31-3 三河 豊川1
豊川河川敷の草原に、福島の軍勢に囲まれて数十人の鎧武者がいた。
いずれも血まみれで、鎧はボロボロ。大勢が重傷だ。たった今激戦区から落ち延びましたと言う風に、荒い息をつきながらへたり込んでいる。
ちらりと見た河原に船はない。誰もかれもずぶ濡れのようだし、重い鎧をつけて足で渡ってきたのだろうか。
ひと通りそれらのことを観察してから、孫九郎は足を進めた。
気づいた父が腕組みを解き、側付きから槍を受け取る。
立ち上がる体力もなさげな者たちが、今更何かをできるとは思わないが、勘助が言う「ひっくり返す方法」のひとつが己の命だとわかっているので、あえてその警戒を大げさだとは思わなかった。
孫九郎が距離を詰めると、ギラギラと磨かれた刃が陽光を照らし、彼らに付きつけられた。
四方八方から向けられた槍や刀に、身を守るすべのない者たちがなお一層身体を寄せ合う。
ほとんど全員が手傷を負っていて、中には身体を起こすこともできない者もいた。彼らは互いに互いをかばうような仕草で、突きつけられた刃を見上げている。
孫九郎は、漂ってくる濃厚な血の臭いに顔をしかめた。
そのうちのひとり、ひと際立派な鎧を身にまとった男が、ごぼごぼと湿った音を立てながら何かを言おうとした。
兜を外されているので、眼球に突き刺さった矢を抜かずにそのままなのがはっきり見える。
鼻腔に張り付く悪臭から、内臓もやられているのだとわかった。
もう長くないだろう。
誰の目にも虫の息とわかるその鎧武者を膝の上にのせているのは、顔中に鮮血を浴びた老武士だ。
皺に覆われた顔には無数の刀傷があり、眉も髭も髪も白い。
彼自身も手傷を負っているのに、その眼光は炯々と輝き、いまだ尽きぬ強い生命力を漂わせていた。それと同時に……激しい憎悪も。
「父上! 父上っ!」
ひゅうひゅうと息を漏らす鎧武者に縋り付くのは、元服を迎えてすぐあたりの少年。老武士同様、頭から浴びた鮮血に、滂沱と流れる涙がいくつもの筋をつけている。
目が合って、むき出しの怒りと憎しみの感情が孫九郎を射た。
明らかに同じ血を感じる祖父と孫。それはかつて、京で出会った松平のふたりを連想させた。
「頼む、どうか頼む。父上を助けて……」
憎悪の塊のような少年の声は、だがしかし細く震えていた。
「次郎三郎」
老武士の口からこぼれた名に、真田の次郎三郎が反応する。だが老人が呼んだのは自身の孫だ。
「見苦しいさまをさらすな」
今気づいたが、老武士には片腕がなかった。この戦で失ったわけではないのだろう、鎧の下の袖の部分が邪魔にならないように縛られている。
老人は片腕で鎧武者を抱えたまま、ぐるりと一周刃の壁を見回し、再び孫九郎に視線を据えた。
「今川治部大輔様でございましょうや」
「……いかにも」
孫九郎は無意識のうちに扇子を握りしめ、口元に当てた。
すさまじい眼光で見据えられたが、ここで怯むわけにはいかない。
「先だっての約定は、いまだ有効でしょうか」
おどろおどろしいその声色は、理性を保っているようでいて、いつそれが切れるかわからない危うさがあった。
約定というのは、井伊彦次郎が掛川城まで運んできた申し入れに対する返答だ。
領地安堵と引き換えに、誰かが分家をまとめ宗家に対峙すること。
返答がなかったのは、孫九郎が書簡を受け取ったときにはすでに織田の兵が入っていたから、分家当主たちが話し合う時間がなかったせいもあるだろう。
「状況が変わった」
孫九郎は扇子で口元を押さえながら、努めて平淡な口調を保って言った。
「そんなっ!」
絶望の声を上げたのは、松平の次郎三郎だ。ずり落ちそうな兜の内側から、非難と恨悔の涙がこぼれ落ちる。
「……安城に付くと?」
老武士の口調がどろりと淀んだ。無事な方の腕にぐっと力がこもる。
「織田に臆したかっ」
響き渡る大音声は、その細い身体のどこから出たのかと思うほどのものだった。
ざっと土を蹴る音。間を置かず上がる怒声。
これだけの刃物を突き付けられているのに、死地を覚悟した者は強い。容赦のない敵意に囲まれて顔色を悪くしたのは老人以外で、当の本人は怯みもしなかった。
「竜よと称えられても所詮はこの程度。失望いたしましたぞ!」
誰もが一斉に殺意を込めて刃を突き立てようとした。
真っ先に動いたのは父であり、その横に控えていた渋沢だ。意外にも二木も刀を抜いて振り上げようとしていた。
何をしている。お前は止めるべき立場だろう。
孫九郎は溜息をつき、「そこまで」と声を張った。
老武士らとの距離があと少し狭ければ、間に合わなかったかもしれない。
だがしかし、刃はギリギリ付き立つ寸前で止まった。
……良かった。声が届いて。
こういうこともあるから、戦場で大声が必須なのだ。
孫九郎は血の気の失せた老人の、さながら幽鬼のごとき顔を見つめた。
その容貌は松平の翁にどこか似ている。岩津松平家の先代当主、つまり翁の実兄なのだ。
孫九郎はさらに数歩距離を詰めた。
老人から、その腕に抱えられた鎧武者、そして少年へと視線を移す。
鎧武者は息子だろう。孫が無事なのはせめてもの幸いだが、息子はもうすぐ死ぬ。
戦国時代という厳しい次代を生き抜いて、人生の終盤で息子を失うとは。
同情はかえって侮辱だ。孫九郎は自身にそう言い聞かせながら、静かに口を開いた。
「織田は撤退するだろう」
少なくとも、大半は引くと思う。ここまで西三河を平らげたのだから、いくらかは残る可能性はあるが、それも清州が無事だという前提のもとだ。




