4-11 信濃 塩尻峠6
雨が降り続けている。
ざあざあという感じではなく、シトシトと。
この状況で山越えは出来るのかと不安になってきた。
山深い道は視界も悪い。足元も悪い。今の諏訪軍と今川軍のように、優位な地点で待ち伏せされていたら……いや、今回は大量の忍び衆を連れてきているし、レンジら山の民がいるから大丈夫だろうけど。
雨で雲が多くても、山で地平線が見えなくとも、夜明けはわかる。
明るくなった東の空に、ほんのわずかに朱色が混じっているのが見える。
今川軍は、陣払いの為に明け方前から始動していた。もとよりそんなに時間が掛かるものではないので、夜明け頃にはすぐにも発てる状態になっており、今は一仕事終えた者たちが朝飯にありついている。
孫九郎は、木々の枝先から滴る雨を眺めながら、もぐもぐと握り飯を頬張った。
小姓組の仲間らと、雨除けの板が張られた下に並んで座り、足をぶらぶらさせている。
周囲からは息抜きの小休息のように見えるだろう。
年少の小姓とはいえ、ここに連れてくるぐらいだから福島家重臣の子息であり、よくしつけられた子供たちだ。
幼くとも己の役割をよく理解している子らで、必要な時には孫九郎の傍らを離れようとはしない。
今回も、諏訪軍を眺めながらの朝飯に付き合ってくれている。
陣中食とはいえ温かいもののほうがいいと思うのだが、こぶし大の握り飯三つだけだ。成長期なんだからもっと食べないと……いや、人のことは言えないな。
「……近づいてきてませんか?」
そんな声が聞こえてきたのは、最後の握り飯を口の中に放り込んだ直後だ。
四人でじっと雨に目をこらし、どうやら諏訪軍が動き始めたようだと確信した。
慌てて立ち上がろうとした子を制し、孫九郎は竹筒の白湯を飲んだ。
子供の目にわかるほどだから、すでに今川本陣も察知しているだろう。
その証拠に、しばらくして二木が建屋から出てきた。
鬱陶しそうに降り注ぐ雨を見上げて、一瞬その目が近い場所にいる子供らの方を向き、さりげなく諏訪軍に巡らされる。
前夜までの小具足姿ではなく、きっちりとした鎧兜で武装済みだ。
孫九郎は二木から諏訪軍に目を戻した。
用心深く近づいてくる様子から、こちらの「攻撃する気はない」という言い分を信じてはいないのがわかる。
夜間、しきりと諏訪盆地のほうから諏訪軍に人が移動していた。
それを止める必要はないので、書簡のやり取りを覗き見るだけで通してやった。
確かめたかったのは、その文面に孫九郎の名がないことだ。
まだ悟られていないのなら、このままの「年少組の小姓」のままで行きたい。
千五百という兵数は、少なすぎはしないが多くもない。
孫九郎がここにいると知られてしまえば、おそらく武田の標的は佐久ではなくこちらに向く。それはかなり面倒なことになるので避けたい。
佐久から諏訪への書簡も見させてもらった。
必死に援軍を求めているのが哀れだ。
諏訪は動かない。きっと今川軍がここにいる事を言い訳にするだろう。
……ただの参拝客なのに。
もとより、佐久郡の国人衆は武田軍を通すことに乗り気ではなかったと思う。
それは、諏訪が本領がら空き状態で武田軍を通過させたくなかったのと、まったく同じ理由だ。
だが、弱小国人領主たちは、弱いが故にどこかに従属しないわけにはいかず、諏訪や村上に逆らうことができない。
武田軍は、やすやすと佐久郡に踏み入り、街道を移動しているそうだ。
既にもういくつかの村が襲われ、被害が拡大している。
佐久郡は小さな城を保有する国人領主が、その周辺への支配権を有している。いわゆる、古い時代の統治形態のままのところが多い。
大きくなれないのは、そうなる前に周辺に巨大な勢力が起こり、それぞれが違う勢力についたが故に、機会を逸したのだろう。
つまり大抵のところは諏訪あるいは村上、海野や武田の影響下にある。
彼らが国境の難所を通してしまったのは、それらの事情によるものだ。
今回武田は、よほどこの状況が気に入らなかったのか、端から容赦なく略奪しはじめているらしい。
佐久の入り口の甲斐国境付近は、随分と武田に下手に出ていたらしいのに、さっくり略奪対象にされ米蔵を荒らされたそうだ。
「伴野が武田に抗議しているそうです」
雨の中、二木が天野殿にそう言って鼻を鳴らす。
「武田なんぞを信用するから裏切られるんですよ」
二木にとって……いや、今川家中のほとんどが、武田に対していい感情を持っていない。
いまだに、定期便のように国境を刺激してくる完全敵国なので、当然ともいえる。
だが孫九郎の見方は少し違う。
武田の動きは示威行為だ。敵対者は許さぬという姿勢だ。
今川の国境を刺激してくるのも、今回の佐久攻めも。
乱取りで懐が潤うというのは外せない利点だろうが、目的はそれだけではない。今は乱取りで根こそぎ荒らし、次は降伏を呼びかけるつもりではないか。
武田軍が強壮で、侮れないというのは誰もが知っている。
この示威行為に怯んで対抗できないようでは、食ってくれと言っているようなものだ。
最後の焚火が始末される。
すでに陣幕は畳まれ、翻っているのは鮮やかに青い旗印と旗指物だ。
その白と青が峠を埋め尽くす様は、雨の中でも見ごたえのある威容だった。
諏訪軍の、ただでさえ緩い足取りが、遠目にわかるほど鈍る。
幸松が雨の中、胸を張って陣頭に立った。
その手には、房の付いた采配。
さっと一振りすると、怒涛の地響きがした。
足を踏み鳴らし、怒声を上げ、腕を振り上げる。
それに怯んだ諏訪軍は、数だけではなく意気でも今川軍に劣る。
―――示威ってのはこうやるんだよ。
孫九郎は、たのもしい弟の背中を眺めながら、武田軍に向けてそう思った。




