27-6 駿河 駿府 福島屋敷6
結局、父の口から幸松や幸に対する言葉はなかった。お葉殿のもだ。
孫九郎とほかの子供らへ対する態度の違いは、気のせいでも照れ隠しでもなく、最近ではもっと深刻なものがありそうだと察している。
だが非難されるほどひどい扱いをしているわけではない。
いい年をした大人の感情面に子供が口を挟むべきではないとも思う。
だがそれが、付け入られる隙になるほど露骨だというのは困る。
どうしたものかと思案しながら、部屋に戻る途中の回廊から庭を眺めていると、別れ際に目で合図してきた男が庭先から近づいてくるのが見えた。
早田は低木の陰に膝をつき、闇と一体化した。
近づいているのを見ていなければ、そこにいることに気づけなかっただろう。
孫九郎は扇子を抜き、軽くぱちりと開閉した。
「……用件は」
田所老が言うように、幸の側付きとして駿府に来たことは間違いないだろうが、その表情から何か深刻な話があるのはわかっていた。
わざわざ孫九郎に直接言いに来るあたり、幸松か幸の事だろうと想像はつく。
よい話では百パーセントないなと思いながら、覚悟を決めて闇を見据えた。
しばらくして暗がりから聞こえてきた声は、低くかすれていた。
「中山家が幸姫様の側室入りを推し進めております」
なんだと。
「松平からの継室を阻止するのが目的のようです」
田所老からそのような話はなかった。
知らないという事があるだろうか。どうせどちらも成立しない婚姻話だ、父を慮って口にしなかったのかもしれない。
「……中山はいつから主家の婚姻に口を挟めるようになったのだ?」
言ってはなんだが一介の馬周り衆。良く言っても中堅どころの家門で、福島家の家臣団の中での序列は高くない。
ただ、お葉殿の実家だということで優遇されていることはあるだろうが、父の不在時の掛川は志郎衛門叔父が目を光らせている。一門衆筆頭を飛び越えてそんな話ができるほどの権限はないはずだ。
「早田家もそれに賛同しております」
躊躇ないその暴露に、苛々と扇子をいじっていた孫九郎の手が止まった。
視線を再び闇に向け、そこにいるのであろう男を見定めようとじっと見をこらす。
何かの罠かと疑ったのは一瞬だった。実家の家門を告発しても、この男に利はない。
孫九郎はしばらく考えて、もしかしてと口を開いた。
「……中村もか?」
榊原が潜入していたのは家老中村の家だ。こちらも賛同しているとなると、事態は思った以上に深刻だ。
早田からの返答はなかった。中村家がかかわっていないのなら「否」と即答したはず。
孫九郎はため息をついた。
やはり、当主を長く領地から離すのは危険なのだ。家臣がそれぞれ好き勝手なことをしようとする。
「それだけか? 他には」
暗がりの早田が身じろぎ、がさりと茂みが擦れる音がした。
これ以上まだ言いにくいことがあるのか、しばらく妙な間が空く。
「口止めされております」
「誰に」
早田はなおもためらっている様子だったが、やがて小さな声で「お方様に」と続けた。
お葉殿はこの男の従姉だと聞く。そもそも幸松の側付きをしていたのもその縁からだ。姉弟程度の年齢差の二人が、親しい仲だというのは想像がつく。
ふと、もしかして不義の相手は……と下世話な勘ぐりをしたところで、「ずっと寝込んでおられます」と早田の言葉が続く。
「悪阻ではないのか?」
それともまさか、なにか重篤な病気なのだろうか。
いや、幸松からも幸からもそんな話は聞いていない。
「悪阻ではあるのかもしれませぬ。ですが食事も喉を通らず、日ごとに窶れていっておいでです」
「身ごもった女子によっては悪阻が重いとも聞く」
本当に深刻になると、栄養がとれずに点滴入院する妊婦もいるそうだから、こういう時代では悪阻期を乗り越えられない妊婦もいるだろう。
「それだけではありませぬ」
早田の口調に、聞き逃しようもない憤慨の感情が含まれた。
これまでずっと、何もかもに蓋をして押し込めたような態度でいたが、もともとのこの男は感情のわかりやすい男だった。
その極端な気質は六年の戦場でいくらか矯正されたようだが、人間の本質は簡単には変わらない。
「お方様の懐妊を責め、本当に殿の子かと」
早田の吐き捨てるような言葉を聞いて、孫九郎の腹にも怒りがわいた。
「お葉殿にそう言ったのか? 中山が?」
「はい。この耳で聞きました」
更には、幸松も幸もいるのだから、今更もう子は要らぬというようなことを言い放ったそうだ。
もともと幸松や幸が父の子ではないという噂はずっとあったから、中山はさらに子ができても疑惑が深まるだけだと思ったのかもしれない。
父親からのその心ない言葉にお葉殿はショックを受け、そこから悪阻期も相まって寝込むようになってしまったらしい。
お葉殿の腹の子は福島の子だ。幸松や幸、孫九郎の弟か妹なのだ。
わかっていてそんなことを言ったのなら、冗談では済まされない。
「……わかった」
孫九郎はぐっと怒りを押し殺して静かに言った。
「明日、家宰と話をする。付き合え」
はっとしたように顔を上げる気配がした。
福島屋敷の家宰は中村氏だ。福島家の家臣には中村という姓の者は多い。その中でも家宰の中村は本家筋だと聞いたことがある。
つまりは、家老中村の意向を知っている可能性がある。




