30-4 三河 吉田城1
近くまで来て吉田城を見た瞬間、「やられた」と思った。
いや、敵に攻め落とされていたとかそういうのではない。
大手門に掲げられた見覚えのある旗が風にはためき、そこに到着している客人の素性を知らせている。
「三階菱に五つ目結」……ひし形を鏡餅のように算段重ね、その下に結び目を模した四角が五つ配置されたものだ。
「あー、そうきたか」
孫九郎が声を漏らしながら額を手で押さえると、同じように顔をしかめてそれを見上げていた者たちが一斉にこちらを振り返った。
「御屋形様、さすがにこれは」
怒りの混じった口調でそういったのは次郎三郎だ。
幕府からの仲介があるとは聞いていたのだ。断ってもいい、とにかく話をきいてやってくれと。
まさか三好家から誰かが来るとは思わなかった。
いや、まだわからないぞ。三好の旗だからといって、こんな事に三好殿が直接駆けつけるはずはない。だったら……。
「御屋形様」
ふと、良く通る声が孫九郎を呼んだ。それが父の声だったことにドキリと心臓が跳ねた。
「ご無事で何よりにございます」
大柄な父が、福島家の家紋が白抜きされた一張羅の直垂を着て大股に近寄ってきた。
「……父上」
何事かと問いかけようとした言葉は途中で途切れた。父の背後から、ものすごい目つきで睨んでくる男がいたからだ。
知己ではない。少なくとも孫九郎の記憶にはない顔だった。
ビシビシと伝わってくる敵意を、父を除く誰もが鏡のように跳ね返した。
真っ先に動いたのは谷ら護衛組だ。馬上では長槍を握るべきだろうに、愛用の刀の柄にいち早く触れている。
孫九郎が騎乗する白桜が、ぶるると鼻息荒く首を振った。落ち着かない様子で足踏みをし始めたので、派手に飾り紐のついたたてがみを宥めるように撫でる。
まるで射殺しそうな目で睨まれているが、そんなものは今に始まったことではない。命がけのやり取りが日常茶飯事の戦国時代だ、そこには常に怨嗟と憎悪がある。
だがここで孫九郎に何かをできる者などいないだろう。吉田城には六千の今川兵が集まっているし、なにより父が間近にいるのだ。
孫九郎が手綱から手を離すと、父が轡を取った。
注目される中、なんとか不格好に見えないように下馬する。
「あの者は?」
顔の距離が近づいたので、睨んでくる男からは見えないように問いかける。
父は真顔のまま、かろうじてわかる程度に首を振った。一言では話せないほどの厄介ごとか?
「ワシから離れるな」
父の太い声が素早くそれだけを告げる。
孫九郎はちらりと、ますます鬼のような形相の男に目を向けた。
「幕府の使者ですね」
返答はかすかな頷きだ。
「数は」
「五十」
孫九郎はすっと父の傍らを抜け、大手門に向かった。
背後からぴたりと父と渋沢らが付いてくる足音が聞こえる。
男との距離が詰まり、相手方が複数人で固まっているのを冷静に観察した。
武装解除はされていない。だが腰の刀に手を当てた時点で、谷らは排除に動くだろう。
「おお! 御屋形様!」
その緊張を緩めたのは、少し離れたところから聞こえた大声だ。
小走りに駆け寄ってくる井伊家の三人にちらりと視線を移し、これはどういうことだと目で問うてみたが、返ってきたのはやけに上機嫌そうな笑顔だった。
真新しい木の臭いがする。
無残に燃え落ち、大量の血を吸い込んだ激戦が記憶に刻みついているだけに、まるで違う場所に来てしまったかのような錯覚を覚えた。
生まれ変わったというか、まったく新しい城のように堂々たる佇まいだ。
この二年で修復され、三の丸を含めた一帯が土塁と堀で囲まれた吉田城は、さらに外周を含め広大な領域を縄張りにする予定だという。
氾濫にもびくともしない構造を考えているそうで、むしろ川の流れを利用して物資の輸送や商業域の拡大も視野にあるとか。
豊川の下流に港をつくるという計画もあるから、流通の面で機内とぐっと近くなるだろう。
そんな吉田城二の丸、大広間。
孫九郎は高座に座り、渋い表情の男たちと正対した。
「三好孫七郎殿です」
井伊殿がしれっとした表情で紹介してきたのは、目つきの鋭い大男だ。孫九郎が知る三好殿の弟だそうだ。
兄に比べて取り繕うことはせず、真正面から孫九郎を睨み据えている。
細川軍と対立した今川に対する敵意か? 対立しただけではなく敗北してしまったことへの反発か? どちらも大いにあり得るが、最後にこやかに別れた三好殿を思い出すと複雑な気持ちになる。
いや困った。三好とはそこそこうまくやっているつもりでいたのだ。
この男の兄、三好筑前守殿とは時折書簡のやり取りをしているが、きわめて柔和で理性的な男だし、友好的ですらあった。あれで内心では怒り狂っていたとか?
「今川治部だ。遠いところをよう参られた」
ニコリと邪気なく微笑みかけてみるが、通用した感じはしない。……いやむしろ鼻で笑われた?
「井伊殿、勘助はどこに」
「本丸に呼びにやらせております」
早く来て説明してくれないかな。この場をなんとかしないと、そのうち谷が無言のまま三好殿らに切りつけかねない。
谷だけではなく、お行儀よく控えていた父も貧乏ゆすりを始めたぞ。導火線がそろそろ限界だ。
ドン、ドン、と義足を突く重い音が聞こえてきた。その足音が途中で途絶えたのが気になり、全員の視線が開け放たれた廊下側に向かう。
直後、ズシンと重いものが倒れるような音がした。……転んだのか?
「失礼いたします」
やがて聞こえたのは勘助の声ではなかった。
黒い鎧兜を脱いだ渋沢は、豪華さとは真逆の黒い直垂で姿を現した。普段と違うのは、少しくたびれた侍烏帽子をかぶっていることだ。
知っているか? 男前は着古したスウェットを着ていても様になるっていうだろう? それはこの時代でも同じだ。
「渋沢ぁっ!」
見えないところから勘助の怒声が聞こえたが、この場の空気を一気にさらった男前は振り返りもしなかった。




