27-1 駿河 駿府 福島屋敷1
随分と暗くなってしまった。
この季節で夕闇が迫る刻限となればかなり遅い。少なくとも他家を訪問してよい時間帯ではない。ここは家族枠で勘弁してもらおう。
孫九郎はそう思いながら裏口から福島屋敷に入り、幸が待つ部屋へと案内された。
だが、締め切られた部屋は静かで、光ひとつもれていない。
「暗いな……待たせすぎたか?」
案内してくれたのは顔見知りの家人で、どことなく困ったような表情をしている。
何かあったのか? 孫九郎が遅すぎて拗ねているとか。
谷が警戒していないので、身の危険に触るようなものではないのだろう。
「幸? いるのか?」
廊下からそっと声をかけても返答がない。
「幸? 入るぞ」
もしかすると眠ってしまったのかもしれないと、音をたてないように障子をスライドさせる。
室内には灯明ひとつ灯っておらず、真っ暗だった。やはり眠ってしまったか、待たせすぎて別の部屋に行ってしまったか。
しかし、暗闇の中から「あにうえさま」と、おぼつかない声が返ってきた。
その泣いているとわかる声を聴いた瞬間、「泣かせたのはどいつだ」と口をついて出そうになった。ギリギリで堪えたのは、孫九郎が言えば洒落にならないことになるからだ。
ぐっと言葉を飲みこんで、気を取り直して部屋に踏み入る。
「どうしたのだ、何かあったのか? この兄に言うてみるがいい」
「あ、あに……兄上様」
小さく所在無げな嗚咽が聞こえる方に進むと、暗がりに濡れた目がきらめいた。
「幸」
膝を折り、そっと声をかけると、「わっ」と声を上げてしがみついてくる。
膝に縋り付く幸をそっと撫でる。手に触れた着物の湿った感触で、ずっと泣いていたのだとわかった。
泣きすぎてしゃくりあげる声も枯れ、口達者な彼女が言葉も出ない様子だ。
しばらく黙ってただ背中をさすっていると、やがて幸はぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「……なんだと」
「嫌でございます。嫌でございます。お家のために嫁ぐのは武家の娘の務めですが、翁の妾は嫌でございます」
どうやら幸は、尾びれも背びれも胸びれもついた噂を聞いて、松平の翁が己を妾に欲しいと言ってきていると思い込んだようだ。
どこの誰がそんなあり得ない話を幸の耳に入れたのか。
またもせりあがってきた怒りを数秒かけて飲み込む。
「幸」
孫九郎は優しく妹の名前を呼んで、ぶるぶる震えているその背中を撫でた。
「幸がふしあわせになるような所へは嫁にはやらぬ。約束する」
「で、ですが母上が」
まさかお葉の方がそんな馬鹿げた話を幸にしたのか? そんなはずはない。
「思い出してごらん。お葉の方は何と言った?」
「よ、嫁のっ、嫁の貰い手がなければ、うんと年上のお方の側室に入ることになるかもしれないと」
「幸に嫁ぎ先がないとは思わないし、お葉の方が言ったのは「かもしれない」だろう? 大丈夫、そんなことにならならぬ」
「まことですか?」
「いざとなればこの兄が見繕う故、心配せずともよい。より取り見取り、いくらでもおる」
「……まことに?」
「ああ」
「まことのまことに?」
「この名にかけて」
そこまで言ってようやく、幸は安堵したように手の力を抜いた。
それまで思いっきり、袴の上から、太ももの肉というより皮をつかまれて痛かったのだ。
おそらくお葉殿は、破天荒なおてんば娘に手を焼いて、おとなしくさせようと叱責したのだろう。気持ちはわかるが、子供は親の言葉を本気にするのだ、下手なことを言ってはいけない。
その言葉に傷ついている間に、釣書をもった松平の翁が福島屋敷にくると聞き、何故かそれを関連付けてしまった。
確かに、福島屋敷に届く釣書となれば、相手は幸松か幸だろうと推測するのは間違っていない。
だがここまで飛躍した思い込みをしたのには理由があるはずだ。
屋敷の誰かが面白おかしく噂をしていたのかもしれない。
そもそも、松平の翁が来ることが幸の耳に届くのもおかしい。
「翁が釣書を持ってくると、誰から聞いた?」
できるだけ優しく尋ねたつもりだ。だが幸はびくりと身をこわばらせ、おずおずと顔を上げた。
暗がりで、そのまつ毛にたまっていた涙が転がり落ちるのがはっきり見えた。
孫九郎は小さく咳ばらいをして、いくらか怯えた表情の幸にニコリと笑顔を向ける。
「誰から聞いたから、そんな突飛な考えをしたのだろう?」
お気楽な噂を好き勝手にばら撒き、幸を誤解させたのはどこのどいつだ。
「あの、違うのです。勝手に父上たちの話を盗み聞きしただけです」
「父上が幸の釣書だとなどというはずはない」
心配ないから、誰から聞いたのか教えてと、優しく優しく質問したのに、幸はものすごく泣きそうな顔をして唇を震わせた。
その目に再び涙が浮かんだのが、暗がりに光って見えた。
幸をなんとか宥め、眠りにつくまで見守ったのち、孫九郎は父と幸松が待つ部屋に向かった。
入ってすぐ、頭を下げて孫九郎を迎えた男の姿に、心底ムッとする。
ずかずかと近寄り、すまし顔で頭を下げている元凶の額を、思いっきり扇子で打擲した。
「痛てっ」
非常にいい音がして、二木は叩かれた所をかばうような仕草で両手を上げた。
「なにするんですか!」
「天誅」
「は?」
語尾を跳ね上げるような胡乱な返しに、もう一発と扇子を振り上げようとして、ガードの姿勢をとる二木に顔をしかめる。
「叩かせろ」
「いやですよ!」
「いいから叩かせろ」
「どうしたのだ、お勝」
父の訝し気な声に、まだ溜飲は下がらないまでもお仕置きは後にしようと我慢する。
「……いつものことです」
二木のやらかしはいつもの事。おそらく、幸が聞き耳を立てているのを知っていて、わざと混乱させるようなことを言ったのだ。
こういうことに父は鈍感だから、いつもの二木の悪態と気にも止めなかったのだろう。
よくもあの子の耳に汚れた諸々を吹き込んでくれたな。
やはりここでお仕置きだと、ぎゅっと扇子を握りこんだ瞬間、父の真横に座っている幸松に気づいた。
大きな目が孫九郎を見ている。
「ああ、幸松。遅くにすまない」
この子の目の前で二木を折檻しまくるわけにもいかない。
お仕置きは明日に持ち越しだなと、怒りを念入りに腹の中に納めた。




