4-8 信濃 塩尻峠3
非常に面白いことになっている。
孫九郎は口元を手で覆ってうつむいた。
「そ、そこの小姓が盗みを働こうと……」
侵入者は、日用品を売りに来ていた現地の商人だ。
本陣に忍び込んだ時点で正体はお察しなのだが、よりにもよって孫九郎を盗人だと言い出した。
どこかで「ぐっ」と笑いをこらえる変な声がする。
顔をぱっと背ける奴もいる。
「……そちこそ何故本陣に?」
こういう時にはニヤつきそうな二木が、ひどく眉間にしわを寄せながら言った。……いや、あれは爆笑をこらえているな。
ガチャン! と大きな音がした。
幸松が床几を蹴飛ばしたのだ。無表情の三郎がすかさず直す。
子供ではあるが、今川軍総大将の激怒の表情に、商人はぱっと喜色を浮かべた。
怒りの矛先が己から逸れたと思ったのだろう。
孫九郎はそっと逢坂老にめくばせした。さもなくば、幸松はこちらめがけて突進してきていただろう。
駄目じゃないか、こんなに人が密集している場所で刀を抜いたら危ないって。
そこまでは、皆に余裕があったし、楽しむ余地もあったのだ。
逢坂老はちゃんと幸松を止めた。羽交い絞めにするようにしてだが。
父に似た幸松はやはり父の子で、たった八歳にしてすでに小柄な大人ほどにも大きく、上半身が羽交い絞めにされても下半身で抵抗できる力があった。
「あ」
そんな抜けた声を上げたのは小姓仲間のひとりだ。
逢坂老ひとりでは難しいと悟った助っ人が更にふたり、幸松を抑え込もうとした。
だが間に合わなかった。
暴れる足が陣幕を張った柱の木を蹴り倒した。
一斉に倒れる陣幕。ふわりと皆にまとわりつく布地。
おそらくそこで、幸松を抑える手が緩んだ。
猪突猛進初志貫徹、敵を見定めたその動きは素早く、迷いはなかった。
孫九郎は、振り上げられた刀の切っ先を見ていた。
ちょっとこれはまずいのではないか。そんな思いが過ったのは、鈍く光る鋼が振り切られ、福島の紺地の陣幕に血しぶきが飛び散ってからだ。
さすがに二打目は許さぬと両腕を掴まれても、なお幸松は前に進もうとした。
興奮した獣のような唸り声が上がる。
お前八歳じゃなかった? なんで大の大人を三人、ずりずり引きずって進むんだよ。
孫九郎はとっさに、腕にかかった陣幕を振り上げ、猪もかくやの幸松の視界を遮った。
大人たちが一斉にその上にのしかかり、押しつぶされてようやく動きが止まる。
「……っ」
切り付けられた商人は、こわばった表情で肩を押さえている。化けの皮が剥がれているぞ、切り付けられて声も上げず身構えるなんて、反応が一介の商人ではない。
孫九郎は、手から離され地面に落ちた幸松の刀を拾い上げた。ずっしりと重い。
小柄で非力な兄とは違い、すでにほぼ大人用だ。
「あっ……あ」
なんちゃって商人は、ようやく芝居を思い出したのだろう。腰を抜かしたようにその場に尻をつけた。
だがもう遅い。小姓仲間の八歳の彦一ですら、この男が間者だと気づいている。
「……盗人?」
鋼の刀をぶら下げて、首を傾ける。
「誰が?」
「ち、違います! そのように見えたというだけで」
「うん」
孫九郎は「わかるよ」と数回首を上下させた。商人はひきつった誤魔化し笑いをして、なんとかこの場を凌ごうとしている。
それにしても重い刀だ。幸松はいつのまにか、こんなにも成長していたんだな。
大勢に押しつぶされて動けない弟に目をやる。
孫九郎の視線が離れたとたんに逃げようとしたのは、きっとそいつの生存本能だ。
今川本陣のど真ん中から、深手を負った状態で逃げ切ることなどできるはずもないのに。
商人がこちらに背を向けた一瞬、孫九郎は持てあますほどの重さのその刀を真横に振った。
鋼はその髷をきれいに切り飛ばした。
「田所、任せる」
「はい」
重すぎる刀をぶら下げたままそう言うと、どこからともなく現れた白エノキ男が真横に立った。
重い刀を受け取ってくれたのは藤次郎だ。
「……釣れたな」
「そうですな」
孫九郎の独白に答えたのは、騒ぎを傍観していた天野殿だ。
二人の視線の先には、こわばった表情でこちらを見る金森殿と、その左右にも似たような身なりの武士。
「どうされますか」
「捕えて尋問」
「は」
天野殿が手を振ると、その配下の者たちがさっと金森殿たちの背後に立った。
自由に陣内を動けるように思わせて、ずっと見張っていたのだ。当たり前だが。
「ま、待たれよ!」
金森殿はようやく状況を察し、抗議の声を上げようとしたが、もはや誰も数時間前のように愛想笑いを返したりはしない。
孫九郎はちらりとその様子を見てから、まだ陣幕の下で藻掻いている幸松に近寄った。
頭と思われる部分をぽんぽんと叩く。
何も言わなかったし、幸松も誰が頭を叩いたのか聞きはしなかった。
だがすぐにその動きが止まる。
逢坂老が陣幕を捲った時、その下から現れたのは、怒れる猪ではなく、泣きべそ顔の少年だった。
さて、これで少しは事態が進む。
早速諏訪に抗議の使者を送ろう。
幸松が「襲われた」と言えば、何らかの反応をしてくれるだろう。
え? まだ数え十歳の幸松が、行商人を「襲った」りする訳ないじゃないか。




