31-1 三河 吉田城8
井伊殿は様子を見ると言っているそうなので、その日はそのまま床に就いた。
夜も更け切っており、これから何かをする気にならなかった、というのもある。
翌朝、スズメのちゅんちゅんという声を聴きながら目を覚まし、真っ先に考えたのが、三好の弟殿はどうしたかな、という事だ。
庭先をうろついているって、なんでまた。寝ないとパフォーマンスが落ちるだろうに。
いろいろな気がかりがあって眠れないというのは理解できる。
だが孫九郎の場合、ただでさえ肉体的なハンデがあるのに、頭も働かないのは困るから、短い時間でも確実に睡眠をとるようにしている。
寝ないと大きくなれないし。
「白湯でございます」
朝の一杯を運んできたのは土井だ。この後身支度をして、軽く食事をして、時間的余裕があれば井伊殿と話をする予定だ。
だがその前に、二木からの報告が欲しい。
「お勝」
着替えをして、髪を結いなおしてもらっているところに、父が来た。
パリッとした直垂よりは見慣れた小具足姿だ。全体的に土埃をかぶっているところから言って、すでに一走りした後だな。
「お早いですね。二木は?」
豊川の向こう側の戦いは、昨日の段階ではまだ片が付かなかったそうだ。分家たちもなかなか頑張っている。だが織田勢が数で優っているのは確実で、長くはもたないだろう。
「夕刻にはいったん収まっていたが、夜から明け方にかけて、川を渡ろうと攻防があったそうだ」
二木は命じられた通りに傍観し、待ち構えたが、結局両者ともに陣を引いたそうだ。
「豊川を渡って、今川領に逃げ込もうとしたのでしょうか」
「いや、落ち延びるというよりは、使者を送ろうとしたようだ」
父が懐の隠しから取り出したのは油紙に包まれた書簡だ。川を渡ってきた無人の船から回収したとのこと。
孫九郎は水気をはじく油紙を丁寧に開いた。少し湿った感触があるから、水に浸かったのかもしれない。
その書簡は一度中を開いた形跡があった。父も二木もすでに内容を確認済みなのだろう。
「……援軍の要請ですね」
書かれているのは簡単な文面だが、その筆跡には必死さがにじんでいた。
一読してそうつぶやくと、父は相変わらずもじゃもじゃの髭をこすりながら頷く。
「分家の被害が拡大している。……もたんぞ」
「こうなることはわかっていました」
五千の兵を相手に、千にも満たない松平分家が対抗できるはずもない。千といっても分家がすべてまとまり、力を合わせての数だ。そもそもまとまるかさえ怪しかった。
孫九郎はしばらく思案した。
「松平の翁は?」
「岡崎だ」
「安祥城ではなく?」
「岡崎城を明け渡すようにと宣告し、織田軍とともに本陣にしたようだ」
たしか岡崎城は分家の領分だったはず。
なるほど、父が言うように「もうもたない」。分家の多くが宗家に吸収されたとみていいだろう。
広げた書簡に再び目を通す。
力強い署名には、岩津城城主とある。松平分家筆頭であり、現当主は翁の甥だ。
「かなりふるいにかけられた。残るは岩津、竹谷あたりだろう」
「どちらもご老人の子らでないのが皮肉ですね」
松平の分家の多くは翁の息子たちで占められているが、もちろん中にはそうではないところもある。とはいえ、どこももともと勢力的には大きくない。まとまらず個別にやられたのなら瀕死だろう。分家が我を保てるのはあと少しか。
「そろそろ出るか?」
父がそわそわしている。戦こそ誉れ、槍をふるうことが武士の生きざま……それを地で行く男だ。張り詰めた筋肉が待ちきれないと震えている。
まあまあ、どうどう。とっさにその肘のあたりを掴み、下向きに引く。そうすると父は動かなくなる。
「もう少し待ってください。昼までに土岐の事がわかるはずです」
「昼過ぎには出るか? 出陣するなら支度をせねば」
「父上」
孫九郎にしてみれば、人的損失もある武力衝突はできるだけ避けたいのだ。
父とは真逆で申し訳ないが、リスクは最小限まで減らしてから臨みたい。
「予想通りなら、織田軍に動きがあります。それからです」
孫九郎がそう言うと、父は「ぐう」と、どこから出したのかわからない唸り声を上げた。
父が孫九郎に弱いのは確かだが、逆もそうだ。へにょりと垂れ下がった眉を見て、かわいそうだと思ってしまうのはきっとよくない。良くないが……。
「わかりました。それでは支度をはじめてください。ただし、渡河は合図があってからですよ」
「もちろんだ!」
父はパッと表情を明るくした。そして、こうしてはいられないと、ドシドシと重量級の足音を響かせながら去っていく。
その小山のような後姿を見送って、思わず苦笑がこぼれた。
遠ざかっても人並外れた巨躯なのが見て取れる。全身が筋肉の塊のように鍛え上げられ、惚れ惚れするほどの武人ぶりだ。
そんな父は……福島上総介は厳密には父ではない。だが祖父なので、孫九郎には確実にその血統は受け継がれているはずだ。この世には隔世遺伝というものがあって、むしろ孫にこそ遺伝子が強く引き継がれることもある。だから……
「……いつ大きくなれるんだろう」
相変わらずちんまりとした両手を見下ろして、思わずそうつぶやくと、聞いていた誰かが盛大に噴き出した。
孫九郎はキッと目を鋭くして振り返るが、誰もが真顔だ。真顔すぎるほど真顔だ。
その誰も笑ってなどいませんよ! と言いたげな雰囲気に、かえって腹が立ってきた。
特に……谷。お前いま目をそらせたな。庭先が気になるふりをしても駄目だからな!
「すぐに朝餉をお持ちいたしますね」
土井までなんだよ! なんでそんな顔でうんうんと頷くんだよ!
「干物をつけろ。豆腐の味噌汁とな」
カルシウム! タンパク質! 今から頑張って食べていれば、成長期に間に合うはずだ。
みてろよ谷。お前の背丈なんかすぐに追い抜いてやるんだからな!




