29-7 遠江 掛川城13
井伊殿への書簡は書き上げたが、彦次郎に渡すのは後にした。
勘助からの返書を待つ方がよいと思ったのだ。
彦次郎が吉田城を出たのは暗いうちだというし、とんぼ返りをする前に休ませた方がよいというのもある。
「失礼いたします」
居室の外から次郎三郎の声がした。
「彦次郎殿はお休みになられました」
ちなみに、二木との喧嘩を止めたのは志郎衛門叔父だ。先ほど怒っていたのはそれが原因のようだ。相も変らぬ鉄拳制裁で二木をやり込め、たまりにたまった仕事をさせているらしい。
身近で接していると危ういところばかりが目につくが、文武の両方に秀でたなかか使える奴なのだ。黙っているときに限るというのは大いに問題だが。
そんな二木は、駿府福島屋敷で家宰を務める中村平三郎を伴って掛川に戻ってきていた。
平三郎がどうしてもと言ってきたからだそうだが、十中八九、二木がそそのかしたのだと思う。
福島屋敷のことは副家宰と早田に任せ、家門の不始末を償いたいと申し出てきた。
今回のことで家老中村家は世代交代するだろう。
幸いにも嫡男は父の側近として長く側にいた男なので、問題ないと思う。
弟の平三郎はその下で、実務を担うことを希望しているそうだ。
長く戦場にいた兄と、実務者畑の弟。まるで父と志郎衛門叔父のように、なかなかかみ合った組み合わせだ。
「……お伺いしてもよろしいでしょうか」
三河周辺の地図を前に、弥太郎の薬湯をすすっていた孫九郎は、おずおずとそう声を掛けられて顔を上げた。
斜めに差し込んでいる日差しのせいで、逆光になる次郎三郎の表情はよく見えない。ただその声色で、何か思い悩むことがあるのだとわかった。
「何だ?」
孫九郎は飲み終えた湯呑を脇に置き、次郎三郎向き直った。
少し恐縮するような気配がしたが、しばらくして意を決したように顔を上げる。
「足並みが揃わないのは何故でしょう」
「松平のことか?」
問い返してみると、やああって次郎三郎は頷いた。
「……はい」
次郎三郎が聞きたいのは、同じ家門がどうして力を合わせることができないのか……そういう表面どおりの意味ではないだろう。
「誰かが策を練ったのかと聞きたいのか?」
次郎三郎からの返答はなかったが、否定もなかった。
「有り得ることだし、勘助あたりが小細工をした可能性はあるが……それだけではない」
真剣にこちらを見ている少年は、いくらか肉はついてきたものの、まだ信濃にいたころとさほど変わらない。
見た目より幼く見えるのは孫九郎と同じだが、彼が苦労知らずだと思う者はいないだろう。
欲深い大人たちのあれやこれやを見てきて、なおその目が光を失わずにいるのは幸いだと思う。
孫九郎は「うんうん」と首を上下させた。
「小さな魚を大きな魚が食い、その大きな魚をもっと大きな魚が食う」
ゼスチャーで、山女魚サイズから両手いっぱいにまで大きく手を広げた。
「松平宗家はできるだけ早く、食われない大きさになりたいのだ」
次郎三郎が、駿河に来て巨大な魚を目にして驚いていたことを思い出しながら続ける。
「ですが一致団結して外敵に当たれば、大きな魚とも戦えるのでは」
「そう思うか?」
次郎三郎は頷こうとして、懐疑的な表情になった。
「わかりません。信濃は小さな国人領主が多いので」
そう、小さな勢力があつまって外敵を退けるというのは理想だが、現実的ではない。
どんぐりの背比べの拮抗は長くは続かず、いずれどこかひとつが突き抜けるだろう。バランスが崩れた後どうなるかはわからないが、すべてが生き残ることができないのは確かだ。
「規模は問題ではない。たとえば下級武士の家とて、同輩より力をつけて大きくなろうとするだろう」
「人の欲ということですか?」
「欲と言うよりも、生存本能だな」
「せいぞんほんのう」
「要は、生き残りたいのだ」
伝わったかな? 理屈ではわかっても、感情的に理解できないかもしれない。
この時代の武士は、武士であることを誇りに思い、そのために命を懸けよと教えられて育つからだ。
「その方も生き残りたいであろう」
「はい」
「家族を守りたいであろう」
「はい」
「それは誰もが同じだ」
次郎三郎は少し考えて、再び孫九郎を真正面から見つめた。
「つまり、生き残りたいという欲を突けば崩れるという事でしょうか」
おおっと?
陰になってよく見えないが、無垢とはちょっとちがう、その強い眼差しにひそかに笑った。
「生き残り、より強く、より大きく、より高い地位を望む。周囲から食われないために、侮られないために、誰からも脅かされないために」
そして人間が普通の生き物と違って厄介なのは、そこに「見栄」や「プライド」が混じってしまうことだ。
「御屋形様もそうなのでしょうか」
孫九郎は西日に照らされた次郎三郎に向かって、目を細めて笑った。
どうやら次郎三郎を見くびっていた。頭のいい子だというのはわかっていたのに、本質的な話など無意味だった。
この子は「松平が宗家と分家に分かれて足並みがそろわない理由」を知りたいわけではない。「どうすれば足並みがそろうか」を知りたいわけではない。そんな彼らを「利用して分断しようという策」を知りたいわけでもない。
「今この戦況から、松平が生きのこる方法はある」
室内にいる他の誰かが、息を飲む音がした。
次郎三郎が身を乗り出し、おかげでその表情が少しうかがい知れた。
「今川にも織田にも頭を下げぬ方法がな」
「それは……」
「知りたいか?」
「はい」
いや、これは宿題にしよう。
意地悪をしているわけではない。松平の間者が混じっているからというわけでもない。
同じ質問をして、勘助や承菊なら四通り以上、二木でも二、三通りは献策できるだろう。
いずれ次郎三郎もそこまで育てたいと思ったからだ。
ちんまいのが、孫を見るような目で少年を見ている風景w
傍目にはたぶんシュール




