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春暁記  作者: 槐
信濃編

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5-2 信濃山中 佐久1

 洞窟内の開けた部分とて、千五百人がたむろする広さはなく、奥から皆が出てくるには先頭が移動しなければならない。

 今この時に襲われるのは、さすがにまずい。

 だが恐れていたようなことはなかった。

 深い山間の木々が、軍勢をすっぽりと覆い隠してくれていた。

 それは敵も条件は同じなのだが、山の中はまったくもって静かで、どこかに伏兵がある気配など皆無だ。

 軍勢が洞窟を抜け終えるまで、警戒しながらその場で待機して、それから今川軍は洞窟からかなり北に移動した。

 このショートカットの存在が知られると、いずれ誰かが洞窟内での待ち伏せを思いつくのは必然で、だからこそできるだけその危惧を遠ざけておきたかったのだ。

 裏技は、皆が知ってしまえば裏技ではなくなる。

 レンジが言うように、いずれ気づかれるものなのかもしれないが、それまでは敵に手札を教えてやることはない。

 とはいえ、まるでイリュージョンのように見えるだろう。

 やろうと思えば、悟られる事無く兵を自在に配置し、挟撃するのも難しい事ではない。

 眼下に見える佐久の平野部の反対側、深い山並みが続くあのあたりにも、今出てきた洞窟につながった別の出口があるそうだ。

 甲斐や武蔵に抜ける道もあるのではないか。

 尋ねたかったが、今はやめておいた。

 ……これは、絶対に口に出してはいけない類の秘事だ。

 ここまでくると、遠江や駿河の山間にも、そういった洞窟があるのではないかと心配になってくる。

 今回、小荷駄及び騎馬部隊とは別行動だ。さすがに洞窟内を馬で進むのは難しい。貴重な馬の脚を折るわけにはいかない。

 ちなみに、兵千五百のうちに小荷駄隊は含まれていない。よそではどうかわからないが、うちの兵数に非戦闘員は含まれない。小荷駄に同行した騎馬部隊は逢坂老率いる五十だ。こちらはしっかり兵数のうちに入る。

 つまり今川軍は、早く動くことを目標にして、兵糧との分断を許容した。

 手持ちの兵糧は約二日分、それまでに合流するか、あるいは一気に解決してしまいたい。


 獣道を歩いていると、人はいないが獣はいた。

 この時代に来て初めて鹿と出会った。猪も見かけた。熊もいるそうだ。

 なるほど、町は近いように見えたが、かなり辺鄙な所ではあるようだ。

 だがさすがに、法螺貝の音ははっきりと聞こえた。

 孫九郎の耳にまで届くと言うのは、相当近い。

 すぐに二木らのそばに弥太郎が近づいて来た。

 日暮れが近く、既に太陽は山に隠れてしまっているが、その表情ははっきりと見てとれた。

 普段通りの、平静そのものだ。

「前山集落を武田が荒らしています」

 それを聞いた二木が、「むう」と唇を引き結んだ。

「伴野か」

 伴野家の主城は前山城だ。その集落が乱取りに遭っていると言えば……つまりはそういうことだ。

 二木は、少し考えるように首を傾けて、孫九郎含め、青息吐息で何とか歩いている年少組をチラ見した。ちなみに幸松はまだ元気そのものだ。

「伴野軍はどうした」

「見る限り、武田の乱取りに対処している風はありません」

 天野殿も、ちらりとこちらを見た。

「前山城に籠ったか……全滅したか」

 不意に、鼻腔に懐かしい臭いを感じた気がした。

 鉄錆と臓物の生臭い臭い。吐き気を催す戦場の臭いだ。

 もちろん気のせいだ。

 だが、背筋に走る悪寒は、きっと正しい。

「……叔父上は」

 孫九郎がそう言うと、全員が改めてパッとこちらを向いた。

「やはり明け方まで難しいか?」

「いえ、日向集落のほうで既にお待ちです」

「数は」

「百五十」

 孫九郎は乱れた息を整えるべく、深呼吸した。

 感じるのは土と緑の青臭さ。それから野郎どもの汗と皮脂の臭い。

「予定より早いが、挟撃する。おそらくこちらの方が到着は早い。叔父に、前山集落に着き次第始めるようにとお伝えせよ。時はあわせる」

 弥太郎が丁寧に頭を下げたのは、二木や天野殿に顔を向けてだ。

「……そろそろお忍びは終わりですか?」

 陰り始めた日差しの中、鎧兜の影になって読み取りにくい顔でそう言ったのは二木だ。

 孫九郎は軽くかぶりを振った。

「武田を追い払った後だ」

 ようやく息が整い始めた。

「案内せよ。日向ではなく、前山だ」

 獣の皮をかぶったレンジが、軽く頷くように首を上下させた。


 奇襲をかける。

 乱取りが上首尾に進み、おそらく今夜は前山集落で夜を明かす武田軍に対して。

 奇襲なので気づかれないように近づかなければならないが、おそらく彼らが気にして見張っているのは伴野の軍であり、せいぜい源九郎の叔父の率いる兵だ。

「源九郎さまよりご返信です」

 月さえも雲に隠れた夜。再び弥太郎が報告に来た。

 真っ暗な木々の中に千五百が紛れるのは容易だった。

 これが十倍もいたなら、さすがに気づかれていただろうが、膨大な樹木の量と夜の闇が何もかもを飲み込んでいた。

「国人衆の幾らかがお味方。現在兵は五百。子の刻に入る前には準備が整うそうに御座います」

 武田の軍は二千と聞いている。そうか、これで頭数だけだと対等か。

 ぶ厚い雲に隠されて、月の位置はわからない。今の刻限も。

 だが子の刻といえば真夜中に近い時間帯なので、それまでに今川軍が所定の位置に配備できれば、奇襲挟撃は成立するだろう。

 ごくりと、近くで唾を飲む音が聞こえた。

 ……そうか、幸松らは初陣か。

 一瞬、若い子供たちに配慮するべきかと逡巡したが、今更だと打ち消した。

 彼らも武士の子だ。

 いずれ浴びる洗礼を、条件が良いうちに味わっておく方が良い。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 輜重隊を戦力員数外と孫九郎殿は考えてますが 他所から見たらノロノロと街道を行く隊を見、それ以外を見かけない以上本隊と誤解している可能性もあるでしょう ましてや主戦力たる騎馬隊もいるので…
[一言] ここで上手く武田を叩いて伴野家の救援に成功すれば、佐久方面の国人衆はぐんと今川寄りになりそうですね。 お勝ちゃんの初陣も大概でしたが、幸松君の初陣もかなり華々しいものになりそう。
[一言] 開けごまで動く岩扉配置しておかなきゃ!
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