30-1 遠江 掛川城~
松平の翁が、大勢の間者たちの口をふさいで逃亡した。
ある程度は予期していたが、本当にここまでやるのかと溜息がこぼれた。
いや、たった一つのほころびで一族家門が滅びるこの時代、孫九郎のように甘い考えでは生き残れないのだろう。
厳しい決断をした翁を責める気にはなれない。弱者には弱者の戦い方があり、松平の翁は最効率を考えて動いている。
それが正しいか否かは、のちの時代にならなければわからないだろう。
結論を言えば、福島家を揺さぶり、内紛の種をまき、いずれ今川家の姻族として食い込む翁の計画は破綻した。
時間をかけたその策が成功する可能性は低くはなかった。
だが気づかれた時点で方針を替え、何も知らないふりをするべきだったのだ。
あるいは真っ先に頭を下げて謝罪する。そうしていれば、まだなんとかなった。
だが今更だ。
松平の翁は大量の尻尾切りをして、自身の身の安全を優先した。
いやこの言い方は公平ではないな。
翁は間者たちが余計な情報を漏らさないよう手を打ってから、危機に瀕している松平家のもとへ駆けつけようとしたのだ。
やり方はともかくとして、苦しい決断を下したその切り替えの早さには見習うべきところはある。
残念ながら、すべては勘助の想定内なのだが。
その姿が掛川の城下町から消えるのを待ってから、あらかじめ編成しておいた追跡部隊で後を追った。
甲斐から帰還した直後ということもあり、主要な人員は掛川詰めで実績がない若者主体で編成された。
大将は父、副将兼参謀は二木。それ以外の、普段ともに前線に赴く面々は外された。
父の側近である中村甚兵衛(嫡男)は絶望したような表情になったが、心配するな。ただの二木の意趣返しだ。
思いっきり二木の都合全開の配役だが、あえて孫九郎は口を挟まなかった。
今回のような、危うく内紛という事態に陥ったのも、父が馴染みばかりを連れて連戦しているせいだ。
人間、同じ顔触れがずっと一緒にいると、どうしても派閥が出てきてしまう。
気心知れた仲も悪くはないが、人員は適度にシャッフルして、風通しを良くしておくべきなのだろう。
対松平戦の総大将は井伊殿だ。父は逃げ出した松平の翁を追い立てる猟犬役で、兵数的にも主戦力ではない。
今回のことで最も激怒しているのは福島家当主たる父なのは間違いないが、甲斐で大きな戦功をあげた直後であり、福島軍にはそれなりの被害もあったし、何より……井伊殿の出番を奪っては申し訳ない。
孫九郎は諸事情から、父のいない掛川城に滞在し続けるのは安全ではないとされ、お葉殿と幸松が高天神城で療養するのを送っていく役割を引き受けた。
妊婦と怪我人を連れて行くのだから、なによりも身体に負担がかからない移動を重視し、半日で済む行程に丸二日を掛けた。
周囲を飛び回っていた所属不明の忍びたちが、のんびり移動を楽しんでいる孫九郎よりも、殺意満載の形相で松平の翁を追い立てる父や、ちくちくと松平家を虐めている井伊殿に注視するのは当然ともいえる。
忍びの人的リソースは有限なのだ。
「残り五名ほどです」
常になく機嫌のいい弥太郎が、ウキウキの口調で報告してきた。
普段から当たり障りのない笑顔がデフォルトの男だが、付き合いも長くなってくるとわずかな声の調子で上機嫌なのが伝わってくる。
何がそんなに楽しいのか、聞かずともわかってしまうのが複雑だ。
「……ほどほどにな」
それ以上言わなかったし、弥太郎も問い返しては来なかった。
「ふふふ」という声というか息のようなものが漏れ聞こえたが、スルーした。
あと少しで高天神城が見えてくるあたりで、盤上の準備が整ったという報告を受けた。
松平の翁は、父に追い立てられながら大回りで三河にたどり着き、それとほぼ時を同じくして、案の定、宗家と分家で大揉めだそうだ。
織田軍は宗家の若き当主の後押しをして、分家の切り崩しにかかっている。
圧力を掛け服従を迫っているそうで、それが織田家にではなく宗家に向けてなので反発もしにくい状況らしい。
孫九郎が提示した条件はすでに分家当主らに届いているが、内容が難問なだけにすぐに結論を出すことができず、分家はどういう立ち位置を取るかで揺れている。
その間も、井伊殿は井伊殿でプレッシャーをかけ続けていた。
軍勢はまだ吉田城から出していないが、豊川の渡河準備を始めたようで、これ見よがしに船橋の資材を集めて、すぐにでも組み立てることができるようにしているそうだ。
さて、釜の中はぐつぐつと煮立ってきた。
そろそろ、勘助プレゼンツ、次の舞台の幕が切って落とされようとしている。
「お勝殿!」
よくとおる大声に、顔を上げる。
目を凝らすと、木々の間に親指ほどの騎影が見える。
まだその容姿は判別できないが、届いた声から誰かはわかった。
土埃を舞い上げ駆け寄ってくる馬が、みるみる間に大きくなる。
ほんのわずかに身構えていた護衛達も、単騎かつ馴染みの相手だったのですぐに肩の力を抜いた。
「叔父上」
源九郎叔父は小袖に袴の軽装で、なんなら刀も短いものしか身に着けていなかった。
この叔父も孫九郎の大事にしている親族だと、おそらく多くの者が知っている。護衛どころか武装もないのは危ないのではないか。
そう心配しているのは孫九郎だけではないようで、叔父の背後から二十ほどの騎影が距離を詰めてくるのが見えた。
護衛がいないわけではなく、また単騎駆けしたのか。本当に父によく似ている。
「支度はできておりますぞ」
叔父の好戦的な表情に、反射的に笑顔を返していた。
火傷の跡が目立つ叔父の顔に、なおいっそう深く笑い皺が寄る。
並んでゆっくりと馴染みの風景を堪能し、ニコニコ顔のまま小声でこれからの打ち合わせをした。
五人いたという忍びたちは、すでに追い払われている。不自然ではない程度に圧を掛け、遠ざけたというべきだろうか。
おそらく今の段階で、盤面を冷静に読めている者はいないだろう。
わかっていて探れば、今川の都合のいいように配置されている事に気づけたかもしれないが、だとしても、すでに台本は動き始めた。
坂道を転がり始めた雪玉を止めるのは難しい。
この時代特有の情報伝達のタイムラグが、なおいっそうそれを困難にする。
敵味方ともに、一度始まってしまえば最後まで突き進むしかないのだ。




