風が吹く。
さざ波のような葉擦れの音が、四方八方から押し寄せてくる。
大きく息を吸って吐いた。
肺に満ちるのは、雨あがりの湿った土と草の匂いだ。
だが、その向こうからかすかに伝わってくる血なまぐささ……いつからこれを、「ああそうか」と流せるようになったのだろう。
「……はじまったか」
何か音が聞こえたわけでも、松明の明かりが慌ただしく揺れたわけではない。
だがあたりまえのように、そうと察した。
今川軍が予定の場所に到着した時、すでに集落は燃えていた。
中央通りに大きな建屋が複数並ぶ、かなりの規模の集落だったのに。
近づく前に、鼻が曲がりそうな臭いがした。血と臓物と脂の混じりあった臭い。更には、たんぱく質が焦げるなんとも言えない臭いだ。
とてもではないが深呼吸する気になれず、浅く息を吐いた。
既に戦いは始まっている。
海野と佐久衆の連合軍が、夜襲をかけたのだ。
ここが敵地だとわかっていた武田軍も、ある程度は反撃を予想していたのだろう。見たところ、それほど大きな混乱が起こっている様子はない。
奇襲も、待ち構えられていたら奇襲にはならない。
二千と五百では勝負にもならないと、余裕があるようにすら見える。
確かに、この兵差ならばそうだろう。
「幸松」
孫九郎が発したのは、葉擦れの音にもまぎれそうなほど小さな声だ。
だがそれを受けて、ぴくりと大きな身体が揺れた。
暗すぎて誰がどこにいるのかわからないが、子供たちを見分けるのは容易だ。
小さな影は一塊になって、おそらく幸松なのだろう少年を守るように取り巻いている。
この子たちを後方にやらなかったのは、今からの戦いが安全だと思ったからではない。
見せたかった。
戦はきれいなものではないという事を。無残に散る未来もあるのだと、想像してみて欲しかった。
「しっかり目に焼き付けておけ」
子供だからと、見ないでいる事は許されない。
天野殿の合図で、今川軍が鬨の声もなく攻撃を開始した。
残念ながら弓兵は連れてきていないので、初手は長槍部隊の強襲だ。文字通り尻を突かれた形になって、今度こそ武田に動揺が走った。
「三番陣形!」
天野殿の怒声に合わせて、槍部隊が動く。
おおこれはなかなか見事。
暗がりでわかるほどに整然と並ぶ穂先が、ブルドーザーのように横一列に斜面を下っていく。
ちなみに、戦場での槍の使い方は「突き刺す」ではない。むしろ「叩く」だ。
敵を刺してしまえば抜くのに手間取り隙ができてしまう。薙刀のように振り、長い柄の部分で叩くのがメインの戦法になる。
斜面の高い位置からの攻撃は、敵の尻よりも頭蓋骨に甚大な被害を上げていった。
だがさすがは武田。持ち直すのも早かった。見ていてわかるほどに、攻め切れていない。
足場はこちらの方が圧倒的に有利な場所なので、あとは立ち回りだろうが……
「四番陣形!」
天野殿の再びの号令が、若干遠くなった場所から聞こえた。
今度はくさび型? いや、先頭に負担が多いんじゃないのか?
今川本陣から見下ろす孫九郎の目で実際に把握できたのは、ここまでだった。
夜なので、たとえ村中から火の手が上がっているとしても、戦況のすべては見てとれない。だが挟撃がきれいに決まり、大幅に武田兵の数は減らせたと思う。
あとは敵に攻め込ませない事。
天野殿はどちらかというと堅い防御の方に定評があるから、兵数という物量で有利になれば負けはしないはず。
やがて武田は、じりじりと兵を退き始めた。
目に見えての敗走でないから、後方からの追撃ができない。
あと五百兵が多ければ、三方から封じ込める事ができたか? 例えば今川軍を二手に分けて……いや、殲滅まで行こうと思えば、こちらの被害も多くなるだろう、これでよかったのだ。
天野殿には、無理に追わなくてもいいと言ったのだが、少し本陣と距離が開いてしまった。
ひやりとしたのは、武田の騎馬隊が天野殿の背後に回ろうとしたことだ。
二木は戦線を上げ、本陣を前山集落まで下ろした。
暗がりから出てきた子供の集団を、武田騎馬隊は、海野軍や佐久衆の者たちはどう思っただろう。
「くしまあぁぁぁっ!」
ものすごく遠くからそんな叫び声が聞こえた。
飛んできた長弓の矢は子供たちに到達する前にすべて落とされた。
武田軍を率いているのは、どうやらご当主直々らしい。あの血の気の多さには困っている者も多そうだな。
「おのれ卑怯者! 夜討ちをかけるなど……」
ああ……うん。遠くから何か言っているけど気にしないように。
奇襲されるって、警戒してたよね? 最初の海野佐久軍は待ち構えていたように見えた。
今川軍が迫っているって気づいていなかっただけだよね?
優位を過信しすぎたな。




