奥平(26あたり)
かつてどんなにも望んで、指をくわえて眺めて通った屋敷通り。
暗がりに紛れてこっそり帰路を急ぐ奥平は、何日ぶりの帰宅だろうと考えようとして諦めた。
少なくとも五日は戻れていない。妻の久に怒られるのは目に見えている。
「せめて三日に一度はお戻りをと口を酸っぱくして申し上げましたのに」
ぶちぶちとそう苦情を言うのは、長年身の回りの世話をしてくれている老僕だ。
奥平は言い返す気力すらなく、無言を貫いた。
こいつはもとより、老いた両親を含め親族一同、奥平家の家臣すべてが久に屈している。完全降伏だ。
奥平家が不遇を囲い、食うにも苦労していた時代からたった二年。御屋形様のおかげで過分な身分を得、妻帯までできた。
思えば眩暈がするほどの変化で、不満などあるはずはない。
……家門がまるごと妻の軍門に下っているのだとしても。
駿府の一等地にそれなりの広さの屋敷を設け、使用人も多く、両親が手ずから家事をする必要もなくなった。弟が若くして死に、その子供たちを引き取っているのだが、彼らの扶育にも目を配れるようになった。
それらのすべてが御屋形様と、今は奥平家の奥のすべてを差配している妻のおかげだという事は十分に理解している。
二年前に妻に迎えた久は、長く今川館の奥向きで女官として勤めていた。奥平よりも一回りほど年下で、たいそう美しい女だ。
ただし気が強い。猛烈に強い。
「おまえさまっ!」
裏口からこっそり屋敷に入ろうとして、びくりと身をすくめた。
こんな刻限だから寝ているだろうと思い込んでいた。
恐る恐る顔を上げた先に、夜着に小袖を羽織った久が立っていた。その姿を意外に感じたのは、彼女が普段から身なりに気を遣うきっちりとした気質だからだ。
それこそ寝間に入るその時まで、夜着を着るような女ではない。
「このような夜更けにこそこそと!」「どこが具合が悪いのかっ」
二人同時に声を張って、同時に「?」と口を閉ざした。
しばらく無言で互いの顔を見合って、やがて久の表情がふっと和らぐ。
「厠に向かう途中です。お戻りになるならそうと……」
こそこそしていたわけではない。起こしては悪いと思ったから静かに木戸をくぐっただけだ。
奥平はそう言おうとして、慌てて口をつぐんだ。彼女は余計な言い訳を嫌うからだ。
「まだ起きておったのか」
「まあ。お勤めであらせられますのに、そのようにお気を使われずとも。……誰か濯ぎを」
なんとか和やかな雰囲気にこぎつけたぞ。
奥平は頭の中で安堵しながら妻の歓待を受けた。
甲斐甲斐しく夜食の湯漬けを用意してもらい、やはりなんだか普段と違う彼女の表情を横目で観察した。
長年今川館の奥で務めあげてきた人だから、内心を隠すのは巧妙だ。
やはり怒っているのではないか。また浮気を疑われているとか、そういうことはないだろうな。誤解から悋気を起こした時の騒ぎを思い出して身震いする。
「表の方はお変わりございませぬか。おまえさまは無理をなさる御気性ですので、根を詰めすぎてはおられぬか心配でございます」
「……うむ」
久は出来た妻だ。出来すぎる妻だ。
ここで奥平が愚痴をこぼそうものなら、明日明後日には奥方経由で同僚たちに圧がかかる。いやだからどうだというわけではない。仕事がやりやすくなるのは結構なことだ。
「真木家の幸次郎さまから、加奈様への縁組申し込みの件ですが」
加奈というのは姪のひとりだ。
「それとなく人となりをお伺いしましたが、問題はなさそうに存じます」
「そうか」
「義母上様から、喜一郎殿と公事方の名原家のご息女は相性がよいのではと相談を受けました。ですが名原のお松様は一人娘故に婿入りが前提なのです」
甥姪がそろそろ適齢期なので、夫婦間の会話はその件が多くなるのはやむを得ない。
奥平は適度に頷きながら、耳に心地よい久の声に耳を傾けた。
