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春暁記  作者: 槐
駿河遠江三河編

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30-8 三河 吉田城5

 その夜。寝間に入る支度をしていると、静かに奥の襖が開いて弥太郎が入ってきた。

 夜番の小姓が腰ひもを結び、背中と袖のしわを背後から引っ張るのに身をまかせ、ちらりと目だけで「どうだった」と問う。

 弥太郎は一礼して、声が届く距離まで近づいてきた。

「ご推察のとおりかと」

 やはりそうか。

 孫九郎は頷き、どうしてこうも面倒ごとが持ち込まれるのだと顔をしかめた。

 幕府の使者殿は現在二の丸の館に滞在している。警護と称した見張り付きだが、これだけ喧嘩を売られたのだから当然だ。

 大広間を出た後、使者殿たちは丁重にもとの部屋に戻された。

 盛大な苦情が上がったが、世話役たちには同情して共感して慰めてやれといっておいたので、今のところ大きな問題は起こっていない。

 世話をする女中のほとんどは忍びだし、それ以外も手練れをそろえているから、この先も制御できない類の行動をとることは難しいだろう。

 孫九郎が気になった、例の長身の男について。

 何者かと調べるまでもなく、段蔵が知っていた。かつて京で見た顔らしい。しかもその時は京兆家の家臣だったそうだ。

 あいつが断言するほどだから、記憶違いなどではないだろう。

 三好一族が京にもいて、京兆家に仕えていたとしても不思議はないが、その者が三好殿の弟とともに使者となるというのはおかしな感じがする。

 阿波三好家と京兆家だぞ。まるっきり敵対派閥じゃないか。

「話の中で気になるものが。典厩家の若君が京兆家に養子にはいったそうです」

 ふと脳裏に過ったのは、もの凄い顔色をしていた京兆家の当主の顔だ。戦の最中にまあいろいろあって、結局生き延びはしたと聞いているが、表舞台からは消えているのではっきりしない。

 家督は嫡男に移った。そのことは他ならぬ三好殿からの書簡で知った。

 文面からいって、今や阿波細川氏のほうが強い印象を受けるが、京兆家は細川氏の総領家だ。

 その当主の権威は消えてはいない。

 そんな京兆家に養子? 現当主は病弱だと聞くがまだ若い、十分に後継を作れる年齢だと思うのだが。

 佐吉あたりに聞けば詳しいことが分かるのだろうが、あいにくと小田原出張中だ。

 勘助に尋ねるか? あの男に聞くといろいろ厄介の種を仕込まれそうな気がするが。

「阿波三好家が京兆家に鞍替えしたかのような会話でした」

「まさか」

 弥太郎の言葉は、本当であれば笑い飛ばすべきものだ。何故なら、三好殿は二年前に阿波細川軍の総大将を務めたほどの重臣だからだ。

 阿波細川氏が擁立した公方が立ち、いよいよ阿波細川氏が権力を掌握しつつあるのではないのか? それとも……

 再び、紫色の顔色をしていた京兆家先代の顔が脳裏をよぎった。

 京での勢力図など、遠い駿府ではかかわりないことだと無意識のうちに考えないようにしていた。今川家では先代が没し、代替わりで忙しくしていたというのもある。

 大きな問題が起こっているなら、佐吉でなくとも他の堺商人たちから情報が入ってきていただろう。現に、三好殿がなかなかよろしくやっているという話は伝わっている。

 だがその栄光の陰で何が起こっているのか、知ろうとはしなかった。

 光が強ければ強いほど、その光が作る闇は深い。影の中で暗躍する者の手が、今川家にも伸びているという事だろうか。

「……三好殿は大丈夫なのか?」

 弥太郎の真顔を見ているうちに不安がこみあげてきて、ついそんな言葉がこぼれた。

 そうだ、三好殿は三河で大敗を喫した。阿波細川軍に土をつけ、大勢の戦死者を出した。

 その後、彼らが擁立する公方が立ち、幕府で阿波細川家の勢力が強まっているとはいえ、敗将が大きな顔をしていることへの反発がなかったとは思えない。

 考えすぎか? 現に三好殿は、咎められるどころか幕府内で大きな権限を持つようになっている。それに対する反発が、深刻なものである可能性もなくはないが、どうなのだろう。

「失礼いたします。山本様がおいでです」

 夜番の小姓が恐る恐ると言った口調でそう言った。

 彼がおっかなびっくりなのには理由があって……ほら、古参の側付きたちが睨んでる。

 南を含め、昔から孫九郎の宿直を務める者たちは、睡眠時間が少ないことをすごく気にする。とある日の会話で、「夜寝ないと大きくなれない」的なことを話したからだろうと思う。

 そのあたりは孫九郎も気になっているが、やるべき仕事があるのだから仕方がない。

 仕方がないから歓迎の白湯を用意するように指示をした。

 仕方がないからついでに部屋の明かりも増やす。

 しばらくして、特徴的な義足を突く音が聞こえてきた。大広間で聞いたのより極小さいところをみるに、やろうとすれば足音を潜めることも可能なのだろう。

 しばらくして勘助が姿を現し、素早く室内に滑り込んでからドシンとその場に座って頭を下げた。

「お休み前に申し訳ございませぬ」

 絶対そうは思っていなさそうな表情だけど。

「その方が寝る前のあいさつに来たとは思うておらぬ。……何かあったか?」

「三好孫七郎殿に、助けは必要かと尋ねてみました」

 三好の弟殿は、明らかに今川家に対して悪感情を抱いている。間違ってもこちらの手助けを要求することはないはずだ。……本来なら。

「……あの背の高い男か」

 孫九郎はそう言って、しばらく黙った。

「京兆家の家臣だそうだな」

「お耳が早い」

 こいつに言われたら背筋がぞわっとする。

「十中八九、三好一族を含む幕府の権力闘争です」

 勘助はニヤニヤと、お近づきになりたくない顔で笑った。

「三好殿に恩を売る好機ですが、どうされますか」

 ……勘弁してくれ。

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― 新着の感想 ―
幕府の権力闘争という名の足の引っ張りあいですね 三好父に恩を売ると、もれなく未来の日本の福王と義兄弟になるフラグが立ちそうな?(妹ちゃんが三好長慶の嫁に)
「生きることに頓着していない」「あの男は駄目だ」祖父/養父の福島上総介からそう評された元長ですが、孫九郎は手助けをするのか気になるところ。 若き義晴は亡くなり阿波公方義維が継いでいるみたいなので、細…
今の京兆家当主って誰だ……? 史実だと晴元が元長と一緒に本土に討って出る頃だから高国……?
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