村上珠(甲斐編の後)
「お父様!」
遠目にひと際巨漢の父の姿を見つけ、お珠は飛び上がった。
そわそわと落ち着かないのは、とうとう珠の嫁ぎ先が決まったかもしれないからだ。
少し前に父から聞いた小さな竜殿の話は、まるっきり婚姻に興味のなかった彼女を前のめりにその気にさせた。
誰に聞いても評判が良い。絵巻物の貴公子のような殿様だ。珠と年回りも丁度良く、村上家の為にもなる。
いや政略はさておき、聞けば聞くほど駿河の小さな龍の話に魅了され、一目でよいからお会いしたい。珠こそがぴったりの妻だと知ってほしい。つまりは初めての恋煩いに浮足立っていた。
「姫様、はしたのうございます! 脛を出して走ってはなりませぬ!」
乳母が足音荒く追いかけてくる。そういう乳母やもバタバタと廊下を走っている。
珠はお小言など聞こえぬと、全速力で駆けた。
「お父様ぁぁぁっ!」
大声で叫ぶと、乳母やが「ひっ」と声を上げて耳を塞いだ。遠くにいた軍勢が、こちらに気づいたように合図をしてくる。
「お戻りなさいませぇぇぇぇぇっ!」
ぶんぶんと両手を振ると、乳母やは「ああ」と悲し気に肩を落とし、乳兄弟の美津が慰めるようにその背中を撫でる。
「姫様、少しはおしとやかにせねば。……殿の隣にいるのはどなたでしょう、よもや駿府のお方では?」
珠ははっとした。これはまずい。我が夫君のお使いかもしれない。急にドキドキと胸が高鳴った。慌ててはだけた裾を直し、襟の袷を整える。
「まあ、姫様。お顔が真っ赤ですよ」
美津をはじめとして、周囲の者たちがクスクスと笑う。
最近、事あるごとに駿府駿府とからかわれるのだ。実際その言葉を聞くなり胸の奥がギューッとなる。これが恋煩いというそうだ。
「あ、赤くなどなっておらぬ!」
美津も言っていた。恋をするようになったら一人前だと。
珠は一人前の武家の娘だから、そろそろ夫をお迎えしてもよいと思うのだ。
妄想の中で、珠の夫君たる「駿府の小竜」がかわいらしく首を傾げている。
ああ駄目。また胸がギューッとなる。
「おお、珠」
父のまったくもって可愛くない太い声が珠を呼ぶ。
「いい子にしておったか」
「珠はいつでもいい子でございます」
いくらか澄ました口調でそう言って、父が可愛くないのは今更だと許してやることにする。
それよりも、隣の御方は誰だろう。駿府からのご使者だろうか。
ちらりと目が合って。にこやかに微笑まれた。直垂も烏帽子も素敵だし、なかなかしゅっとしたよい男ぶりだ。
「望月殿だ。ご挨拶を」
父が挨拶をするように言うなど珍しい。珠はこういう場所からはすぐに遠ざけられるので、紹介を受けるのも初めてだった。
「珠にございます。お初にお目にかかります」
「これはこれは、ご丁寧に」
しゅっとした望月様は、目じりにしわを寄せて笑った。笑顔も合格。
だが残念なことに駿河のお方ではなく、信濃の国人衆だった。
しかも望月家と村上家との縁組のお話が持ち上がっているそうだ。
もちろん珠は駄目よ! 珠は駿河の小竜に嫁ぐのだから!
「姉上をお呼びしましょうか?」
「……いや」
ギッと父を睨んでやるが、目をそらされた。
ちゃんと駿河の我が夫君に話をしてきたんでしょうね⁈ 気合入れて作った釣書を読めば、誰だって珠を妻にしたいとお思いになるはずよ!
望月様は話し方も丁寧で、野生のヒグマのような父上にも臆さないところといい、やはりよい男ぶりだ。
特に、父の背中をポカポカ叩いている珠の様子に顔をしかめないところがいい。最近は兄上でさえ、「珠はお転婆すぎる」とひどいことを言うのだ。
望月様から先の戦の話を聞くのは胸が躍った。
父はとかくそういう話をなさらないので、いつもは根掘り葉掘り父の側近たちに話を聞いて回らなければならなかった。
しかも誰もかれも話下手なのだ。少しは望月様の爪の垢でも飲むべきだと思う。
珠が口を挟まずおとなしく耳を傾けているから、話の内容が戦から離れて甲斐の事にうつった。本当はもっと我が夫君の勇姿を聞かせて欲しかったのだけれど、父たちの話が重要なものだとわかっているので黙っていた。
望月様はずっと我が夫君について、感服の念をもってお話になる。よくわかっておられる。
意外なのは父でさえ、同意するように頷いていることだ。
父は隠しようもなく小さなもの好きだが、武士として力を信望しているのも確かなので、まだ幼い子供で非力だという我が夫君をそんな風に扱うとは思っていなかった。
頭の中で、小さなお可愛らしい竜が、巨大なヒグマの頭に乗っかってかみついている様子を妄想する。
いや違う。子竜が「そこになおれ」と巨大なヒグマを叱りつけている様のほうがしっくりくる。
妄想の中で父は我が夫君に屈し、「はああ」と両手をついて頭を下げる。
父が屈するという状況は、普段の珠であれば「ありえない」と思うが、それに違和感がない我が夫君はさすがだ。
ここまで話を聞いていて分かったことがある。
人気者の駿河の竜は、この先も降るほどの縁談に見舞われるだろう。
伊豆駿河遠江の三国を制し、じき三河もそれにならうそうだ。
武家としてこの上もなき優良物件、さらに小さくてお可愛らしいだなんて、世の女どもがこぞって妻になりたがるに違いない。
負けてはいられない。父に任せて、釣書を届けるだけでは足りない。
手紙を書いてみようか。直接お会いしたいとお願いするのははしたないだろうか。
いや! 母上とて父の正室になるために押せ押せだったと聞く。
ヒグマの妻になりたがる母上の好みはよくわからないが、父や望月様が「じぶ殿」とお呼びになる我が夫君ならば、手練手管ありとあらゆる方法を使ってお側に侍る価値はある。
待っていてください、今珠が参りますよ!
村上珠、7歳
風邪薬で朦朧としながら書きましたw




