28-3 遠江 掛川城2
全員が腰を浮かせたといっても、もともと掛川城にいた者たちだけだ。
父は腕組みをしたまま動かない。幸松も平然と背筋を伸ばして座っている。
孫九郎は襖際に座ったまま、慌てふためく男たちを観察した。
誰もかれも顔色が悪い。
それはほのかに漂ってくる煤けた臭いのせいか。徐々にはっきりしてくる煙のせいか。
この時代のほとんどが木造建築なので、確かに火災は天敵。いったん火が付いたら、完全な消火はなかなか難しいのは確かだ。
だが、この城の者たちにはわからないのか? 実戦経験が浅い幸松にすら感じ取れているのに。
だが……そうだな。前線を知らない者たちにとって、判別は難しいのかもしれない。
血の臭いがない。臓物と脂肪が混じった悪臭がない。
剣戟も悲鳴も、ひとつひとつ命が踏みつぶされていくぞっとするような空気もない。
だが確かに、だたのボヤとはちがう、例えるなら鋭利な刃物の上でバランスをとっているかのような緊迫感がある。
孫九郎は鼻から深く息を吸い込み、徐々に煙る視界の向こうにある西日の残滓を見据えた。
生暖かい風は、すぐそこにある夏のものだ。
じっとりとまとわりつく熱に鳥肌が立った。
……来る。この感覚を知っている。
「御屋形様」
志郎衛門叔父に呼ばれて初めて、自身が笑っていることに気づいた。
「……くいついたようです」
若干の逡巡を含んだ、しかし期待通りのその言葉を聞いて、「ははっ」と短い哄笑がこぼれた。
ここまで勘助の策通りに進むのか。ある程度の猶予、不測の事態込みのはずなのに。
軍略というよりも運命の操り手、まさしく盤面の差し手だ。
「中村」
自身の声が、いまだ薄い哄笑を含んで福島家家老の名を呼んだ。
「はっ」
返答をしたのは腰を浮かせた白髪頭の家老ではなく、父の腹心である家老の嫡男だ。
「縄を引け。よい塩梅だ」
「お、お待ちください。いったい何が」
真っ青になった掛川城の者たちは、目だけを大きく開いてきょろきょろと視線を動かしている。
家老は嫡男の又兵衛を助けを求めるように見たが、又兵衛は自身の父親や親族たちを一瞥もせず、まず孫九郎に、次いで腕組みをして動かない父に、最後に幸松にも頭を下げてから去っていった。
家老らは、その毅然とした背中が振り返りもせず遠ざかっていくのを、なおも顔色を悪くしながら見送る。
「ひ、火を消さねば」
ますます煙が濃くなり、状況がわかっていない者たちが青白い表情で懇願するように父を見る。
「このままでは城が」
だが父は動かない。
孫九郎は襖際に座ったまま、扇子を口元に当てた。
「何を慌てている。城のひとつやふたつ」
それを聞いて幾人かがこちらを睨む。まさか孫九郎が火をつけたとでも思っているのか?
つい失笑がこぼれた。
「殿、避難いたしましょう。ここまで火が迫っているのやもしれませぬ」
家老が孫九郎から視線を外し、父に向かって強い口調で言った。
「殿!」
ほかの者たちも口々にそう言い立て、身を乗り出してくる。
父はやはり動かない。ただ段々苛立ってきているのがわかる。
その時、遠くでドン! と大きな音がした。地響きを伴うその爆音と、かすかに聞こえる怒声に、大広間の空気はますます緊迫したものになった。
「今のは何の音だ? 調べてまいれ!」
家老がようやくそれらしい指示を出した。重臣の半数が立ち上がり、廊下沿いに並ぶ兵らを見て動きを止める。
「こ、これは」
槍の切っ先がこちらを向いている。
「動くな」
孫九郎が、ゆったりとした声で言った。
しばらく重い沈黙が続き、家老の中村が意を決したようにこわばった表情で非難の声を上げた。
「いくら御屋形様とはいえこのような」
「黙れ」
幸松の冷ややかな口調に反発を見せたのは、家老らではなくお葉殿の兄にあたる中山家嫡男だった。家老の態度に背中を押された雰囲気だ。
「若君、いくらなんでもこれは。黙っていてよい問題ではございませぬ」
「そうでございます! このままでは掛川城が燃えてしまいます」
「黙れと申したぞ!」
口々に出てくる抗議の声に、幸松はひどく険悪な口調で言い放った。
そして、父とうり二つの容貌、まったく同じ姿勢で腕組みをした。
「従えぬなら去れ。そして二度と顔を見せるな」
はっと息を吸い込んだのは誰だろう。
大広間で浮足立っていた重臣のうちの幾人かが、幸松と父とを交互に見た。
彼らは何かに気づいたように、緊張した表情でそっと座りなおす。
その中に家老の中村が含まれていたのは、良い兆しだ。
ふと父が顔を上げた。一瞬後に幸松も、父と同じ方向に目を向ける。
孫九郎には全く感じ取れなかったが、何かが聞こえたのかもしれない。
数秒後、孫九郎の耳にもはっきりと届いた。
カンカンと鐘を打ち鳴らす音だ。火の手が強まっているのだろう。
「殿! 若君!」
混乱した何人かが立ち上がろうとしたが、顔色の悪い半数以上が「動くな」という命令に従って微動だにしなかった。
いいね。マテができるならまだ見どころがある。
「合図ですな」
志郎衛門叔父の声が、やけに大きく聞こえた。
いつの間にか大広間は静まり返っており、先ほどまでは騒いでいた者たちは廊下にずらずらと並んでいた槍兵たちに切っ先を向けられ声を上げることもできずにいる。
耳をすませば、確かに小さくピーと笛の音が聞こえた。これが叔父の言う合図か。随分かわいらしいが。
しばらくして、家老中村の嫡男、中村又兵衛が戻ってきた。
出た時と同じ直垂に武者烏帽子姿だが、ふわりと漂ってくるのは血の臭いだ。
「捕縛しました」
又兵衛の端的な報告に、父が重々しく頷いた。
その背後から簀巻き状態で運ばれてきたのは、記憶にあるより萎びた風情の仙人……ではなく松平の翁ともう一人、無精ひげの武士だ。
そいつが例の榊原だと聞いて、ちょっとがっかりしたのは内緒だ。
いや「魅惑的な夏のお嬢さん」じゃないってことはわかっていたんだけどね。




