5-1 信濃山中 諏訪北東部 山越え
長野県を想像してみてほしい。思い浮かべるのは何だろうか。
孫九郎の頭に過ったのはスキー場であり、ダムであり、日本の屋根と呼ばれる高い山々に囲まれた地形だ。
国内でも五位以内に入る広大さを誇り、自然資源が豊富な山岳地域だという印象。
……そう、とにかく山が多くて、平らな場所が限られているから、人が住むために必要な農耕可能な土地が少ないのだ。
別を言えば、山が多いからこそ隔絶され、狭い地域ごとに分断されがちだった、というのもあると思う。
つまり、他の地域に出ようと思えば、まずは山を越えていかなければならない。天然の要塞が如き山々は、彼らを守る盾でもある。
遠巻きにされながら諏訪盆地を出て、北東に延びる道を進む。
道というよりも、川沿いと言うべきか。川沿いは水で削られ谷になった地形なので、人が行き来しやすく、そこが街道と呼ばれるようになったのだろう。
山と山が両脇から迫った地形は、ここで待ち伏せされたら怖いな……そう感じるものだった。伏兵するにも足場が悪いが、地の利があれば多くの兵を潜ませるのも不可能ではないだろう。
十分下調べをしてからの行軍なので、その心配はないとわかってはいる。
美しい雨の山なみを鑑賞するより、そういう方面にばかり意識が向いてしまうのは、もはや職業病なのだろう。
このまままっすぐ進めば海野荘だ。まっすぐと言っても、川沿いから山に分け入り、うねうねと続く街道を進んでいかなければならない。
身一つの旅人が早朝に出立して、急げば日没にまで何とか間に合う? 山中で野宿は嫌だし、手前で早めに宿を取ろうか。そう考えるぐらいの距離感だ。
もちろん千五百の軍勢だとそういうわけにはいかない。
おそらく多くが、「今川軍は二日掛けて海野荘まで向かっている」と思っているはずだ。
川沿いを順当に進んで、突き当たる。この先は山道を分け入っていくことになる。
雨足が強まり、川の水が激しい勢いで流れていく音がするが、視界には入らない。
「どうも」
雨の中、山の木々に紛れるように立っていたのは、見るからに筋骨隆々な、十数名の男たちだった。
雨除けだろうか、獣の皮をフードのようにかぶっていて、さながら熊が後ろ足で立ってこちらを見ているような印象だ。
孫九郎の脳裏に過ったのは、動物性たんぱく質という言葉だ。鎧兜で物々しく武装している今川の武士たちは、この時代にしては食に恵まれた育ちの者も多いはずなのに、獣の皮を身体に巻き付けた山の民に体格面で劣る。
もちろん彼らも、そういう者たちを選りすぐってよこしたのだろうが、それにしても……。
大きいなぁと見惚れていると、目が合った。誰ととは言わない。男たちの多くがこちらを見ていて、視界が遮られるほどの雨をものともしない。
首を傾けると、レンジが呆れたように苦笑した。
後から聞いたところによると、一人だけとびぬけて警戒心のない顔をしていたからだそうだ。……心外だ。
ここからはまた、彼らの案内による山中行軍になる。
雨だし、山だし、急ぎだし……大変な道のりになると覚悟はしていた。
まったくもってそんな事はなかったのだが。
レンジたちが案内したのは、街道をかなりわき道にそれ、崖になっている部分を迂回せずに上った先にある、蔦に隠された洞窟の入り口だった。
佐久へと続く抜け道だという。
あっけにとられた表情の二木が、真っ暗な口を開けた洞窟と、そそり立つ山脈を見上げる。
諏訪盆地からみて北東にある山はかなりの標高だ。
よく目をこらせば、更にその向こうにもっと高い山も見える。
それらを迂回することなく突っ切っていくルートがあるなら、ぜひとも利用したいものだ。
二木は渋った、天野殿もだ。レンジらを信頼できないというよりは、孫九郎の身の安全を担保できないと考えたからだろう。
孫九郎にとっての最優先は、状況を有利に進める事であり、二木らにとっては、孫九郎の身の安全のほうが大切なのだから、意見が分かれるのは無理もない。
ただ、洞窟を行くも山道を行くも、レンジらが裏切れば危機に陥るのは同じだ。
事の次第は逐一忍びたちが見守っている。
万が一のことが起こったら、今川がすぐに報復に向かうだろう。
そうなったときの彼ら……サンカ衆の憂き目を思えば、下手な真似はしないと思う。
まあもちろん、こちらの心配を彼らもわかっていたようで、迷わないよう目印をつけての移動に同意してくれた。
それでも、暗がりに置き去りにされた場合を想像すると、皆の気が進まないのもわかる。
だが、長く迷っている時間はなかった。
最終的に、洞窟に入ると決めたのは孫九郎だ。
特に問題になるような罠も難所もなく、ただ距離がある分、分枝も多い道を進み、山の反対側に抜けたのは夕刻。
まだ日が沈むまでに猶予がある刻限だった。
最後、洞窟内にある滝の下をくぐらなければならず、全員がこれまで以上に濡れネズミになってしまったこと以外は、特に問題のない道行だった。
外は雨が上がっているそうだ。
全員が滝の下から出てくるのを待ちながら、索敵に行った者たちから報告を受けた。
洞窟の出口は、山の中腹ほどにあるようだった。目立たない場所で、山裾まで民家はなく、遠くに町らしきものが見えるとか。
「佐久に抜けるほうが楽なんでさ」
レンジはそう言いながら、焚火にポイと枯れ木を投げ込んだ。
「上田の方につながってる穴は狭くて、危険な場所も多いですしね。立科側は、この人数だと人目に付くでしょう」
さらりと何でもない事のように言っているが、つまり、サンカ衆は自在に山の中を行き来し、その気になれば別の出口から逃げる事も可能だという事だ。
彼らが何故山の民と呼ばれているのか、その理由がこれか。
複雑に入り組んでいる洞窟を調べつくし、彼らだけが知る道として利用しているのだ。
洞窟なら険しい勾配を延々迂回して歩く必要もない。
明かりがないので真っ暗なのと、初見では絶対に迷うだろう複雑さを攻略できるなら、ショートカットして目的地に行ける。
最短ルートを突っ切る道は、信濃の戦を変えるだろう。
そんなものを教えて良かったのか。
「秘密なんてものは、いずれ誰かに知られるもんですよ」
そう言って肩を竦めるレンジを、仲間たちは誰も咎め立てはしない。
「最近は金銀の採掘に熱心で。山師がうろついているんでさ。そのうち洞窟は調べられるでしょう」
それでも、一族が何世代にもわたって、命がけで調べた道のはずだ。
何という事はないという表情のレンジに、覚悟の色が垣間見えた。