久は同僚らの誰もが羨む美貌の持ち主だ。実家はすでになく、一度目の嫁ぎ先から子ができぬという理由で離縁され、遠い親戚の伝手を頼りに駿河へ流れてきたそうだが、そんなことは気にならなくなるほどの器量がある。
奥平家がこれまでもたなかった部分、奥方同士の付き合い、つまりは社交の達人と言ってもいいのだ。
「……おまえさま?」
ほんの少し。ほんの少し違うことを考えただけだ。それなのに、久の声色が急にかわった。
ぞくりと背筋に悪寒が走ったのは、半年前の騒動を思い出してしまったからだ。
「聞いておられましたか?」
「ああ」
奥平は熱心に数回首を上下させた。
「本当に?」
疑わし気に見つめられて、馬鹿正直に聞いていませんでしたとは言えず、差し出された湯呑を受け取ってすすった。
「由比家の動きが気になります」
思わず湯呑の縁に歯が当たる。
「しきりに他家との縁組を進めております。いえ、お年頃の姫君や若君がいらっしゃるので、なにもおかしなことではないのですが……あそこは」
これだ。これが久の恐ろしいところだ。
八郎様のご正室妙殿と親しくしていただき、その後見を受ける形で女衆としてかなりの地位にいるとかで、今川家中の全奥方とつながっているのではと思わせるほど耳が早いのだ。
……どんな情報網だ、恐ろしい。
いや、震え上がっている場合ではない。ありがたいと思うべきだ。
「由比家か」
奥平はゆっくりと湯呑を下ろし、ぐっと唇を引き締めた。
今川家の中で軽んじられているわけではないが、特に当代では、興津家を海軍の主軸に据えている御屋形様の方針が不服そうだというのは、前々から気にはなっていた。
今川家の庶子が嫁いだり養子に出たりしている家系なので、無視できない家格でもある。
「おまえさま、しっかりなさってくださいまし。由比家には高姫がおられます」
はっと息を吸い込んだ。
そうだ、桃源院さまを引き取りたいと申し出た、先代のご息女が嫁がれた先だ。
庶出の姫君だということもあり、これまで目立った動きをされてこなかったが、桃源院様が隠棲なさる地に名乗りを上げた唯一のお方として覚えがある。
よもや、桃源院さまがまた動き始めたというのか?
顔を上げると、厳しい表情の久が頷きを返してきた。
「あれから二年です。たった二年とも、もう二年とも言えます。ほとぼりが冷めたと動き始める者もいるでしょう」
奥平は息を吐き、不安を隠せずあやふやに頷いた。
桃源院様は、奥平がかつてお仕えしていた方だ。その御命令を直接お受けしたこともある。
なかなか厳しく、敵にも味方にも容赦のないお方だという事はよくわかっている。
「おまえさま」
ぴしり、と鋭い声にたしなめられた。
「おまえさまのご主君は御屋形様にございます。いまだ年若い御屋形様の後方をしっかりとお守りせねばなりませぬ」
久の声色に、物理的に背中を叩かれた気がして背筋が伸びた。
武や智でお支えするそうそうたる面々がいるにもかかわらず、御屋形様はいつも奥平らを重宝してくださる。今川館を支えるのはその方らだと、あのお言葉を胸に刻んだのではなかったか。
そうだ、御屋形様がどんなに優れたお方であり、神にもなぞられる慧眼の持ち主であろうとも、万能ではない。
難事が降りかかるのであれば、その盾となるべく備えなければ。
そんな奥平の表情を見て、久の頬がほころんだ。
柔らかな、優しいほほえみだ。
思わずどきりと胸が鳴った。
急に、夜着に小袖を羽織っただけという無防備な姿に目を引かれた。
「おまえさま」
なななな、なにかな。その合わせはちょっと緩すぎるのではないかな。
優しくまろやかなその口調に、どきどきと胸が高鳴るのと同時に、思わず身構えてしまう。
嫋やかな白い手が伸びてきて、まだ湯呑を握ったままの奥平の腕にそっと触れた。
仲良し夫婦w




