31-8 三河 吉田城13
まっすぐにこちらを見ている岩津の次郎三郎の顔には覚悟がある。
青ざめた松平の少年との対比が際立っていた。
どちらが優秀とか、そういう問題ではない。これは守るべきものがある者と、多くを失った者の差だ。
何故、どうして……そんな、声なき声が聞こえるような気がした。
孫九郎はパチリと扇子を閉じて、無言のまま彼らを手招いた。
扇子の先端の更に向こうで、祖父と孫とが深々と、床に額がつくほど頭を垂れた。祖父の方には片腕がないので、若干ぐらついていたが、それでも十分に彼らの内心がうかがい知れる礼の取り方だった。
「……生きて」
松平衆の誰かがそう呟いた。ぶわり……と、岩津の老人から怒りの気配が沸き起こった。
ゆっくりと顔を上げた岩津老が、ぎらぎらと光る眼で白装束の松平衆を舐めるように見回し、硬い表情の酒井に目を止める。
「生きていて済まぬな、酒井」
「……ご無事で何よりにございます」
岩津衆を壊滅状態に追い込んだのは織田方だと思っていたが、表面上に見えているものと事実は違うのかもしれない。
松平の宗家としては、どうあっても急ぎ分家のすべてをまとめ取り込まなければならなかった。そうしてまずは西三河を統一し、今川からの圧を撥ねつけたかったのだろう。
何よりも避けるべきは、同じ松平家の中で揉めることのはずだ。
そこで目障りになってくるのは、かつては松平宗家嫡男の立場にあり、現在は分家の筆頭と呼ばれている岩津だ。
そうか、分家は順次織田に攻め落とされたように見えていたが、彼らが一番の目的にしていたのは岩津なのかもしれない。
鬼のような形相の祖父に対し、岩津の次郎三郎は松平宗家の者たちには一瞥もくれなかった。
ただひたすらに、そこしか見るべきものはないと言いたげに、孫九郎ひとりに視線を据えている。
「近う」
孫九郎がさらにそう促すと、真後ろに首を巡らせていた松平宗家の者たちがはっとしたようにこちらを向いた。
「そのように遠くては話もできぬ」
岩津の次郎三郎は再び軽く頭を下げてから立ち上がった。
美しい所作から、きちんと躾けられた武家の子だとわかる。だからこそ、白装束の次郎三郎よりも前、白木の三方に乗せられた印首よりも孫九郎に近い位置まで進み出たことが意図的なのだと伝わってくる。
一瞬、酒井の目つきが無になり、それから困惑した表情を作るのが見えた。
「岩津殿、そのように高座に近うては失礼にあたるのでは」
善意で忠告していますという体だが、宗家当主と三方の印首よりも前に出るなと言いたいのだろう。
岩津の老人は何かを言い返そうとしたが、その孫はするっと無視した。
そして、三方と孫九郎とのちょうど中間の位置、明らかに近すぎる位置で腰を下ろし、胡坐をかいた。
一瞬、その場に何とも言えない沈黙が落ちた。
下座ではあるが、近しい親族や家臣でもない者が座る位置ではない。
対等とは言えなくとも、松平家の者としての立場は譲らないと言う風に背筋を伸ばす。
父や家臣の大勢を目の前で亡くし、この子の中でどんな変化が起こったのかわからないが、失うものがないという表現は撤回しよう。
まっすぐに孫九郎を見ているその目に迷いはない。
……そうこなくては。
扇子で隠した唇に、うっすらと笑みがこぼれた。
「ただいまを持ちまして、岩津家はなくなります」
腹に力の入った少年の声が大広間に響く。
「松平宗家は、次郎三郎康長、それがしが受け継ぎます」
「……なっ」
白装束の集団は反射的に腰を浮かせた。片膝を立てた者もいる。だがしかし、今川の武装兵らが物々しく刀に手を当てたので、それ以上のことはできなかった。
「お待ちを。これはどういう事でしょう。このような傍若無人は許されてよいものではございませぬ!」
「なんじゃ、白装束を身にまとっているという事は、すぐにも命を差し出すということであろう。違うのか? 今更松平宗家を名乗ることができると思うておったのか?」
三方に乗せられた印首の真横に腰を下ろした岩津老が、皮肉というよりも棘がたった口調で言い放った。
「かつてその方の父親がワシに言うたのだ。死に体の役立たずでは宗家を背負えぬと。それをそのまま返してやろう」
「なにを!」
酒井は言い返そうとしたが、それより先に孫九郎が「やれやれ」と声を発したので続けることができなかった。
「松平の家督については松平で話おうてくれればよい」
うちには関係ないだろうと、面倒くささを前面に押し出してそう言うと、そこに何か希望を見出したのか、酒井が続く言葉を飲み込んだ。
こういう謀臣が何を考えているかなど手に取るようにわかる。この場をやり過ごしたら岩津衆を始末すればいいと思っているのだろう。
「そういえば、岡崎城はどうされますか」
ナイスなタイミングで井伊殿が片手を上げた。
孫九郎は横目でそれを見て、小さく笑った。
「岡崎衆が生きておるのなら返してやればよい」
少し考えるふりをして首を傾け、ぽんと扇子で掌を叩く。
「岩津の城が燃え落ちたそうだな、代わりに安祥城に入ればよいのではないか?」
「そうさせていただきます」
毅然としてそう言い切ったのは岩津の次郎三郎だ。
松平宗家の者たちには殺意混じりの視線を向けられているし、今川家の方からもぶしつけすぎると顔をしかめられている。こんな状況で背筋を伸ばし、孫九郎に正対できる少年の向こう見ずさに、何も言えずに真っ青な顔になっていた宗家次郎三郎がつられた。
「待て」
岩津次郎三郎はやはり振り返りもしない。
「主家に逆らい、謀反を起こすというのなら黙ってはおれぬ」
「……謀反?」
片腕の老人が嘲笑交じりに吐き捨てた。
「おのれらが織田を引き入れ、西三河を踏み荒らしたのだ。戦いもせず白装束など身にまとい、年寄りの首を差し出して、しおしおと治部大輔さまに降伏したのであろう。謀反だと? 降伏するぐらいなら最後のひとりまで戦えと言われたであろうに。馬鹿者どもが!」
「爺さま。このような場で身内の恥をさらすべきではありませぬ」
「恥」と露骨に言い放たれて、宗家次郎三郎の作られた殊勝さが剥げ落ちた。だがどんなに憎々し気に睨んでも、岩津老が言う通り、松平の翁の首をもって降伏した事実は変えられない。
しかもそれは、今川家が攻め入って落としたわけではなく、そもそも軍勢はまだ領地に踏み込んでもいなかったのだ。
頭を下げるなら領地を削られる前、早い方がいいと酒井あたりに言われたからだろうが、それを好意的に受け取るか否かは強制されるものでもないし、実際にあまりいい目で見られていない。
「ともあれ、松平宗家は一太刀も交えず今川家に膝を屈し、老人のそっ首ひとつで済ませようしたのです。このことは末代まで語り継がれるでしょう」
あるいはそれは、酒井の言いなりになっている宗家当代への苦言だったのかもしれない。
果たしてどこまで本人の心に響いただろうか。
だが少なくとも、聞いていた孫九郎には思うところがあった。
父を助けてくれと細い声で泣いた子が、凛と背筋を伸ばし声を張る。そこにあるのは、多くを失っても最後まで手放さない武士としての誇りだ。
この子の前で、「そんなもので腹は膨れない」とは言えそうになかった。




