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春暁記  作者: 槐
駿河遠江三河編

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232/301

27-1 駿河 駿府 福島屋敷1

 随分と暗くなってしまった。

 この季節で夕闇が迫る刻限となればかなり遅い。少なくとも他家を訪問してよい時間帯ではない。ここは家族枠で勘弁してもらおう。

 孫九郎はそう思いながら裏口から福島屋敷に入り、幸が待つ部屋へと案内された。

 だが、締め切られた部屋は静かで、光ひとつもれていない。

「暗いな……待たせすぎたか?」

 案内してくれたのは顔見知りの家人で、どことなく困ったような表情をしている。

 何かあったのか? 孫九郎が遅すぎて拗ねているとか。

 谷が警戒していないので、身の危険に触るようなものではないのだろう。

「幸? いるのか?」

 廊下からそっと声をかけても返答がない。

「幸? 入るぞ」

 もしかすると眠ってしまったのかもしれないと、音をたてないように障子をスライドさせる。

 室内には灯明ひとつ灯っておらず、真っ暗だった。やはり眠ってしまったか、待たせすぎて別の部屋に行ってしまったか。

 しかし、暗闇の中から「あにうえさま」と、おぼつかない声が返ってきた。

 その泣いているとわかる声を聴いた瞬間、「泣かせたのはどいつだ」と口をついて出そうになった。ギリギリで堪えたのは、孫九郎が言えば洒落にならないことになるからだ。

 ぐっと言葉を飲みこんで、気を取り直して部屋に踏み入る。

「どうしたのだ、何かあったのか? この兄に言うてみるがいい」

「あ、あに……兄上様」

 小さく所在無げな嗚咽が聞こえる方に進むと、暗がりに濡れた目がきらめいた。

「幸」

 膝を折り、そっと声をかけると、「わっ」と声を上げてしがみついてくる。

 膝に縋り付く幸をそっと撫でる。手に触れた着物の湿った感触で、ずっと泣いていたのだとわかった。

 泣きすぎてしゃくりあげる声も枯れ、口達者な彼女が言葉も出ない様子だ。

 しばらく黙ってただ背中をさすっていると、やがて幸はぽつりぽつりと事情を話し始めた。

「……なんだと」

「嫌でございます。嫌でございます。お家のために嫁ぐのは武家の娘の務めですが、翁の妾は嫌でございます」

 どうやら幸は、尾びれも背びれも胸びれもついた噂を聞いて、松平の翁が己を妾に欲しいと言ってきていると思い込んだようだ。

 どこの誰がそんなあり得ない話を幸の耳に入れたのか。

 またもせりあがってきた怒りを数秒かけて飲み込む。

「幸」

 孫九郎は優しく妹の名前を呼んで、ぶるぶる震えているその背中を撫でた。

「幸がふしあわせになるような所へは嫁にはやらぬ。約束する」

「で、ですが母上が」

 まさかお葉の方がそんな馬鹿げた話を幸にしたのか? そんなはずはない。

「思い出してごらん。お葉の方は何と言った?」

「よ、嫁のっ、嫁の貰い手がなければ、うんと年上のお方の側室に入ることになるかもしれないと」

「幸に嫁ぎ先がないとは思わないし、お葉の方が言ったのは「かもしれない」だろう? 大丈夫、そんなことにならならぬ」

「まことですか?」

「いざとなればこの兄が見繕う故、心配せずともよい。より取り見取り、いくらでもおる」

「……まことに?」

「ああ」

「まことのまことに?」

「この名にかけて」

 そこまで言ってようやく、幸は安堵したように手の力を抜いた。

 それまで思いっきり、袴の上から、太ももの肉というより皮をつかまれて痛かったのだ。

 おそらくお葉殿は、破天荒なおてんば娘に手を焼いて、おとなしくさせようと叱責したのだろう。気持ちはわかるが、子供は親の言葉を本気にするのだ、下手なことを言ってはいけない。

 その言葉に傷ついている間に、釣書をもった松平の翁が福島屋敷にくると聞き、何故かそれを関連付けてしまった。

 確かに、福島屋敷に届く釣書となれば、相手は幸松か幸だろうと推測するのは間違っていない。

 だがここまで飛躍した思い込みをしたのには理由があるはずだ。

 屋敷の誰かが面白おかしく噂をしていたのかもしれない。

 そもそも、松平の翁が来ることが幸の耳に届くのもおかしい。

「翁が釣書を持ってくると、誰から聞いた?」

 できるだけ優しく尋ねたつもりだ。だが幸はびくりと身をこわばらせ、おずおずと顔を上げた。

 暗がりで、そのまつ毛にたまっていた涙が転がり落ちるのがはっきり見えた。

 孫九郎は小さく咳ばらいをして、いくらか怯えた表情の幸にニコリと笑顔を向ける。

「誰から聞いたから、そんな突飛な考えをしたのだろう?」

 お気楽な噂を好き勝手にばら撒き、幸を誤解させたのはどこのどいつだ。

「あの、違うのです。勝手に父上たちの話を盗み聞きしただけです」

「父上が幸の釣書だとなどというはずはない」

 心配ないから、誰から聞いたのか教えてと、優しく優しく質問したのに、幸はものすごく泣きそうな顔をして唇を震わせた。

 その目に再び涙が浮かんだのが、暗がりに光って見えた。


 幸をなんとか宥め、眠りにつくまで見守ったのち、孫九郎は父と幸松が待つ部屋に向かった。

 入ってすぐ、頭を下げて孫九郎を迎えた男の姿に、心底ムッとする。

 ずかずかと近寄り、すまし顔で頭を下げている元凶の額を、思いっきり扇子で打擲した。

「痛てっ」

 非常にいい音がして、二木は叩かれた所をかばうような仕草で両手を上げた。

「なにするんですか!」

「天誅」

「は?」

 語尾を跳ね上げるような胡乱な返しに、もう一発と扇子を振り上げようとして、ガードの姿勢をとる二木に顔をしかめる。

「叩かせろ」

「いやですよ!」

「いいから叩かせろ」

「どうしたのだ、お勝」

 父の訝し気な声に、まだ溜飲は下がらないまでもお仕置きは後にしようと我慢する。

「……いつものことです」

 二木のやらかしはいつもの事。おそらく、幸が聞き耳を立てているのを知っていて、わざと混乱させるようなことを言ったのだ。

 こういうことに父は鈍感だから、いつもの二木の悪態と気にも止めなかったのだろう。

 よくもあの子の耳に汚れた諸々を吹き込んでくれたな。

 やはりここでお仕置きだと、ぎゅっと扇子を握りこんだ瞬間、父の真横に座っている幸松に気づいた。

 大きな目が孫九郎を見ている。

「ああ、幸松。遅くにすまない」

 この子の目の前で二木を折檻しまくるわけにもいかない。

 お仕置きは明日に持ち越しだなと、怒りを念入りに腹の中に納めた。

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― 新着の感想 ―
二木w その子らは孫九郎の逆鱗なんだと良い加減覚えなさいw 扇子ペシペシで済んで良かったんだぞ。
二木、そろそろ孫九郎くんに手打ちにされないか少し心配 いくら上総介パパの家臣だからという自負があっても、主人の身内に諫言吹き込むのも、孫九郎くんに軽口叩くのも許されて良いものじゃないですからね 孫…
二木はお父さん(福島正成)以外には態度が悪いですからねぇ。 ただ、単に二木が口を滑らせたというのではなく、二木や福島家の者が、幸松や幸がお父さんの子どもでないと疑っていることが根幹にあるのなら不穏です…
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