30-7 三河 吉田城4
おそらく皆が気付いたことがある。
父の槍が三好衆のほうに飛んで行ったとき、その軌道は弟殿に向かっていた。
幕府からの使者を串刺しにしようとした是非はともかくとして、弟殿の背後に控える者たちの中には体格が良い武官もいたので、彼を守るよう行動すると思っていた。
とっさに動けなかったのは十分理解できる。孫九郎でも棒立ちになるしかなかっただろう。だがしかし、奇跡的に回避した弟殿の背後で、一瞬動きを止めた者たちが見せたのは、防御反応にしては妙だった。
もしかして、という疑いは誰も口にしなかった。
「幕府の使者たる我らに、このような非礼っ」
床に深々と突き刺さっている槍に顔色を悪くしながら、三好の弟殿がなおも声を張る。
その言葉を最後まで言わせず、「ふう」と息を吐いて首を振ったのは、井伊殿だった。
「貴殿は確かにその通りの御役目を担っておいでなのだろうが、面と向かって御屋形様への誹謗は許しがたい。現に刀に手を掛けましたな」
「それは!」
武器を取り上げようと囲いを狭めると、なおもやかましく騒ぎ立てるので、井伊殿が穏やかな口調で正論を突き付けた。
「本来、このような交渉に非武装は当然のこと。刃物は預けるのが礼儀でござろう」
そのとおり。使者殿が刀を手放さないので、こちらも同様にしたのだ。そして案の定、揉めたら手が出た。うちの方からだけど。
井伊殿はするりと顎をさすって三好衆らを眺め、目を細めた。
「御屋形様、ここは明日に話し合いを持ち越すのがよろしいかと。お互い頭に血が上っておっては、まともな会話も成立しないでしょう」
「いや」
孫九郎は軽くかぶりを振った。
「明日になったらなったで邪魔が入りそうだ」
蛇顔のトラブルメーカーの事だとは言っていない。一人ニヤニヤ笑っている片目の軍師だとも言っていない。……違うとも言わないけど。
「此度の顔合わせは、どうしてもとの申し入れがあってのことだ」
孫九郎は中腰になって背中合わせに身を寄せ合う三好衆を眺めながら、脇息に頬杖をついた。
「なかったことにしても良いなら、このまま駿府に引き返すが……土岐家への申し開きは幕府の方々にお願いする」
「我らを脅すか!」
失礼な。今の言葉のどこが脅しなんだよ。ラブ&ピースから程遠いのは確かだけど。
「土岐の事情は知っておろう。逆にこちらに利点はない」
そもそも、現在美濃守護の座を争っている兄弟は兄優勢であり、今回話をもってきたのは弟側だ。劣勢側と手を結ぶメリットはない。
自身の正室を利点で選ぶという事には抵抗がないわけではないが、そういうものだと納得してもいる。婚姻とはこの時代における戦略の一端であり、正室がいない孫九郎にとっては大きな切り札に成り得るからだ。
いつの日か正室を娶る必要があるのはわかっている。それは今川家の為の婚姻で、家をより強く守れるようなものでなければならない。
令和の時代に共に生きた妻のような存在にはならずとも、手を携え、同じ方向に進めるパートナーであってほしいとは思う。
「幕府はよもや、今川に正室を強要できると思うておるわけではなかろうな」
孫九郎はトントンと扇子で膝を叩いた。
「あるいは、婚姻の同盟により今以上に大きくなることを恐れておいでか」
『誰が』とは言わなかった。だがしっかり伝わっただろう。
顔色を変えた三好の弟殿の背後、やはりあいつだろうなとその背の高い男に視線を据える。
孫九郎だけではなく、井伊殿も勘助もそちらを見ていた。
見つめられた当の本人は、一瞬だけ鋭い光をその目に過らせたが、それ以上我を露にすることなく視線を伏せた。
「御屋形様、此度のご縁談、やはりお断りする方向でよろしいのでは」
推し進めた張本人の勘助が、あっさり梯子を外して言い放った。
交渉する前にそういう話が出るとは思わなかったのだろう、三好の弟殿が目に見えて狼狽する。
「……まさか」
何かを察したらしい三好の弟殿が、唸るような声でつぶやいた。
まさか何だ? すべてが吉田城に兵を集める口実だったと今頃気づいたか?
「まさか我らを罠にはめようと!」
いや違うけど⁈
そもそも罠にはめる理由があると思っていることがおかしい。
三好の本領は阿波にあり、最近は京でも勢力を強めているとはいえ、今川家とは物理的な距離がある。
阿波細川家家臣であり幕臣、一介の使者に過ぎないこいつらを罠にはめて何かいいことがあるのか?
「これ以上の行き違いながいように、お互いに刀を置いて話をしましょう」
きっと井伊殿も自意識過剰だと思ったのだろうな。まるで癇癪を起した子供をなだめるような口調だ。
「なっ」
案の定、弟殿はそれに反発した。井伊殿の苦笑というより失笑に、屈辱を感じたのだろう。
馬鹿にされていると腹を立てたのはわかるが、ここでさらにバリバリと敵意を発散するのはいかがなものか。
三好殿には申し訳ないが、絶対にこいつ、使者役には向いていないぞ。
「どうやら幕府はこの縁組が不服のようだ」
孫九郎はそういって、結局刀を手放そうとしない男たちに呆れた目を向けた。
「それならそうと、もっと早うに言うてくれ」
「さようにございますな」
井伊殿の同意も得たことだしと、孫九郎は胡坐を解いて立ち上がった。
「仕方がない、土岐の使者には念入りに詫びを入れよう」
「御屋形様が早うにご正室を決めぬからでございますよ」
孫九郎が席を立つと、末席に座っていた渋沢も無言のまま立ち上がった。まるっきり護衛のような振る舞いで、血走った目の三好衆の視線を遮る位置に立つ。
「ま、待て!」
「……その無礼な口を縫い付けてやろうか」
三好の弟殿は呼び止めようとしたが、黒ずくめの男前に地の底を這うような低音で言い放たれて、たちまち怯んだ。
渋沢は今、超絶不機嫌だから……仕方ないよね。




