30-3 遠江~三河
高天神城から引馬城を経由して三河に入る。
道行く先々で、黒々とした軍勢にぎょっとされ、少し間をおいてとってつけたような歓声が上がる。
急ぎの行軍が多いので、こうやってゆっくり領内を見て回るのは久々だった。
夏が迫る山々は青く、田畑も豊かだ。通り過ぎる街並みにも荒れた所はなく、道端に大勢の浮浪者や飢えた子供が座り込んでいることもない。
もちろん、見えないところで苦労している領民はいるだろう。
だが、数年前の寂れた風景に比べると、何もかもが見違えるようだった。
何よりこの二年間、戦で田畑や街を荒らされなかったのが大きい。
「とのさまー」
少し遠くから、子供たちの呼ぶ声が聞こえた。
ひときわ見事な鎧武者の渋沢に言っているのだろう。彼らはきっと、道行く軍勢に交じる子供の素性など知りはしない。
「渋沢」
「……は」
「ちょっと左腕を上げてみよ」
少し後ろを進む渋沢が、不思議そうに腕を上げた。
「もっと上」
素直にさっと高く左腕が上がった。籠手も手甲も指貫まで黒い。ここまで黒づくめなのはもはやファッションというには偏執的だ。
キャアという甲高い声がそこかしこから聞こえた。
きっと明後日の顔合わせのことで頭がいっぱいだった渋沢が、びくりと全身を震わせる。
すぐに腕はおろされたが、歓声は背後からずっと聞こえた。
「人気者だな」
きっと顔のほとんどを覆っているその頬あてをはずしていたら、もっと大勢からの歓声が巻き起こっていただろう。……口にはしないけど。
渋沢はさっと周囲に視線を巡らせて、何を思ったか恨みがましげな眼で孫九郎を見た。
いいじゃないか。女の歓声より子供のほうがマシだろう?
ゆっくり目の行軍は、勘助が指定したものだ。あの男が狙っているのは、招集に遅れた家門の兵たちを引き連れてくること。それから吉田城に到着するタイミング。
事が起こったときには三千ほどだった吉田城の兵は、今は五千を超えている。おそらく孫九郎が到着するころには目標の六千に達するだろう。
これだけ派手に集めて、やろうとしているのが戦ではなく縁談の交渉だというのが笑える。渋沢にとっては冗談ごとではないだろうけど。
もちろん松平や織田への圧力ではあるのだが、勘助いわく、幕府との不和は解消されたとアピールする意図もあるそうだ。
今川家はこの時代において屈指の勢力を誇るが、やはり武家の上には公方様や帝がいるわけで、そちらと完全に没交渉だと困ったことになりかねない。
公方が武家に号令を掛ければ、今川家を取り巻く周辺国が一斉に敵に回る可能性もあるのだ。
例えば……そう、二年前のように。
両細川の対立を始まりとした二年前の争乱、今それと同じことができるかと言えば否だ。
細川は同じ家門で身食いをし、足利の権威をさらに縮小させた。今あれと同じ規模の軍勢を用意するのは不可能だろう。
だが十年後、二十年後は? 勢力図がどう書き換わっているかなど、誰にもわかるはずはない。
勘助が今川館で何度も言っていたのは、「幕府は今川家を脅威に感じているだろう」ということだ。これから先は今川家の勢力を削ぐ方向に進みかねず、それを防ぐためにも、中央とうまく付き合っていくのも重要というアドバイスは的を射ている。
今回の土岐家との縁談も、幕府の顔を立てて「話し合い」まで進んだという訳だ。
吉田城に入る直前、最後の休憩となる町で身支度を整えた。
重くて動きづらい直垂は濃い群青色。大きく白抜きされているのは、足利家と同じ丸に二つ引両紋。
一礼して運ばれてきたのは立烏帽子。階位を持っていないとかぶれない細長いやつだ。
「お似合いですよ」
そう言った土井から差し出された扇子を受け取り、孫九郎は重いため息をついた。
「堅苦しい、暑い、重い」
「仕方がありませんよ」
そうなのだ。こんな正装をするのも勘助の指示だ。普通に小具足姿でもいい気がするのに駄目らしい。
着替え終え宿泊していた建物を出ると、外には完全武装の渋沢とその配下の者たちが並んでいた。
渋沢も直垂の予定だったのに、それは完全拒否された。ずるいぞ。
孫九郎のしかめっ面を見ないふりして、渋沢はその場で片膝をついた。
続いて、黒備えの渋沢隊が規律の取れた動きで孫九郎に向かって片膝をつき、頭を下げる。
その場にいた全員の動きが止まってから、渋沢が両手で掲げるように短めの刀を差し出した。
甲斐で父から預かり、すでに返したはずの小太刀だ。
孫九郎が持てば身の丈にあったサイズなのだが、武骨な鎧武者の手にあるといかにも小ぶりに見える。
溜息を飲み込みながら受け取ると、渋沢は手甲で覆われた右手を地面について頭を下げた。
かなり見ごたえがあるその情景に、途中まで出かかっていた苦情を飲み込んだ。
この場にいるのは渋沢隊だけではない。今から合流を目指す者もいるし、何より大勢の町人たちが息を飲んでその様子を見守っている。
……さすがに空気は読んだ。
「参ろうか」
孫九郎は端的にそう言って、普段よりキラキラしく飾り立てられた白桜丸のもとへと足を進めた。




