佐吉(15以降 小田原潜入直後)
小田原の町は、武士たちの物々しい雰囲気と、町人たちの怯え疲れ切った様子とが混在していた。
一見何事もない平和な町並みに見える。建物が壊されたり荒らされたりしているわけではないし、怪我をしたり乱暴狼藉をふるわれている者がいるわけでもない。
それでも、伝わってくるものはある。
肌を刺すその感覚に、気づいていない者など誰もいないだろう。
佐吉はさっと頭を下げた。
通りすがりの武士たちは気が立っていて、視線が合うだけで厄介な事になりかねない。
小田原にきたのは初めてではないし、二度目ですらないが、こんなにも物々しかったことはない。なんなら先代がご存命の時代、小田原がこれほど大きな町ではなかった頃もここまでではなかった。
非常によくない感じだ。
佐吉は通り過ぎて行った物々しい集団を見送って、他の町人たちと同じように息を吐いた。
「……ずっとこんな風なのかい?」
問いかけると、まだ頭を下げたままの馴染みの商人が疲れ切った声で「そうだよ」と答えた。
「伊豆が落ちてからどんどんとひどくなる。このままだと……この先はここでは口にできん」
「そうか」
かつて堺の大店で総番頭を務めていた佐吉ではあるが、その素性は忍びの者だ。
彼の属する一族は大概が商人や職人として堅実な身分を持っていて、疲れ切った表情で俯いている男も実は同類だった。
「だが萬屋さんが届けてくれた物資があれば、まだしばらくはもつだろう。本当に助かるよ」
佐吉は堺商人の萬屋草介と名乗り、炭と米とを大量に運んできていた。湊での荷改めで半分は取り上げられてしまったが、残りの半分は町で売るためにと返してもらえた。お城のお方様方への貢ぎ物をふんだんに積んでいたおかげもあるだろう。
もしまだ風魔がこの地を守っていたら、とてもではないが潜入はかなわなかったはずだ。
今の小田原は色々な勢力の間者が潜り込んでいて、見た目以上に混沌としている。
他ならぬ佐吉も隣の男も同じ忍びではあるが、鵜の目鷹の目で獲物を狙う同業者たちとは違い、もともと男はこの町を拠点にしているし、佐吉にはきちんとした目的がある。
「ところで、どうだい。ご内儀と娘さんはお元気かい」
「挨拶はまたにしとくれよ。この騒ぎに怯えちまってさぁ」
二人は久々に出会った旧友同士会話を続けながら、周囲への目配りは怠らなかった。風魔がいない現状、忍びだということが露見する心配はしていないが、その分治安が悪く余計な騒動に巻き込まれかねない。
二人は金満な商人に見えるので、護衛を従えていても誰も不思議に思わないのは助かっている。
「そうかぁ。土産があるから、それはもっていっておくれよ」
佐吉はふと、傍らを歩く手代の飛丸に目を向けた。男の娘は同じ年ごろのはずだ。それはつまり、御屋形様とも近い年齢ということだ。
いや御屋形様と比べるとちょっと感覚が狂うが、十代前半の若い娘にとってはこの状況はさぞ恐ろしいだろう。
「京で流行りの櫛だから、喜んでくれるだろう」
「いいのかい、そんなよさげなものを。奥方衆への献上品じゃないのかい」
「なんの。たんまり運んできたからね」
袖の下は惜しんではならない。それは佐吉の信条だ。親しい仲だからとおろそかにして、足元をすくわれてはたまらない。それは同胞相手ならなおさら気を使うべきところだった。ちょっとした贈り物をもらって悪い気がする者などいないのだ。
「助かるよ。最近京のものを欲しがってねぇ」
案の定、男の表情が和らいだ。同胞といえども同じ任務を負っているわけでもなく、同じ指揮系統にあるわけでもない。協力関係を築いておくのは大切なことだ。
和やかに話を続け、いよいよ肝心なことをさりげなく問おうとしたその時、飛丸の手がぎゅっと着物の袖を引いた。何事かとそちらを見ると、佐吉を見ている武士の集団がいることに気づいた。
真っ先に目が合ったのは、険しい表情の若い男だ。
まずい。あの男には見覚えがある。見覚えがあるという事は、相手も佐吉を知っているかもしれないという事だ。どこで会った? 話をしたことはあるか?
必死に思い出そうとしていると、小具足姿のその若い武士はずんずんと佐吉めがけて近づいてきた。
思い出した。京だ。さらに言えば、佐吉が探している相手のひとりでもあった。
随分と面替わりなさっておられるが、おそらく間違いない。
「これはこれは……松永様ではございませぬか!」
まだ宿に付かないうちから出会えるとは僥倖。幸先が良い。
にこにこと笑顔で声をかけると、ものすごい勢いでこちらに迫ってきていた松永様が怯んだように歩調を緩めた。
「覚えておられるでしょうか、堺でお会いしました、萬屋草介と申します」
丁寧に頭を下げると、相手は何かを言おうと口を開きかけ、不安そうな表情で佐吉の袖を引いている飛丸に目を向けて黙った。
松永様が佐吉の事を覚えていたのは確かだが、屋号や名まではどうだろう。武家はえてして、下の身分の者の名前など覚えようとはしないものだからだ。
だが真っ先に若い飛丸に目を向けたところに好感を抱いた。悪い青年ではない。
御屋形様に頼まれていたのだ。松田様が気にかけておられるご友人、松永様の様子を確かめるようにと。
必要ならば左馬之助様のご一門と同様、小田原から脱出する手助けをするように……とも。
かつての佐吉はほぼフリーランスの忍びで、単発で仕事を受けてきた情報屋のようなものでした
彼を育てた一族はそういうあり方をする者がほとんどです




